【万物済同】
万物済同とは、もともと自然には区別などなく、すべての価値は等しいという意味です。しかし、現実の世界には区別があります。人間の側が、世界を理解するため、仮に区別しているからです。事物は、それぞれ名づけられ、区別されているにすぎません。人間は、それぞれの事物を、言葉によって、区別しています。しかし、本来、世界は一つものであり、そこに区別などはなかったはずです。事物は、それぞれ違うように見えますが、もともと全て同じもののはずです。人間は、それらが、別々のものであるという慣習思考にとらわれた状態にあります。
【自然と道】
自然の営みは、完全無欠であり、作為をしなくても全てを成し遂げてくれます。意図的に何かをしようとしなくても、既に完成しているからです。作為をしないことを「無為」と言います。本来、自然は、時間によっても区切られていません。時間とは、あくまで、人間が便宜上、区別してるにすぎないからです。それは、連続する一つのものとして、その過程は決まっているとされています。
荘子は、自然の流れを、いわば一つの音楽のようなものだとしました。その音楽には、始めと終わりがなく、その曲は、常に同じものだとされています。また、すべての現象が起こる原因は、道の働きだとしました。道とは、万物に共通している造化の根本原理のことです。その働きは、永遠に狂いがありません。道は、万物に行き渡っています。それは、ずっと昔から存在しているのに少しも古くなりません。なぜなら、それ自身の本性に従い、絶え間なく活動し続けているからです。それは、常に入れ替わる永遠の循環運動だとされています。
【気と生死】
荘子は、生も死も、同じ連続の中にある不可分のものだとしました。それらは、相反するものではなく、むしろ依存関係にあります。生と死の違いは、気の集散にすぎません。荘子は、この世界は、ただ一つの「気」だとしました。気とは、自然界に充満する、活動的なエネルギーのことです。この気は、無くなることがなく、万物の一切を成り立たせているとされています。すべてのものは、気の変化の一形式に過ぎません。死は、自然の変化にすぎず、むしろ生の始まりとされています。気が集まって人間となり、気が分散されて死ぬからです。死は、肉体という束縛から自由にしてくれる休息のようなものされています。生も、何か特別なものではなく、一個の自然現象にすぎません。人間は、生命という仮の姿をとって、ただ自然の流れによって尽きていくとされています。
【忘我】
本来、すべての事象は、自他の区別のない、ただ一つだけの出来事だとされています。荘子は、我を忘れ、主客が一体となった境地を「胡蝶の夢」と言いました。万物とは、一つの夢のようなものだからです。我を忘れれば、自分が蝶になった夢を見ているのか、蝶が人間になった夢を見ているのかの区別がつかなくなります。常に自他の区別をしているのは、人間の方だからです。荘子は、自然と人間が一体となった境地を「遊ぶ」と表現しました。自然と遊ぶ者は、もはや変化するものに固執しないとされています。