なくもの哲学と歴史ブログ

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柳宗悦の民芸運動

2024-08-14 21:34:00 | 日本の思想

【民芸運動】
 柳宗悦は、日本独自の民芸運動を創設しました。民芸とは、民衆的工芸の略です。通常、我々の目は、習慣的なものの見方に捕われています。そこから、新しい視点を開かせてくれるのが、柳宗悦の民芸運動です。柳宗悦は、今や、創造したり使用する時代が過ぎ去った反省と批判の時代だとしました。民芸運動は、資本主義の時代において、新しいものの見方を示すものだとされています。

 民芸品とは、一般人が日常生活に使っている機能的な暮らしの道具のことです。それは、誰もが持っているようなもので、特別なものではありません。素材も、そこら辺にある頑丈な天然素材から作られたものです。そこには、素朴な美しさがありました。民芸品とは、用「使用すること」のために作られたものです。実際に使うことには、ものを健全にする効果があるとされています。よく使い込むことで、道具には、自然な味が添えられました。そのため、人に奉仕し、働くものにこそ健全な美が宿るとされています。

【職人】
 民芸品は、有名な芸術家の作品ではありません。無名の職人の手仕事によるものでした。その職人によって「繰り返し」同じものが作られたのが民芸品です。その「繰り返し」という作業には、全ての凡人を達人の領域にまで高める力がありました。ただし、同じ人間が作っていないので、全て同じものではありません。

 民芸品の技術は、組合という団体「集団」のものです。その組合内では、常に技術が共有されており、誰かがそれを独占することがありませんでした。また、組合の美「価値基準」というものは、個々の判断より、はるかに大きいものだとされています。

【公共の美】
 民芸品は、無心で作られています。そこに作為はありませんでした。無心で作られたものは、自然に生まれてくるものです。そこには、普遍的な美があるとされています。個人の表現というものは、民芸の目的ではありません。民芸品は、公共の美であり、一時代一民族のものだとされています。また材料には、その地方独自のものを使っていたので「地域性」というものもありました。
 民芸品とは、あらゆる材料を結合させた総合の美です。その総合の美には、自我がありません。それは、仏教の自我を超えた大我のようなものだとされています。民芸には、茶道に通じるものがありました。茶道とは、禅的なものです。柳は、茶道を清貧をむねとする美の宗教だとしました。


【貴族的な品】
 民芸品と相反するのが、豪華で貴族的な高級品です。高級品の美は、故意に作られ、加工させられています。

それらは、意識的に盛られた装飾的な美です。高級品は、あらゆる高度な技術を使って作られています。そのため、個人の分別心による人為的な作品でした。高級品は、市場において、受けるべき以上の高い位置を得ています。そこまで高い地位を得ているのは、国家や金持ちの組織が保護しているからです。そこには、官尊民卑の弊害があるとされています。

 また、資本主義というものは、きわめて商業主義的です。その発展と共に、製品は大量生産され、機械的同質になりました。そうした大量生産品も、民芸品とは、相反するものです。


国学者、本居宣長

2024-07-04 21:15:00 | 日本の思想

【もののあわれ】
 本居宣長は「もののあわれ」を日本の文芸の本質だとしました。もののあわれとは、源氏物語に流れる、一貫した美意識のことです。「あわれ」とは、感嘆詞の「ああ」と「はれ」の合成語です。そのため、もともとは感動を表す言葉でした。もののあわれは、窮屈な宮廷暮らしの女性たちの心から生まれたとされています。例えば、情緒的な「哀愁」や「憂い」など、繊細で儚い女性的な心情のことです。もののあわれは、日本文学の構成要素の一つだとされています。本居宣長は、文学に限らず、そうした感覚は、日本文化全体を象徴するものだとしました。それが生まれるのは、人の心が、外観の事物に触れた時です。

【真心】
 本居宣長は、美しいものを見た時、素直に美しいと感じられるべきだとしました。感じたままの真っ白で素直な心を「真心」と言います。本居宣長は、その真心に従って生きることが、人間本来のあり方だとしました。しかし、現実的には、なかなか真心に従うことが出来ません。何故なら、我々の心は「先入観」や「固定観念」に縛られているからです。人間は、社会の道徳的な価値基準によって、自然な真心が阻害されています。真心には、そもそも道徳的な判断が必要ありません。物事を善悪で判断するのは、儒教的な価値観だからです。本居宣長は、そうした価値観には否定的でした。それらが、もともと日本のものではないからです。儒教的な考え方は、中国から輸入されてきました。


【漢意】
 中国由来のものの考え方を「漢意」と言います。漢意「からごころ」とは、仏教や儒教に影響された心のことです。本居宣長は、それを中国思想に対する批評用語として使いました。日本人は、知らず知らずのうちに、日本文化に内在する仏教や儒教などの中国思想を正当化しています。仏教は、もともとインドが起源です。しかし、日本の仏教は、中国を経由して伝わってきています。そのため、きわめて中国的な仏教でした。

 江戸時代の官学だったのが儒教です。儒教は、道徳的な学問なので、形式的で堅苦しいところがあります。なぜなら、様々な決まり事で、人々を縛ろうとするからです。本居宣長は、儒教的な思考が、人間本来の生き生きとした感情を抑圧していると考えました。


【大和心と惟神の道】
 漢意の対義語を「大和心」または「大和魂」と言います。大和心「やまとごころ」とは、日本古来から伝えられてきた伝統的な精神のことです。それは、芸術や風習として、日本の文化に内在してきました。大和魂は、日本独自の精神性として、日本人の生き方の根底にあるものとされています。本居宣長は、その大和心が、日本人的なものの見方や、考え方を支えているとしました。

 日本固有の宗教とされるのが「神道」です。その神道のことを、惟神「かんながら」の道とも言います。神道には、経典や教義がなく、または開祖もいません。その目指すべき所は、儒教の道徳や仏教の悟りとは異なります。神道では、全てのものは、神々の御心のままに、おのずから生まれてくるものとされています。全ての出来事も、その神々の相互作用が働いて、決められた結果にすぎません。本居宣長は、そこに人為を加えるべきではないとしました。

 日本人のご先祖様を遡っていくと、神話の時代の神々にまで辿り着くことが出来きます。日本という国は、これまで日本人のご先祖様が作ってきました。もし、ご先祖様がいなければ、我々は存在しません。そのご先祖様に感謝を表すのが「祖霊崇拝」です。そのため、神道には、祖霊崇拝的な要素もあります。



賀茂真淵の思想

2024-07-03 20:12:00 | 日本の思想

【賀茂真淵】 
 賀茂真淵「かものまぶち」は、遠江国で、神職の子として生まれました。遠江国「とおとうみのくに」とは、現在の浜松市のあたりのことです。賀茂真淵は、荷田春満に学び、国学者となりました。国学者としては、国学4大人「しうし」の一人に数えられています。賀茂真淵は、日本の古典を重んじ、特に万葉集を研究しました。そのため、その代表作も「万葉考」という注釈書です。賀茂真淵は、学者として古典を研究しただけではありません。彼自身も歌人でした。
 
 
【国学】 
 賀茂真淵は、国学を独立した学問として体系づけようとしました。そのために古典を研究し、その価値を再評価したとされています。賀茂真淵は、自身の著書「国意考」の中で、日本古来の精神への回帰を説きました。「国意」とは、日本人の精神のことです。従来、日本人は、外来の儒教や仏教の影響を受けてきました。国学者の目標は、それ以前の純粋な日本人の精神を取り戻すことです。それには、日本の古典を研究することが必要だと考えました。日本古来の精神とは、具体的には神道のことです。神道は、日本独自の風土の中で、自然発生的に生まれました。それが、日本人の精神の土台にあるとされています。賀茂真淵は、その日本古来の精神によって、現実の政治をも治めようとしました。
 
 
【益荒男振】 
 本来の日本人の心を「益荒男振」と言います。益荒男とは、もともとは立派な日本男児を意味する言葉でした。例えば、勇敢な「軍人」や「兵士」など、強くて逞しい男性のことです。そうした男性は、大丈夫とも呼ばれています。益荒男振「ますらおぶり」とは、歌風や人間のあり方のことです。そうした歌風のことを「万葉調」と言います。万葉調は、奈良時代の、白鳳、天平文化の風潮です。その特徴は、高貴なのに、心が和らぐ感じだとされています。万葉調は、生活における素直な感動を具体的に表現したものです。そこには、技巧などの小細工がありませんでした。益荒男振とは、高く直き心「たかく、なおき、こころ」のことだとされています。「直き」とは、内面のあるがままの感情のことで、それを歌という形で表現したのが益荒男振です。

 
 
【手弱女振】
 益荒男振の対義語を「手弱女振」と言います。手弱女振「たおやめぶり」とは、女性的な歌風や人間のあり方のことで、古今和歌集に見られる、繊細でしなやかな歌風のことです。そうした歌風を「古今調」と言います。古今調とは、平安時代の京都の歌風のことで、素朴な万葉調と比べると、やや技巧的でした。近代に至るまで、その古今調の方が、歌壇の主流となっています。賀茂真淵は、作為的な古今調に対しては批判的でした。それに対して、本居宣長は、古今調の方を高く評価しています。
 
 
【唐国振】 
賀茂真淵は、儒仏思想によって、日本古来の精神が失われたと考えました。そうした外来の思想のことを唐国振「からくにぶり」と言います。賀茂真淵は、その唐国振に対して批判的でした。特に儒教は、人為的で、理屈っぽいと感じたからです。儒教的な道徳は、人間の自然な感情を抑え、考え方を狭くさせてしまいます。そうした考え方は、世の中を治める側にとっては、都合が良かったのかも知れません。江戸時代の官学も、儒教の一派である朱子学でした。朱子学では、人為的な君臣の関係を重視しています。賀茂真淵は、そうした朱子学に対して否定的でした。


内村鑑三の「デンマーク国の話」

2024-03-04 09:52:00 | 日本の思想

【デンマーク】 

 内村鑑三は、明治、大正期に活躍したキリスト者として知られています。彼は、デンマークという小国を賛美しました。デンマークは、現在でも、貧困率が低く、国民幸福度が1位の国として知られています。その面積は、日本の九州大の大きさにすぎません。当時のデンマークの人口は、日本の20分の1でした。しかし、国民一人一人は、日本の10倍もの富を持っていたとされています。デンマークは、天然資源もなく、土地も豊穣ではありませんでした。その主要産業は、酪農と林業で、現在でも酪農大国として知られています。内村鑑三が賞賛したのは、そうした国家ではなく、デンマーク人の精神性でした。

 【敗戦国として】 

 デンマークは、ドイツ、オーストリアに戦争で負けた敗戦国です。その賠償金として、経済的に重要な地域を失いました。そんな時こそ、国民の真価が試される時です。戦勝国の運営は、誰にでも出来きます。しかし、敗戦国の立て直しほど難しいものはありません。どんな国にも暗黒の時代はありました。国が負けても、国民が不幸になるとは限りません。目標がある者には、敗戦など、よい刺激にすぎないからです。戦争に勝っても、内部分裂などによって、滅びた国はいくらでもあります。それは、歴史が証明してきました。 

 現在では、日本も敗戦国です。戦後の日本は、急速に経済復興しました。その要因は、朝鮮戦争と戦前からの産業体制だと言われています。当時の日本には、経済発展を可能にする外的要因と内的条件が揃っていました。そうしたものは、自分たちの力だけでなんとかなるものではありません。いろんな条件が重なり、結果的にそうなりました。ただし、日本人の精神性がなければ、経済復興は成し遂げられなかったとされています。

 【ダルガスの計画】 

 困窮したデンマークを導いた一人の人物がいました。工兵士官だったタルガスです。ダルカスは、敗戦が濃厚だった時から、国土回復の計画を練っていました。その計画とは、デンマークの荒涼とした大地を、肥沃な土地に変えるというものです。ダルカスは、もともとフランス系の人種で、ユグノー党に所属していました。ユグノー党とは、信仰の自由を求めて、外国に脱出したプロテスタントの一派です。プロテスタントには、地上に神の国を実現するという目標がありました。そのため、自分たちの労働は、神から与えられた使命だと考えています。それは、経済を発展させることと何ら矛盾していませんでした。ダルガスは、復讐戦など考えません。戦争は、ただ国を疲弊させるだけだからです。中国の孫子も、戦争は、極力避けるべきだと言っています。ダルガスは、戦争で失ったものを、自国の開発によって、取り返そうとしました。

 【国の改良】 

 ダルガスの武器は「水」と「木」でした。外国産の木を植林しても、その土地に合うかどうかは分かりません。ダルガスは、ノルウェーやアルプス産の樅を植林し、試行錯誤を繰り返しました。植林をすることは、建築用の木材を得ることだけが目的ではありません。樹木のない土地は、熱しやすく冷めやすいものです。樅の林を植林したことで、気候が安定し、穀物や野菜が成育できるような環境になりました。また木には、保水効果があります。それが低地国であったデンマークの洪水の害を防ぎました。確かに、敗戦国デンマークの領土は狭くなったかもしれません。しかし、開発によって新しい国を作りました。それは、戦勝国のように、他国の領土を奪ったものではありません。ただ自国を改造しただけです。ダルガスによって、デンマークには、鉄道や道路などの交通網が敷かれ、経済が発展しました。



西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」

2024-03-02 19:25:00 | 日本の思想

【絶対矛盾的自己同一】 

 西田幾多郎は、異なるものが、異なるままで一つになっていることを「絶対矛盾的自己同一」と名づけました。この絶対矛盾的自己同一という概念は、西田哲学の集大成です。西田は、世界が対立したまま同一性を保っている状態こそが、本来の姿だとしました。例えば、全体と一部は、矛盾していますが、同時に存在しています。一部分も、全て合わせれば、全体となるからです。個々のものは、相互に関係しながら、全体を表現しています。本来、世界とは、全体としては一つのもののはずです。しかし、それを別々のものとして、人間の側が認識 しています。

 世界を区別しているのは、人間の知識や言葉です。しかし、人間の言葉には、限界があります。そのため、全てを正しく言い表わすことができません。自己と世界は、本来、同一のもののはずです。しかし、それが言葉によって区切られることによって、違うものになってしまいます。区別をするのは、我々が慣習的にそうしているからです。思考習慣に従うと「私が」と言う孤立した考え方になってしまいます。我々は、この世界を自分の「偏見」の色眼鏡で見ているようなものです。

 【時間】 

 我々は、共通の時間と空間の形式の中にいます。その中では、全てのものが相互に関係しており、孤立したものなどありません。それは、時間でも同じです。現在だけが、単独で存在しているわけではありません。過去は、消滅したのではなく、現在の前提条件です。反対に未来は、現在の中に内包されています。我々が体験しているのは、永遠の今だけです。「過去」「未来」「現在」は、個別のものではなく、同時に存在しています。この世界には、始めと終わりがありません。時間とは、円のように循環する無限の過程の中にあります。一つ一つの瞬間という点が、始めであり終わりです。 

 【自己と関係性】 

 我々の存在形式は、無数の相互関係の中で、決定させられた一つの形にすぎません。自己とは、他人との関係性のことです。他人と自分は、分けることが出来きません。それらは、相互に限定し合うものだからです。自己は、それだけで独立して存在していません。しかし、普段の思考習慣によって、独立したものだと考えがちです。他人と自分は、それぞれ違ったままで相互に存在しています。 

 自分自身の存在というものは、疑うことが出来きません。その疑っている者が、自分だからです。しかし、自分で自分自身のことを知ることは難しいものです。自己を深めていくと、それだけ自己が他者に開かれていきます。存在の奥の方では、自分と他人との境界線がなくなっているからです。自分と他人との違いは、形式的な違いにすぎません。なぜなら、全てのものは、全一なるものだからです。自己は、意図的に作っていくものではありません。世界の内にある自己が、全体的な流れの中で、展開されていくだけだからです。 

【歴史】

 また、自己と歴史というものも切り離せません。我々は、歴史的な存在です。これまで、個々のものが、それぞれ協働して、一つの歴史を展開させてきました。世界とは、それ自身の自己表現の過程です。個々のものも、常に全体を表現しようとします。それらの相互の関係性こそが、歴史を作ってきました。歴史を展開しているのは、それぞれの差異です。違ったものが、違ったままで存在しているからこそ、歴史は展開されてきました。それを矛盾的自己同一と言います。