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美の偉人ものがたり「原三溪」_日本最高峰のコレクションを築けた理由

2019年07月14日 | 美の偉人ものがたり

日本美術のファンの間でも、原三溪(はらさんけい)という名は、あまり知名度は高くないと思われます。首都圏在住の方であれば「三溪園と関係ある人?」という連想も働きますが、全国レベルでは難しいでしょう。横浜美術館で、その原三溪を主役にした開館50周年の記念碑的な大規模展覧会が始まりました。原三溪がいかなる人物であったが、紐解いてみたいと思います。

  • 生糸業で財を成し、藤田傳三郎/益田孝と並ぶ明治大正期の古美術の三大コレクターの一人
  • 藤田傳三郎と共に審美眼にかなえば美術商の言い値で購入することで有名、とにかく名品が集まった
  • フィランソロピー精神にあふれ、超一級品を公開する美術館を造る計画は関東大震災で叶わず
  • 安田靫彦ら無名だった若手画家も支援、近代日本の美術界への貢献は計り知れない


美術品は散逸すると、「個人蔵」として公開される機会が少なくなったり、行方不明になったりしがちです。原三溪と彼を支えた人物がいたからこそ、超一級の古美術品が日本国内の美術館に所蔵され、鑑賞できる機会を得られていると言っても過言ではありません。


三溪園 臨春閣

三溪は号です。後半生に茶人やコレクターとしての活躍が著名になったため、号で呼ばれるのが一般的になりました。横浜の三溪園も号に因んで名づけられものです。

【三溪園公式サイトの画像】 原三溪 肖像


 岐阜の庄屋の息子が横浜財界のリーダーに大出世

本名は富太郎(とみたろう)といい、戊辰戦争が峠を越え、元号が明治に変わる15日前の新暦1868年10月、現在の岐阜市で代々庄屋を務める青木家の長男に生まれます。

富太郎は上京して法律を学んだ後、自身と日本美術界の運命を大きく変える女性と出会います。明治の日本の主力輸出産業だった生糸貿易の横浜の豪商・原善三郎の一人娘の屋寿(やす)です。富太郎は1891(明治24)年に屋寿と結婚し、原家の入り婿となります。

地方の庄屋に過ぎない青木家と原家には家の格には格段の差がありますが、善三郎は経営者としても何の実績もない富太郎を婿として迎えます。正直かなり不可思議でもありますが、その経緯はよくわかっていません。富太郎は原家の事業を格段に大きくし、日本随一のコレクターになれるほど巨万の富を築きます。結果論として「善三郎に人を見る目があった」と言うしかありません。

1899(明治32)年、横浜商業会議所会頭まで務めた横浜経済界の重鎮の養父・善三郎がこの世を去ると富太郎は家督を継ぎ、事業を大きく拡大させていきます。組織の近代化や海外進出、同業の買収を積極的に手掛け、横浜を代表する経営者として知られるようになります。日本の明治の生糸産業と言えばすぐに連想される世界遺産の富岡製糸場も、三井家から譲り受け、一時期富太郎がオーナーでした。


25歳で蒐集を始め、34歳で三溪園を造営

富太郎は原家に婿入りしたわずか2年後、25歳の時から美術品の蒐集を始めています。婿入りだけでも驚きですが、何の実績もない若造が数寄者になろうとすることも驚愕です。蒐集には妻・屋寿の理解が大きかったようで、養父・善三郎からも自らに対する特別な思い入れを感じたのでしょう。

経営者としてもコレクターとしても転機となったのは養父・善三郎の死でした。1902(明治35)年に善三郎が別邸として購入していた現在の三溪園の地に野毛山から本宅を移し、広大な庭園として「三溪園」と名付け造営を始めます。古建築の移築も始め、庭園の研究をさせるため関西に庭師を派遣します。「三溪」という号の使用を始めたのもこの頃です。

【e国宝の画像】 東京国立博物館蔵「孔雀明王像」

翌1903(明治36)年に三溪の名を一躍轟かせた一大ディールが行われます。日本の仏画の最高傑作の一つ・国宝「孔雀明王像」を井上馨から入手したのです。一万円という破格の売値に当時随一のコレクター・益田孝は尻込みしますが、三渓は即座に一万円を用立て井上を驚かせます。

審美眼にかなえば美術商の言い値で買った三渓の元には、うわさを聞いた美術商が次々と名品が持ち込みます。”綺麗な買い方”が、稀代の名コレクションを築き上げたのです。

1906(明治39)年には三溪園が完成し、本宅のある内苑以外のエリア・外苑を公園として無料開放します。日本で資産家が行う文化面でのフィランソロピー活動はほとんどが昭和になってからであり、最古の私立美術館である大倉集古館の開館も1917(大正6)年です。三溪のフィランソロピーの実践の早さは群を抜いています。


三溪園への華麗なる来園者リスト

実業家としても文化人としても高い地位を築き上げた三溪に、ひっきりなしに各界の著名人が訪れるようになります。移築した古建築のある庭園と美術品の鑑賞も来訪者にとっては大きな楽しみとなります。

政治家では大隈重信/桂太郎/原敬/高橋是清らが訪れており、三溪の名声がいかに高かったかがわかります。経済界では同じ数寄者・茶人仲間として益田孝/高橋義雄/團琢磨/日比翁助ら三井の人々、根津嘉一郎、松永安左エ門らに加え、渋沢栄一ら重鎮も訪れています。

建築家では伊藤忠太/関野貞/武田五一ら、文学界では芥川龍之介/斎藤茂吉/夏目漱石/与謝野晶子/和辻哲郎ら、美術界では岡倉天心/北大路魯山人といったそうそうたる面々です。



ワシントンDC フリーア美術館

海外のコレクターや著名人の名前にも驚きます。モース/フェノロサ/ビゲローらお雇い外国人系コレクターはもちろん、アメリカ・ワシントンDCのフリーア美術館に日本国外ではトップクラスの日本美術コレクションをのこしたフリーアも来園しています。

1907(明治40)年、三溪の友人で通訳の野村洋三(のむらようぞう)の紹介により、フリーアは三溪園を訪れます。二週間も滞在し、三溪のコレクションに感激するとともに、日本美術について篤く語り合い、深い友情で結ばれます。

フリーアはその後も三回の来日の度に三溪園を訪れており、三溪の長男・善一郎もアメリカ留学中にフリーアの自宅を訪ねています。日米を代表する日本美術コレクター同士が赤い糸で結ばれていた時代があったのです。


三溪の精神を今に伝えた二人、横浜を愛した野村洋三

フリーアの通訳をした野村洋三は三溪と同じ岐阜県の出身で、年も2歳しか離れておらず、三溪の生涯の友人となった横浜の実業家です。禅を初めて欧米に紹介した鎌倉・東慶寺の釈宗演(しゃくそうえん)の通訳を語学力を生かして務めた後、横浜に古美術商「サムライ商会」を開くなど、コスモポリタンのはしりのような人物でした。

原家と釈宗演とは善三郎時代から交流があり、維持が難しくなっていた東慶寺仏殿を三溪園に移築することになります。仏殿は豊臣秀頼の未亡人となった千姫の寄進で、禅宗様の屋根のカーブが美しい重要文化財です。三溪園の造営にあたっては三溪は野村の意見も積極的に取り入れており、仏殿の移築にも計らいがあったことでしょう。

三溪は関東大震災が発生した時、野村と共に箱根の山荘に滞在していました。急ぎ横浜に戻ると政財界をまとめて横浜復興のリーダーとなり、野村と共に奔走します。震災がれきを埋め立てた山下公園の造成やホテルニューグランドの建設など、現在の横浜を代表するランドマークも震災の復興事業として造られたものです。

野村はその後ホテルニューグランドの会長や横浜商工会議所の会頭を務め、横浜の街の発展に長らく貢献します。1939(昭和14)年にこの世を去った三渓の横浜の街への思いを引き継いだのが、1965(昭和40)年まで生きた野村洋三でした。


 三溪の精神を今に伝えた二人、審美眼を愛した矢代幸雄

三溪の精神を今に伝えるもう一人の人物は、後に奈良・大和文華館の初代館長を務めた矢代幸雄(やしろゆきお)です。矢代は1890(明治23)年に横浜に生まれ、居留地の近くで外国語に常に接しながら育ちました。これは岡倉天心と似た境遇です。

【大和文華館公式サイトの画像】 矢代幸雄 肖像

東京美術学校(現:東京藝大)で教師をしていた時、来日していたインドの詩人・タゴールの通訳として三溪園を訪れます。2ヶ月以上三溪園に滞在したタゴールに、所蔵美術品をあつく語った三溪の造詣の深さに薫陶を受けます。

矢代は欧州留学時に松方コレクションの形成に携わった後、アメリカの東洋美術史家ウォーナーとも知己となり、1931(昭和6)年にはウォーナーを三溪園に案内しています。第二次大戦時に京都・奈良が大きな空襲を免れたのは文化遺産保護を提唱したウォーナーのおかげ、という「伝説」を朝日新聞に寄稿して一躍有名にしたのも矢代です。

三溪にとっての矢代の最大の功績は、終戦直後の混乱期に三溪コレクションの散逸を防ぎ、主な作品を大和文華館に移管したことでしょう。

終戦直後、あらゆる個人財産に高額の税率が課されたGHQによる”財産税”の施行で、資産家は大打撃を受けます。終戦直後に数多の美術品が売りに出されたのは財産税の支払いが大きく影響しています。原家も所蔵美術品を財団法人に移していなかったこともあり、財産税の大打撃を受けたと思われます。三溪の跡を継いだ次男・良三郎はやむをえず、所蔵美術品の売却について矢代に相談したことから事態が動きます。

その頃矢代は戦前から文化面でのフィランソロピー活動を構想していた近鉄から、文化事業を任される立場にありました。美術館設立を構想したものの、近鉄としてコレクションは全く所蔵していません。一から収集を始めなければならない時に、原家からの”渡りに船”のような相談が舞い込んだのです。

三溪コレクションは日本最高峰でもあり、譲渡価格も日本最高峰だったと思われますが、そのチャンスを決断したのが当時の近鉄社長・種田虎雄(おいたとらお)です。国宝「寝覚物語絵巻」を筆頭に、東洋と日本の古美術の主要なコレクションは奈良に安住の地を移し、現在に至るまで数々の展覧会で観る者を魅了し続けることになります。

国宝「孔雀明王像」や三溪がパトロンとなった近代日本画の作品は主に東京国立博物館が購入しています。三溪コレクションは、大規模な割には大きな散逸を免れた強運の持ち主でした。矢代はそんな強運を支えた人物でした。


三溪のフィランソロピー精神は若手画家にも目を向けた

1908(明治41)年、三溪は古美術ではなく現役の画家の作品を購入します。下村観山「大原御幸」です。三溪が当時で言う”新画”に関心を持った経緯については、同じ横浜出身の岡倉天心からの影響が推測されます。天心は1898(明治31)年に下野し、横山大観や下村観山を引き連れて日本美術院を立ち上げますが、運営は軌道に乗らず、五浦(いづら)で画家たちが困窮していたのが実情でした。

三溪はこうした状況に胸を痛めるとともに、純粋に観山の絵を気に入ったと思われます。観山には後に三溪園近くに自宅を提供し、創作にあたらせたほどです。また当時はまだ無名だった若手の安田靫彦/今村紫紅/小林古径/前田青邨らにも研究費を与えます。三溪園内の鶴翔閣(かくしょうかく)で創作に専念させるとともに、数多の至宝を見せて表現を学ばせました。


三溪園 鶴翔閣

鶴翔閣は三溪園造園当初に建築された原家の本宅です。戦時中に大きく改変されたものを平成になって建築当初の姿に復元し、現在は貸会場として様々なイベントに用いられています。

矢代幸雄によると、三溪は若手画家たちを子供のように可愛がっていたと言います。三溪は日本でも有数のフィランソロピーを実践した実業家です。関東大震災の復興のみならず、第一次大戦後の不況の際にも、生糸業や地元銀行の救済に私財を供出しています。現在の横浜銀行も三溪の救済が母体になっています。

強い意志で社会への利潤還元を実践した三溪にとって、将来有望と見た若手画家の育成も、捨て置けない仕事だったのでしょう。長男・善一郎も若手画家の支援で知られています。岸田劉生がその代表格です。


関東大震災が三溪の運命を変えた

三溪はコレクションを公開する美術館設立構想を自らぶち上げたことはありませんが、その意思があったことは間違いないと考えられます。古建築を移築した三溪園を早々に一般公開しており、震災復興や不況対策の慈善活動からしても、コレクションの公開をためらう理由は見当たりません。

三溪の身近にいた人たちが共通して語るのは「関東大震災がなかったら」という一言です。三溪は震災後に美術品の購入をほぼ止めていますが、横浜財界のリーダーとして復興事業に忙殺されたという表向きの理由以外にも、いくつか理由が考えられます。

一つは、コレクションから名品を選りすぐって自ら解説を加えたフルカラーの図録「三溪帖」の版下の震災による焼失です。三渓にとってはコレクター人生の集大成であり、出版目前に灰燼と帰したことは残り少なくなった人生を前にしてまさに痛恨の極みでした。

三溪はかなりまめな人物だったようで、自ら美術品・古建築を購入・蒐集した記録を「美術品買入覚」と題して残しており、現存しています。三溪の蒐集を100%カバーしているわけではありませんが、購入時期と価格をほぼ正確に追うことができます。「三溪帖」は奇跡的に草稿だけは現存しています。いずれも三溪の蒐集への思いを知る貴重な資料となっています。

二つは、震災から10年ほどすぎ、横浜の復興事業も落ち着き始めた1937(昭和12)年、69歳の時に長男の善一郎を亡くします。家業や三溪園とコレクションの後世を託していただけに三溪の落胆は大きく、三溪も2年後の1939(昭和14)年にこの世を去ります。

三溪は名経営者として数々の企業の経営に参画しますが、渋沢栄一と同じく資本で会社を支配するようなことはしなかったため、本業を財閥のような巨大コングロマリットに成長させることはありませんでした。生糸業そのものも昭和になると斜陽となり、数々のフィランソロピー活動を支えた利潤の確保が困難になっていきます。

原三溪の名が実業家としてもあまり知られていないのは、このように現代に続く大企業をのこさなかったためです。

三溪が脂ののっていた大正時代に美術館を立ち上げていたなら、というのは後世の仮説にすぎません。19c後半から第二次大戦まで、日本はアメリカと同じく数多くの実業家系コレクターを輩出しています。第二次大戦による混乱がなかったアメリカのコレクションは多くがそのまま現在まで伝えられていますが、日本はそうなっていません。

大和文華館と東洋国立博物館の二か所にまとまって主要作品が居場所を移した三溪コレクションは、大きな散逸を免れただけでも”運が良かった”方なのです。



原三溪所蔵品を大和文華館に導いた男が見た大コレクターたちの素顔
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<横浜市中区>
三溪園
【公式サイト】 https://www.sankeien.or.jp/

<横浜市西区>
横浜美術館「原三溪の美術」
【展覧会公式サイト】 https://harasankei2019.exhn.jp/


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美の偉人ものがたり「クリムト」_世紀末ウィーンの寵児

2019年06月12日 | 美の偉人ものがたり

2019年の美術展は、オーストリアの首都で芸術の都とも呼ばれるウィーンに注目が集まっています。その主役は官能的な表現で知られる画家、グスタフ・クリムト(Gustav Klimt)です。クリムトなる人物はどんな人生を送ったのか、紐解いてみたくなりました。

  • クリムトは、アール・ヌーヴォーと同時代に文化の最先端をけん引した世紀末ウィーンの寵児
  • 欧州最後の名門・オーストリア帝国の抱えていた矛盾が、世紀末ウィーンの繁栄をもたらした
  • 写実性に基づく絵画の概念を見事に壊したクリムトは、画家ではなくアーティスト


クリムトの個性「黄金様式」は、日本の伝統表現の影響も感じ取ることができます。ジャポニスムを象徴する画家はゴッホだけではありません。



クリムトは1862年、ウィーン郊外の彫刻師の家庭に生まれます。貧しいながらも暖かい家族で育ち、当時欧州でも最先端の文化的な繁栄を謳歌していたウィーンの街の空気にも刺激され、芸術の道を志すようになります。クリムトの斬新な表現を生んだ背景には、政治の矛盾をよそに文化や科学では最高潮を迎えていた当時のウィーン社会の”空気”がありました。


”世紀末”という形容詞が最もあてはまる19c末のウィーン

1857年、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世はウィーンの街を取り巻く城壁を撤去し、環状道路のリング・シュトラーゼを建設します。リング沿いにはウィーン国立歌劇場/ブルク劇場/ウィーン美術史美術館など、現在も世界的に有名な建築が次々と建設され、ロンドン/パリ/ベルリンと並ぶ欧州の中心都市へと発展を遂げます。

1873(明治6)年には万国博覧会の会場が設けられ、明治新政府も出展したことから、パリに引き続きウィーンでも”ジャポニスム”がブームになります。クリムトの個性である平面的な表現や紋様のデザインは、ジャポニスムを意識したものと考えられています。

音楽では、ヨハン・シュトラウス2世/ブラームス/マーラーといったビッグネームが軒並み活躍し、著名な劇場と共にウィーンが「音楽の都」と称えられる地位を不動にします。文学ではカフカ、精神分析ではフロイト、生物学では遺伝の法則を発見したメンデル。あらゆる分野で巨匠が次々に登場します。

【Wikipediaの肖像写真】 フランツ・ヨーゼフ1世

文化や科学では欧州随一の繁栄を誇ったウィーンの活力は、欧州最後の名門・ハプスブルグ帝国の落日が導いていたという皮肉な側面も否定できません。

1848年、ハプスブルグ朝オーストリア帝国の実質的な最後の皇帝にフランツ・ヨーゼフ1世が18歳の若さで即位します。第一次大戦中の1916年に亡くなるまで68年もの長きにわたって在位し、帝国の落日をほぼ見届けることになります。

1848年はナポレオン戦争後の欧州の秩序を定めたウィーン体制が欧州全土で崩壊し、それまで抑圧されてきた民族主義や自由主義が一気に花開くことになった年でした。オーストリア帝国はその後イタリアやドイツ統一を目指す戦争に相次いで敗れて領土は縮小、ハンガリーに大幅な自治権を認め、欧州の中では落日の国という印象をますます強めていきます。

フランツ・ヨーゼフ1世は多民族国家の特性を生かし、異文化共生によって国の活力を維持する道を探ります。東欧の多民族やユダヤ人をウィーンに自由に受け入れ、文化や科学の発展を大いに刺激します。国家の落日の目前、政治の混乱とは逆に文化が成熟することは古今東西よくあります。18cフランス革命前夜のパリのロココ文化、19cの江戸の化政文化、15c京都の東山文化がその代表例です。


クリムトは”画家”というより、最初の”アーティスト”

クリムトは1880年頃、弟や友人と共に会社を設立し、すぐにウィーンのみならず帝国全土の建物の装飾を請け負うようになります。それまでウィーン美術と社交界に君臨していたアカデミック芸術のハンス・マカルト亡き後を継ぐ芸術家として一躍脚光を浴びるようになったのです。「旧ブルク劇場の観客席」が当時の代表作です。

1894年に製作したウィーン大学講堂の天井画で現存しない「哲学/法学/医学」の三部作から、現代に知られる刺激的な作風に変化していきます。影響を受けたとされるアカデミック芸術との違いは衝撃的で、印象派の影響も見られず保守的だったウィーンの美術界の混乱は想像に難くありません。ウィーンにはこうした伝統にとらわれない芸術を創造する”自由な空気”があったのです。

この作品で守旧派との間で大きな論争を呼び、クリムトの主導で1897年に「ウィーン分離派」が結成されます。


【2019クリムト展 公式サイトの映像】 「ベートーヴェン・フリーズ」分離派会館蔵

世紀が変わった1901年からの10年間に、「黄金様式」と呼ばれる著名な代表作がほぼ制作されています。「ベートーヴェン・フリーズ」はその最たるものです。写実的な描写に紋様のような抽象的なデザインを加えており、現代の感覚で言うと「デジカメで撮った写真に様々な加工を加えた」ような仕上がりです。

【ベルヴェデーレ宮殿オーストリア絵画館 公式サイトの画像】 1901年「ユディト」
【ベルヴェデーレ宮殿オーストリア絵画館 公式サイトの画像】 1907年「接吻」

いずれも世界的に著名な作品です。赤裸々な性描写ばかりが着目されますが、日本の金碧障壁画のような金地に描いた紋様が、女性を包み込む構図はきわめて斬新です。紋様や主役のモチーフをアイコン化し、現実にはあり得ない光景を”デザイン”として表現します。絵画ではなく”アート”と呼ぶにふさわしい作品を世に提案した最初の”アーティスト”がクリムトでしょう。今から120年前です。


クリムトが世を去ると、オーストリア帝国も消滅した

クリムトの斬新な画風は最後までウィーンの上流階級には受け入れられませんでした。セックス・アピールが目につき「上品でない」と解釈されかねない画風に加えて、下流層とみなされる言葉遣いや装束を変えなかったからです。

日本人の想像以上に、欧米社会の階級による区別は厳格です。上流階級に受容されないと、社会の中枢で地位を維持することはきわめて困難になります。クリムトはそんなことは百も承知で上流階級と一線を画し続けたような気がしてなりません。ウィーンとオーストリア帝国が抱える社会の矛盾に無言で警鐘を鳴らしたのでしょう。

1918年、オーストリア帝国が第一次大戦で降伏する前夜、クリムトはこの世を去ります。世紀末ウィーンという歴史的にも稀有な文化の隆盛が終焉を迎えたことを象徴するようです。

【Wikipediaの肖像写真】 皇妃エリザベート(愛称:シシィ)

フランツ・ヨーゼフ1世は、メキシコ皇帝となった弟の処刑、長男の心中、ミュージカル「エリザベート」で知られる美貌の皇妃(愛称:シシィ)の暗殺、第一次大戦勃発の引き金となった甥の皇太子のサラエヴォでの暗殺と、相次ぐ身内の不幸に直面する悲劇の皇帝でした。

彼は古き良き帝国時代の象徴として、現在のオーストリア国民に加え、東欧の非ドイツ民族にも絶大な人気があります。様々な場で公に姿を表して文化を奨励し、異なる民族の価値観の”多様性”を称賛し続けます。通常は憎悪の象徴となり、処刑されることも多い最後の皇帝としては、歴史上他に類を見ない人気ぶりです。

フランツ・ヨーゼフ1世の”多様性”を認める価値観は、現在のEUにも受け継がれています。第二次大戦前に均等関税や外交政策の統一を提言したオーストリアの政治家:リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーは「EUの父」と呼ばれています。彼の母で、日本人として初の正式な国際結婚をしたと考えられているクーデンホーフ=カレルギー光子は、さながら「EUの祖母」でしょう。

クリムトは裕福ではない家庭に育ちました。古今東西、裕福な家庭に生まれないと創作活動が持続できないことが多い芸術家としては、自由と多様性が尊重された”世紀末”のウィーンで生きたからこそ、優れた才能を発揮することができたのでしょう。クリムトは”世紀末”という時代のみならず、”多様性”の寵児でもあるのです。



現在のウィーンの魅力を造った皇帝の物語
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美の偉人ものがたり「藤田傳三郎」_人にも事業にも抜群の審美眼

2019年05月12日 | 美の偉人ものがたり

明治日本の三大美術コレクターと言えば、東の益田孝(鈍翁)と原富太郎(三溪)、西の藤田傳三郎(ふじたでんざぶろう)です。三人のコレクションの中で唯一大きな散逸を免れ、日本の実業家系美術館の中でトップクラスの古美術コレクションを築いたのが藤田傳三郎です。

  • 五代友厚と並ぶ明治の大阪財界の偉人、渋沢栄一に匹敵するほど多くの企業と経営者を育てた
  • 残念ながら、偉大な功績の割には実像がきちんと伝えられていない人物の”代表格”
  • 原三溪と共に美術品を値切らないことで有名、名品を入手した古美術商は真っ先に傳三郎に見せた


美術の世界のみならず実業界でも、今に伝わる偉大な功績を残した明治の英傑です。現在2019年5月に奈良国立博物館で開催中の藤田美術館展で注目されています。藤田傳三郎の人物像を探ってみたくなりました。


東京 椿山荘

藤田傳三郎は1841(天保12)年、長州・萩の造り酒屋の四男に生まれます。伊藤博文と同い年で、木戸孝允・井上馨・坂本龍馬ら明治維新の志士たち、岩崎弥太郎・渋沢栄一・五代友厚といった明治の日本経済をけん引した名経営者とも同世代です。

天保年間は黒船来航の直前です。大飢饉や天保の改革の失敗によって幕藩体制の行き詰まりが決定的になった時代ですがが、明治ニッポンをリードした人物を大量に輩出した時代でもありました。

長州藩内改革派のリーダー・高杉晋作を早くから支援し、伊藤博文/井上薫/山県有朋ら後の明治新政府のリーダーたちとの人脈を築いていきます。明治になった時、政治家や官僚でなく実業の道を選んだことが傳三郎の人生を決定づけることになります。長州藩出身の新政府の実力者を通じて、払い下げや軍需物資調達の情報を得、政商として巨万の富を築きます。

三菱の岩崎弥太郎と並ぶ、明治というイケイケドンドンの時代の寵児でした。

【藤田美術館公式サイト】 ABOUT 藤田傳三郎


偉大な功績の割に実像が伝えられていない

傳三郎は明治になってすぐに大阪に出てから10年も経たないうちに、住友や鴻池と並ぶほどの大阪の大商人に急成長します。1878(明治11)年に五代友厚が主導して設立された大阪商法会議所(現:大阪商工会議所)の発起人に住友の広瀬宰平らと共に名を連ね、五代急死後の二代会頭に就任するほどの信用も得るようになります。

急成長した人物が何かと妬まれるのは世の常です。1879(明治12)年に、井上薫の失脚をはかった冤罪のニセ札事件に巻き込まれ、反政府的な自由民権運動の講談師が”悪徳商人”として傳三郎をネタにします。尾ひれがついた話が瞬く間に世に広まり、傳三郎も弁明を一切しなかったことから、マイナスイメージが長く定着することになります。

こうしたスキャンダルに巻き込まれなかった岩崎弥太郎とは、現在に至るまで人物像の語られ方が大きく異なります。「傳三郎は高杉晋作の奇兵隊に入って人脈を築いた」という現在も多く記述が見られる傳三郎の伝記のくだりも、最新の研究では否定的に見られているようです。

萩の有力な造り酒屋の息子だった傳三郎が、藩内では危険分子と見られていた高杉に表立って協力するのは、はばかられるのが自然だからです。藩の将来を語る高杉に共感し、密かに支援した傳三郎に人を見る目があった、と私は感じます。


華麗なる藤田一族、関わった企業名が物語る。

ニセ札事件の冤罪が晴れた後、建設業を中心に傳三郎の事業はさらに拡大を続けます。傳三郎の財界での信用はまったく揺らいでいなかったのです。長浜~敦賀間の鉄道敷設、琵琶湖疎水、大阪の天満橋/天神橋など五橋の架け替え、佐世保軍港の建設など、国家的プロジェクトを次々に手掛けます。

1887(明治20)年、傳三郎は当時の日本の建設業界をともにけん引していた大倉喜八郎率いる大倉組と建設事業を合併させます。この会社が現在のスーパーゼネコン・大成建設です。

1883(明治16)年には、日本初の紡績会社・大阪紡績(現:東洋紡)を渋沢栄一らと共に立ち上げます。工場で夜間操業を行うために民間で初めて用いられた、電池を使わない「電灯」を見ようと見物客が殺到したため、工場見学を行ったと伝わっています。”工場見学”もきっと日本初でしょう。

鉄道の建設だけでなく運営にも関心を持ち始めた傳三郎は1888(明治21)年、日本初の純粋民間資本の私鉄・阪堺鉄道(現:南海電鉄)を開業し、大成功を収めます。鉄道ニーズは高まる一方でしたが、鉄道国営主義に固執していた政府だけでは建設が追い付かなかったことに、見事に風穴を開けました。

1884(明治17)年、政府から秋田・小坂鉱山の払い下げを受けます。小坂鉱山の事業は藤田財閥の中核事業となって数多くの人材を輩出するとともに、現在も非鉄金属大手・DOWAホールディングスとして存続しています。

1891(明治24)年、傳三郎は甥の久原房之助(くはらふさのすけ)を、経営が傾いていた小坂鉱山を立て直すべく派遣します。房之助は貿易商を志し、ニューヨークで商売に成功していた森村組(現:ノリタケ/TOTO/日本ガイシ等森村グループの源流)に入社していましたが、商才に目を付けた傳三郎から半ば強引に引き抜かれます。

房之助は見事に小坂鉱山を立て直しますが、1905(明治38)年に藤田組を退社します。藤田組は傳三郎が大阪に出た直後から兄二人も事業を手伝っていましたが、組織が大きくなり兄弟の関係にきしみが生じたことが房之助退社のきっかけでした。自らを強引に引き抜いた傳三郎への反発があったかもしれません。

房之介は茨城県日立市の鉱山を買収し、久原鉱業を設立します。本流の鉱山事業は日本鉱業となり、現在は日石と経営統合してJXTGになっています。鉱山で用いる機械の修理製造部門が1920(大正9)年に久原鉱業から独立したのが現在の日立製作所です。

第一次大戦後の恐慌で経営危機に直面した房之助は、妻の兄・鮎川義介(あいかわよしすけ)に経営の立て直しを託します。鮎川は1928(昭和3)年に久原鉱業を日本産業に社名変更し、戦前に日産コンツェルンと呼ばれた巨大財閥、現在の日立/日産/JXグループを築きあげます。

【日産自動車公式サイト】 LEGEND 01 鮎川義介

久原房之助、鮎川義介と聞いて、どこかで聞いたことがある名前と思った方も少なくないでしょう。日産コンツェルンは金融・商事部門がなく、戦後の財閥解体後は他の財閥のように再結集することはありませんでした。日本産業の名前も日産自動車グループ以外は使用していないため、グループとしての由縁が連想されにくくなっています。

半面製造業では、日立金属や日立造船も含む日本一の巨大財閥でした。久原房之助の兄・田村市郎(たむらいちろう)が創業した現在のニッスイ/ニチレイもグループに含まれます。

藤田財閥は、三井/三菱/住友を凌駕する規模の財閥になっていた可能性があります。久原房之助が独立しなかった、昭和恐慌で藤田銀行が破綻しなかった、という二つのIFが成立していれば、です。藤田家は人材の輩出では、まさに”華麗なる一族”でした。


人物だけでなく物事を見極める目もあった

傳三郎には人を見る目はもちろん、物事の本質を見極める目も持っていた気がしてなりません。必要と判断したことにはどんなにリスクがあっても惜しみなく人と財を投じました。岡山県の児島湾干拓事業がその好例です。児島湾干拓地には「藤田村」という地名がのこされており、傳三郎は偉人として地元では篤く尊敬されています。

児島湾干拓は江戸時代から少しずつ行われてきましたが明治になって事業が途絶え、岡山県が民間の出資者を探していたところに傳三郎が応じたものです。数十年かけて土地を造成し、農業が軌道に乗ってからでないと資金が回収できない干拓事業は、営利事業としてはリスクが高すぎることは言うまでもありません。単なる政商なら決して手を出さないスケールの大きさです。

傳三郎は干拓事業のすべてを、1886(明治19)年に福沢諭吉が経営していた大手新聞社・時事新報から引き抜いた本山彦一(もとやまひこいち)に託します。この名前も聞いたことがあると思った方も少なくないでしょう、毎日新聞を朝日と並ぶ戦前の二大新聞に育てた名経営者です。

本山は20年に渡って干拓事業を軌道に乗せるのと並行し、経営が傾いていた大阪毎日新聞の面倒も見るようになります。1911(明治44)年に東京日日新聞を買収し、戦時中に現在の題字「毎日新聞」に東西で統一されます。

傳三郎の眼力のエピソードは、直接藤田組に引き抜いた人物だけにとどまりません。明治の大阪で数多くの大企業の立ち上げをサポートした銀行家・岩下清周(いわしたきよちか)です。岩下は三井銀行大阪支店長として大阪で人脈を築きますが、担保よりも人物を見抜いて融資を実行するやり方で本社と衝突します。傳三郎は設立に参画した新興の北浜銀行の経営メンバーに岩下を誘います。

岩下の業績で最も有名なのは、日本有数の名経営者に称えられる小林一三の人物を見抜き、阪急・東宝グループの原点・箕面有馬電気軌道に出資したことです。現在の近鉄の源流・大阪電気軌道の経営を軌道に乗せた世紀の難工事・生駒トンネルの決断でも知られています。


藤田邸跡地も、”すごい”の一言

傳三郎は1912(明治45)年にこの世を去り、長男の平太郎(へいたろう)が藤田組を引き継ぎます。平太郎も父と並んで数寄者で、現在の藤田美術館の所蔵品の厚みを増しています。”あの曜変天目茶碗”も、平太郎が1918(大正7)年の水戸徳川家の売立で落札したものです。

傳三郎は死を前にして、広大な大阪本邸を三人の息子に分割して相続します。現在の藤田美術館と藤田邸公園となっている「本邸」は長男の平太郎、結婚式場・太閤園となっている「東邸」は次男の徳次郎、ブライダル施設・ガーデンオリエンタル大阪となっている「西邸」は三男の彦三郎が、それぞれ受け継ぎます。

3つの屋敷は第二次大戦末期の空襲でほぼ全焼しますが、奇跡的に焼け残った建物が二つあります。2017年まで藤田美術館の展示棟として利用されていた「蔵」と、太閤園の料亭として現在も使用されている「淀川邸」です。太閤園は大阪の老舗結婚式場としては最高格で、東京の椿山荘や目黒雅叙園と同じ位置づけです。

藤田邸公園は年間を通じて自由に散策でき、藤田財閥の面影をしのぶことができます。公園は、近松門左衛門の浄瑠璃の最高傑作「心中天網島」で知られる小春・治兵衛の実際の心中現場となった大長寺の跡地でもあります。

「椿山荘」は、1918(大正7)年に平太郎が山縣有朋から譲り受けた東京別邸です。戦後に藤田観光の所有となり、東京を代表するホテル・結婚式場になっていることは周知です。箱根の小涌園も平太郎の別荘でした。

藤田観光は、「藤田」ブランドを今に伝える唯一の企業です。建設会社・フジタは傳三郎一族とはまったく無関係です。第二次大戦中に経営が行き詰った藤田組を再建した安田銀行出身の小川栄一(おがわえいいち)によって、1955(昭和30)年に藤田組から独立しました。

小川は、それまで上流階級以外には無縁だった「観光」に目を付けます。椿山荘など藤田家の遺産を活用して会社を大きく成長させます。京都の二条で鴨川をのぞむ美しい別邸跡地に開業したホテルフジタ京都もその代表例です。現在のリッツカールトン京都です。

小川は藤田組の資産を乗っ取ったように解釈されがちですが、決してそうではありません。藤田美術館にとってはコレクションの散逸を防いだ恩人でもあります。藤田家の美術品は戦時中の経営危機に伴い、銀行の担保として差し押さえられていましたが、小川は優先的に借金を返し、担保を解除させます。藤田家の不動産も、終戦直後の急激なインフレを見越して売却を急ぎませんでした。

【藤田観光公式サイト】 知られざる60年(初代社長・小川栄一の思想)



大阪 藤田邸公園

大阪随一の数寄者としてもその名を轟かせていた藤田傳三郎は、公の場に姿を表すことを嫌った人物でもありました。会社に出社することはなく、自邸でしか人とは接触しませんでした。第三者を通じて情報発信するようなこともしません。世間でどう言われようが、公の場では一切情報発信しません。上に立つ者は情報発信しないと言う、日本古来の価値観を貫いた人物でもありました。

その傳三郎のスタイルは、美術品蒐集にも表れています。古美術商が持ってきた品を目にして、値段を聞かずにYes/Noを審美眼だけで判断します。箱書きや由来など、第三者が認定した価値を一切顧みることなく、純粋に美しさで判断します。

藤田傳三郎は、人物/事業/美術品、どんな対象でも将来の価値を見極める目を養い続けた人物でした。明治の様々な偉人の中でもその審美眼はトップクラスであったことは間違いありません。現在行われている奈良国立博物館の展覧会で、その偉人ぶりをたっぷりと確認することができます。


バブル崩壊後に明治の名経営者の足跡を見つめなおした名著

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<大阪市都島区>
藤田美術館
【公式サイト】http://fujita-museum.or.jp/


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ルーベンス ~ヨーロッパ中の宮廷を虜にした紳士

2018年06月08日 | 美の偉人ものがたり

ルーベンス(Peter Paul Rubens)は、17cヨーロッパのバロック絵画の巨匠の一人です。世界のメジャーな美術館では必ずと言っていいほど重要なコレクションになっています。

イタリアで学んだ後、アントワープを拠点に外交官としても活躍し、ヨーロッパ中の宮廷から注文を受けていました。豊満な肉体表現と明るいタッチは、反宗教改革と絶対王政の確立という17cの時代の波にとてもマッチした画風でした。

まもなく始まる兵庫県立美術館の「プラド美術館」展でも、展示構成の重要な位置を占めます。また10月から始まる上野・国立西洋美術館の「ルーベンス展」では、イタリア絵画がどれほどルーベンスの絵を洗練させたかを堪能できそうです。


アントワープの「ルーベンスの家」

現在アントワープで博物館となっている「ルーベンスの家」は、ルーベンスの自宅兼工房でした。ヨーロッパ中から殺到する大量の注文をたくさんの弟子と共にここでさばいていました。

当時のアントワープは、オランダ独立戦争の影響で世界貿易の中心としての地位を失っていましたが、絵画芸術ではルーベンスによって黄金期を迎えていました。国力が衰退していくフェリペ4世の時代に、ベラスケスらによってスペイン絵画が黄金期を迎えたのと同じ流れです。政治経済が曲がり角を迎えた後に美術が繁栄する流れは、古今東西珍しくありません。

ルーベンスは宗教・神話・肖像画を迫力ある画風で描きます。イタリアルネサンスの巨匠たちの落ち着きのある洗練された画風に、カラヴァッジョの写実表現をミックスさせたように感じられます。ふくよかで力強い人物表現や明るい色使いはとても目立ち、カトリックの宮廷の権威付けにはうってつけでした。宮廷からの注文の代表作は、やはり圧巻の「マリー・ド・メディシスの生涯」24連作です。

【公式サイトの画像】 ルーブル美術館「アンリ4世の神格化とマリー・ド・メディシスの摂政宣言」

プロテスタントが教会内に偶像や絵画を飾ることを禁じていたこともあり、カトリック勢力が反宗教改革の一環として、人々を惹きつけるインパクトのある宗教画を多く発注していました。

ルーベンスは当時の最先端の画風でもあったことから、教会からも多くの注文を獲得します。協会からの注文の代表作は、アントワープの聖母マリア大聖堂「キリスト昇架/降架」です。日本人にだけ有名な「フランダースの犬」の悲劇の舞台です。

【公式サイトの画像】 アントワープ・聖母マリア大聖堂「キリスト昇架」

ルーベンスはアントワープの名家の出身で、そのふるまいは洗練されていました。イタリア留学時代のマントヴァ公、アントワープ帰国後のスペイン領ネーデルラント大公妃でスペイン王女イサベルと、トップクラスの王侯の目に留まったことが、彼の画家人生を大きく飛躍させます。

マントヴァ公の命によりイタリア各地で絵画の収集を行い、ルネサンスの巨匠やカラヴァッジョの画風をたっぷりと学ぶ機会に恵まれます。スペイン王女イサベルの元では宮廷画家兼外交官となり、オランダ独立戦争の調停のためにスペインとイングランドの宮廷を何度も往復します。

マドリードではフェリペ4世やベラスケス、ロンドンではチャールズ1世と、当時のトップクラスの芸術愛好家と親交を重ねます。ルーベンスの名声は高まるばかりでした。

ルーベンスは晩年、37歳年下のエレーヌと再婚します。晩年の作品はエレーヌをモデルにしたと思われる女性の豊満な肉体表現が目立ちます。

【公式サイトの画像】 プラド美術館「三美神」

ルーベンスが1640年にアントワープで息を引き取った後、ヨルダーンスが神話画や風俗画でアントワープ画壇をけん引します。またルーベンス工房の弟子で最も高名なヴァン・ダイクは、イングランドのチャールズ1世の下で気品あふれる肖像画を多数描きます。

同じ頃、アントワープに代わって世界貿易の中心となったアムステルダムでは、レンブラントやハルスが登場し、市民階級向けの肖像画が全盛期を迎えます。


アントワープ・聖母マリア大聖堂

ルーベンスほど、ヨーロッパ中の宮廷から信奉を集めた画家はいないでしょう。七か国語を話したという彼の社交性は、商業の中心で人の交流が盛んだったアントワープでなければ習得できなかったかもしれません。

【Wikipediaへのリンク】 ピーテル・パウル・ルーベンス

ルーベンス(1577-1640)と同世代の画家は多数います。

  • ヤン・ブリューゲル<父>(1568-1625)フランドル
  • ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ(1571-1610)イタリア
  • ドメニキーノ(1581-1641)イタリア
  • フランス・ハルス(1584-1666)オランダ
  • ヤーコブ・ヨルダーンス(1593-1678)フランドル
  • 俵屋宗達(1570頃-1640頃)日本
  • 岩佐又兵衛(1578-1650)日本




19cの美術史家の視点で見たルーベンス論


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スペイン・フェリペ4世 ~スペイン美術の絶頂期に君臨

2018年06月01日 | 美の偉人ものがたり

17cのスペイン国王・フェリペ4世(Felipe IV)は、ベラスケスが宮廷画家として仕た国王です。ベラスケスはスペインが世界に誇る画家ですが、その生涯は偉大なパトロンであるフェリペ4世の存在抜きには語れません。

フェリペ4世は、「太陽の沈まぬ国」と言われた16c後半、日本では織田信長の時代にあたりますが、スペイン帝国の全盛期を治めたフェリペ2世の孫です。1621年に王位に就く頃にはスペイン帝国の国力には陰りが目立つようになり、政治面よりも文化面での功績が知られています。

世界中から人々を惹きつけるプラド美術館のコレクションは、フェリペ2世と4世、二人の国王の情熱抜きには語れないのです。


フェリペ2世と4世が愛したエル・エスコリアル宮殿(修道院)

新大陸からもたらされる大量の銀と、ヨーロッパの物流の中心地・ネーデルラント(現ベルギー・オランダ)からもたらされる税収が、フェリペ2世統治下のスペイン帝国を支えていました。

しかしネーデルラントの独立、銀の供給過剰による価値下落など、スペイン帝国は既得権を失い始めます。また足元のカタルーニャやポルトガルでも反乱が相次ぎます。蓄えた資産による新たな産業の育成を行ったことが、スペイン帝国を衰退に向かわせた主な原因と考えられています。

とはいえスペインにはフェリペ2世時代の隆盛の所産がまだ残っており、セビリアやマドリードにおいて、上流階級による芸術を支援する経済力と知性が17cになって花開いたと考えられます。ベラスケス以外にも、スルバラン、カーノ、リベラ、ムリーリョ、レアルといった、現在のプラド美術館の至宝となっている画家を多く輩出した時代でした。

国力が衰退する時期に入って芸術が花開くことは歴史的にもよくあります。オスマン帝国の進出や大航海時代の幕開けにより、東西交易の富を失った後のヴェネツィアで、ティツィアーノらヴェネツィア画派の巨匠が活躍した例がその代表です。

【プラド美術館公式サイトの画像】 1626-28 フェリペ4世

フェリペ4世は、政治経済面でのもどかしさと向き合う中で、絵画コレクションの充実による国威の発揚に希望を見出した人物のように思えてなりません。

オランダとして独立しなかったスペイン領ネーデルラントの南半分の中心都市であるアントワープの外交官だったバロック絵画の巨匠ルーベンス、名コレクターとしてその名を知られていたイングランド国王・チャールズ1世、そしてベラスケス。当代一流の芸術家との交際を通じて“見識眼”を養い、コレクションを充実させていきます。

【プラド美術館公式サイトの画像】 ブレダの開城
【プラド美術館公式サイトの画像】 王太子バルタサール・カルロス騎馬像

フェリペ4世は、現在のプラド美術館の裏手に広がる広大なレティーロ公園に離宮を建設し、「諸王国の間」をスペイン帝国の栄光を描いた名画で埋め尽くしました。ベラスケスの戦勝画「ブレダの開城」や、プラド美術館展に出展される「王太子バルタサール・カルロス騎馬像」もここに飾られていました。

またマドリード北方の狩猟場の休憩塔としてトーレ・デ・ラ・パラーダも建設します。プラド美術館展に出展されるベラスケスの「マルス」や矮人画がここに飾られていました。

【プラド美術館公式サイトの画像】 マルス

ルーベンスの死後に遺族によって行われた売却、イングランドのチャールズ1世処刑後のコレクションの競売、ベラスケスのイタリア旅行時の購入、といった傑作をまとまって入手できる機会も見逃していません。

1660年、フェリペ4世を支え続けたベラスケスが亡くなり、1665年にはフェリペ4世自身も生涯を終えます。ヨーロッパの中心は、世界貿易の中心オランダ、太陽王ルイ14世が君臨するフランス、ピューリタン革命により絶対王政から脱したイングランドと、明らかに北へ重心を移します。

フェリペ4世の治世は、日本では江戸幕府3代将軍・家光(在位1623-51)とほぼ重なります。家光も数々の城郭・離宮・寺社を造営し、今に遺る美術に多大な貢献をしたパトロンである点はフェリペ4世と同じです。

しかし家光時代は、国力がピークに達した時期であることがフェリペ4世とは決定的に異なります。こうした時代背景の違いは、作品を鑑賞した際の印象に影響します。印象がどう異なるか、それを見比べるのも美術鑑賞の一つの楽しみです。

【Wikipediaへのリンク】 フェリペ4世



会計を紐解くと世界史がわかる


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ベラスケス ~スペインの至宝は今もプラドに生きる

2018年05月31日 | 美の偉人ものがたり

ベラスケス(Velázquez, Diego Rodríguez de Silva y)は、ヨーロッパにおける17cバロック絵画の黄金時代をリードした巨匠です。マドリードのプラド美術館にある代表作「ラス・メニーナス」は世界で最も著名な絵画の一つです。スペインだけにとどまらず人類の“宝”として、世界中の人々の称賛を集め続けています。

まもなく神戸の兵庫県立美術館でベラスケスを主役にした「プラド美術館展」が始まります。その前にあらためて巨匠の足跡を振り返ってみたいと思います。


プラド美術館正面を飾るベラスケス像

ベラスケスは1599年、アメリカ新大陸との交易の中心だったスペイン南部・アンダルシア地方のセビリアで生を受けます。当時は太陽の沈まぬ国・スペイン帝国が衰退し始める頃でしたが、セビリアは依然、オランダのアムステルダムと並んでヨーロッパ随一の大都会でした。

セビリアで頭角を現し始めたベラスケスは、24歳の若さでマドリードに出、時の国王・フェリペ4世の宮廷画家に抜擢されます。美術を愛し、現在のプラド美術館のコレクションの礎を築いたフェリペ4世との出会いが、ベラスケスが世界トップクラスの画家としての経歴を築く出発点となったのです。

【公式サイトの画像】 プラド美術館「東方三博士の礼拝」

「プラド美術館展」にも出展される「東方三博士の礼拝」は、セビリア時代に描いたベラスケス最初期の作品です。主役である聖母マリアとキリストを浮かび上がらせるように光のスポットをあて、聖書のテーマを映画のシーンのように描くバロック絵画のトレンドを見事に表現しています。

セビリアには、当時スペイン領だったナポリで活躍したカラバッジョが切り開いた写実的なバロック絵画の魅力が伝わっていたのでしょう。ベラスケスはそんなトレンドを着実に吸収していたのです。

ベラスケスは王室の絵画ニーズに斬新に応えていきます。宮廷画家は権威づけのために王族の肖像画を主に描くのが一般的です。しかしベラスケスのモチーフは、宮廷画家になった後も王族の肖像画にとどまらず、非常に多岐にわたっています。

  • 外交官のような働きをしており、国外にも顔が広い
  • 上流階級のプライベート空間を飾る絵を“内密に”多く描いた

の2点がその背景です。

【公式サイトの画像】 ドーリア・パンフィーリ美術館「教皇インノケンティウス10世」

ベラスケスは1648年、2回目のイタリア旅行に出ます。芸術の最先端だったローマで、自らの表現にさらに磨きをかけます。その到達点がヨーロッパ肖像絵画の最高傑作と言われる「教皇インノケンティウス10世」です。

当時76歳の教皇は猜疑心が強いことで知られていました。ベラスケスはそんな内面をあえて鏡のように映し出し、観る者を圧倒します。そんな挑戦的な表現を教皇はいたく気に入ります。ベラスケスの名声はヨーロッパ中で不動のものとなりました。

【公式サイトの画像】 ロンドン・ナショナルギャラリー「鏡を見るヴィーナス」

ローマで学んだ絵画表現のもう一つの到達点が「鏡を見るヴィーナス」です。この作品のモチーフは、ヨーロッパでも最も敬虔なカトリック教国だった当時のスペインの価値観ではありえなかった“ヌード”です。国王の寵臣のプライベート空間を飾るために描かれたと考えられています。

【公式サイトの画像】 プラド美術館「セバスティアン・デ・モーラ」

現実の人間の欲望をモチーフにする絵は、他にも多く描いています。宮廷で道化師として雇われていた矮人(わいじん、小人症の人)を描いた「セバスティアン・デ・モーラ」は、幼い皇太子のために描かれたと考えられています。写真のようにリアルに描かれていますが、その目には鋭いエネルギーがあります。矮人本人の言いようのない怒りの感情を秘めていると感じさせます。

ベラスケスの表現の多様性と革新性の原点は、彼の人望にあります。人望があったからこそ、国外から情報収集でき、ヌードや矮人のように公になっては都合の悪い注文もこなせたのです。

代表作「ラス・メニーナス」は晩年の作品で、彼の絵画表現の集大成が凝縮されています。印象派の巨匠・マネは、ベラスケスを「画家の中の画家」と呼んだことはよく知られています。1865年にスペインを訪れた際に「ラス・メニーナス」をきっと目にしたのでしょう。

ベラスケスは、太陽が沈みゆくスペイン帝国を芸術で支えました。その偉業は400年近くたった現在もスペイン人の心の中に語り継がれています。


若きベラスケスも見ていたセビリアの「黄金の塔」

【Wikipediaへのリンク】 ディエゴ・ベラスケス

ベラスケス(1599-1660)と同世代の画家は多数います。

  • ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1583-1652)フランス
  • ホセ・デ・リベーラ(1591-1652)スペイン
  • フランシスコ・デ・スルバラン(1598-1664)スペイン
  • ヴァン・ダイク(1599-1641)フランドル
  • レンブラント(1606-1669)オランダ
  • 狩野山雪(1590-1651)日本
  • 狩野探幽(1602-1674)日本




ベラスケスが生涯隠し続けた大きな秘密とは


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松方幸次郎 ~日本の西洋美術コレクションを切り開いた男

2018年01月13日 | 美の偉人ものがたり


川崎重工公式サイト THE STORIES

「松方コレクション」という言葉は、2016年に東京・上野の国立西洋美術館・本館が世界遺産に登録されたことで、より広く知られるようになったと私は感じています。

コレクション名の冠となった人物は松方幸次郎(まつかたこうじろう)、川崎重工の前身である川崎造船所の初代社長です。第一次大戦期に世界中でひっ迫した造船需要に応えて巨万の富を築き、当時のヨーロッパでも西洋絵画コレクターとして名を売っていました。

日本で有数の西洋美術の流れを俯瞰できる西洋美術館は、そもそも松方コレクションを保管・展示するために1959(昭和34)年に創設されたものです。そんな伝説的な人物の生涯を探ってみたいと思います。

松方幸次郎は、明治時代に首相を務めた薩摩出身の元勲・松方正義の三男として1866(慶応元)年に生を受けました。川崎造船所の社長には、正義と同郷の現・川崎重工グループの創設者・川崎正蔵に請われて就任したものです。

第一次大戦中の1916(大正5)年、貨物船のセールスのためにロンドンを訪れます。そこで偶然目にした戦時期に愛国心を煽るポスター、画家・ブラングィン作の一枚が彼の心をとらえました。画家の作品の蒐集をきっかけに、松方は画家に西洋絵画コレクションのアドバイスを請うようになります。

その後も幾度のヨーロッパ滞在の際に、マネ、モネ、ピサロ、クールベ、ゴッホ、ボンヴァン、ゴーギャン、ミレイ、ロセッティら、19世紀の著名画家の作品を次々と買い、数千点に及ぶコレクションを形成していきます。

松方はコレクションを少しずつ日本に持ち帰り、ブラングィンの設計をもとに「共楽美術館」と名付けた美術館で公開する準備を始めます。

しかし第一次大戦後の世界恐慌でその夢は実現しません。1927(昭和2)年に川崎造船所の経営が破綻、負債整理のため日本国内にあった松方コレクションは売立てにより散逸してしまいます。愛情込めて蒐集した作品を手放すことに、当人しかわからないとても深い悲しみがあったことは想像に難くありません。

松方コレクションの代表作とも言えるゴッホの「アルルの寝室」、ルノワールの「アルジェリア風のパリの女たち」も、コレクションの運命を物語るように数奇な道を歩みます。

関東大震災復興資金捻出のための高額な関税が敬遠されたことで、ロンドンとパリにコレクションの多くが残されます。しかしロンドンのものは倉庫の火災で焼失、パリのものは第二次大戦後に敵国財産としてフランス政府に接収されることになります。

1951年のサンフランシスコ講和会議で吉田茂首相がフランスに直談判し、コレクションの返還が大きく前進します。その中で「アルルの寝室」など一部作品はフランス側が譲らず、現在もオルセー美術館などが所蔵しています。一方「アルジェリア風のパリの女たち」などの作品は、美術館を建設して展示するという条件付きで返還されました。これが西洋美術館誕生のきっかけです。

【公式サイトの画像】 オルセー美術館「アルルの寝室」

【公式サイトの画像】 国立西洋美術館「アルジェリア風のパリの女たち」

松方コレクションは西洋絵画ばかりではありません。明治から戦前にかけて欧米で日本・中国美術品の画商としてその名を高くとどろかせた山中商会を通じて、浮世絵8,000点を一括購入しています。この浮世絵はその後、皇室献上を経て東博の所蔵となり、東博における浮世絵コレクションを代表する存在となっています。

【公式サイトの画像】 山中商会の歴史

松方幸次郎は蒐集の記録を残していなかったため、コレクションの全貌は明らかではありません。しかし2016年になってロンドンで画商が残した松方との取引記録が発見され、全貌が明らかになることが期待されています。世界を股にかけて激動の20世紀を生きた美術コレクターに、とても奥深いロマンを感じることは禁じえません。

こんなところがあったのか。
日本にも世界にも、唯一無二の「美」はたくさんあります。



明治の大物実業家が収集に傾けた情熱には脱帽


川崎重工の礎を築いた男 松方幸次郎(川崎重工業株式会社)
https://www.khi.co.jp/stories/articles/vol31/
松方コレクション(国立西洋美術館)
http://www.nmwa.go.jp/jp/about/matsukata.html


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二人の根津嘉一郎 ~日本トップクラスの実業家系美術館を造った男たち

2018年01月12日 | 美の偉人ものがたり


根津美術館の竹の道はいつも美しい

東京・青山の根津美術館は、日本や中国美術のコレクションでは日本トップクラスの質を誇ります。日本文化や美術を体験したいものの京都まで行く時間のない外国要人がよく訪れるほどです。

館のコレクションは、東武鉄道の経営を軌道に乗せた初代・根津嘉一郎(ねづかいちろう)が主に蒐集したことはよく知られています。美術館を設立し、東武グループの経営を受け継いだ初代の長男も、嘉一郎を名乗りましたので嘉一郎は二人います。そんな二人の嘉一郎が美を追い求めた軌跡を探ってみたいと思います。

【公式サイトの画像】 初代・根津嘉一郎

根津嘉一郎は幕末の1860年、山梨県の豪商の家に生を受けました。明治期に関東で多くの事業を興した甲州財閥(山梨県出身の経営者たち)の代表格として知られたように、1896(明治29)年に東京に進出してからは、東武鉄道など数多くの企業を再建していきます。

並行して茶の湯にもいそしむようになり、美術品の蒐集にも情熱を傾けました。初代の孫で根津美術館の現館長である根津公一は「気性の激しい人で、事業も美術品収集も豪快だった」と語っています。

日本では大正時代ごろまで、実業家や華族が所有する美術品は、茶会などで限られた客人に披露するにとどまっていました。しかし、事業で得た富を社会に還元するという、アメリカで一般的だった「フィランソロピー」の考え方が日本の実業家の間で知られるようになると、美術館を造って公開する機運が生まれ始めます。

東京・大倉集古館、倉敷・大原美術館、名古屋・徳川美術館は、この考え方に基づき戦前に所蔵品の公開を始めた日本の私立美術館のはしりです。

根津嘉一郎は、1909年に渋沢栄一を団長とした訪米視察団に参加し、フィランソロピーの考え方に感銘を受けました。また当時相次いでいた国宝級の美術品の海外流出にも心を痛め、蒐集にさらに情熱を傾けたようです。太っ腹で、売立品を次々と高値で落札していきました。

館で最も有名なコレクションである尾形光琳の国宝「燕子花図屏風」は、1913(大正2)年の西本願寺からの売立で入手したものです。また中国・宋時代の水墨画家として名高い牧谿(もっけい)の代表作の国宝「漁村夕照図」を、1926(昭和元)年に松山の松平家から入手しています。夕暮れの光の明暗と海辺の湿度の高い空気感の表現が絶妙な作品です。

【公式サイトの画像】 牧谿「漁村夕照図」

初代・嘉一郎は1940(昭和15)年にこの世を去ります。この時、相続する二代・嘉一郎に莫大な相続税が課されかけました。しかし蒐集品を新たに創設する美術館に寄贈することで免税を勝ち取り、コレクションは散逸を免れました。

翌1941(昭和16)年に現在地に美術館が開館し、今に数多くの秀逸のコレクションを受け継いでいます。結果的に貴重なコレクションの散逸を防ぐことになった英断を下したのは、当時の税当局の幹部で、戦後に首相になった池田隼人です。

二代・嘉一郎は、初代とは対照的に温厚な人物でした。長らく東武鉄道の社長を務めていましたが、趣味は「根津美術館での美術鑑賞」という人柄でした。第二次大戦では、所蔵品は疎開させて無事でしたが、建物は焼失しました。

戦後は美術館の再建に尽力し、美術館の館長として蒐集を続けながら、寄贈品も多く集めるようになりました。美術品の寄贈は通常、公立の美術館・博物館に行われるのが一般的ですので、私立美術館としては稀有な存在と言えます。

初代・嘉一郎の邸宅があった敷地が現在の根津美術館です。起伏に富んだ美術館裏の広大な庭では、凛とした水の流れる音と青山に残る杜のイオンを体験できます。茶室も点在し、まさに東京都心の「市中の山居」です。私立美術館では数少ない常設展があることも、根津美術館の魅力の一つです。展示中の作品を公式サイトで確認できるのも、東博と並んでうれしい心配りです。

【公式サイト】 いま鑑賞できるNEZUコレクション

ミュージアムショップもおすすめです。館蔵品をセンスよくあしらったグッズが揃っており、作品の鑑賞と同じく時間を忘れてしまうほどです。ぜひ余裕をもってお出かけください。

【公式サイト】 ミュージアムショップ

こんなところがあったのか。
日本にも世界にも、唯一無二の「美」はたくさん。



所蔵する数多くの国宝・重文と館の歩みを完全ガイド


根津美術館
http://www.nezu-muse.or.jp/


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繊細な仏のお顔が人々の心を癒した ~快慶

2017年06月10日 | 美の偉人ものがたり

奈良国立博物館 快慶展

 

 

東大寺の南大門をくぐる人を圧倒する金剛力士像の作者が運慶と快慶であることは、多くの日本人が知っている。日本の仏像史を飾るスーパースターと言っても過言ではない。

 

仏像は、迷いのない表情で会いに来る者の心を落ち着かせてくれる。秀逸な作品は日本には数多く残り、2017年5月時点の日本の「彫刻」部門の文化財指定は、国宝169件、重文2,699件もある。「彫刻」は、人物像や伎楽面など一部を除きほとんどが仏像で、かつ9割が鎌倉時代以前の制作である。

 

美術品は時代を遡るほど作者が不明になる場合が多く、仏像も然りである。スーパースターの一人「運慶」も、“伝”運慶作は極めて多いが、真作と確認されているものは少ない。一方「快慶」は、仏像に残した銘記や関係史料から真作と確認されているものが多く、稀有な芸術家の一人である。

 

躍動感のある表現が秀逸な運慶に対して、快慶は静寂で繊細で洗練された表現が秀逸だ。その作風は「安阿弥様(あんなみよう)」と呼ばれ、自身を「巧匠アン(梵字)阿弥陀仏」と銘記していたように、阿弥陀如来像の作品が多く残る。

 

運慶は、鎌倉幕府との関連が深く、東国に出向いての制作が多かった(関東にも作品が多く残る)が、快慶は東国での制作がほとんどない。快慶の造像の特徴としては、東大寺大仏の鎌倉復興を勧進職として遂行した重源(ちょうげん)との関係がまずあげられる。

 

重源は、平重衡による南都焼き討ちで焼失した大仏復興資金を集める勧進の出先拠点となる「別所」を西国各地に設け、快慶は別所の造像で重源の勧進に大きく貢献した。兵庫県の浄土寺はその代表例で、快慶による国宝・阿弥陀三尊像が死者を西方極楽浄土に導くまばゆいばかりの輝きを今に伝えている。

 

重源の大仏復興は、長く続いた朝廷や源平の戦乱の犠牲者を弔うことも大きな目的であり、そうした精神が阿弥陀信仰への帰依が強かったと思われる快慶の琴線に触れたのであろう。

 

華厳宗大本山の東大寺の別格本山に安部文珠院(奈良県桜井市)があり、ここにも重源ゆかりの快慶の傑作が伝えられている。重源が深く信仰した渡海文殊像を、東大寺復興にあわせて造立したもので、高さが7mに達する中尊の文殊菩薩の存在感を、繊細で美しい快慶らしいお顔が見事に引き締めている。脇侍の「善財童子」が振り向いた瞬間をあらわした表情が実に神秘的で、吸い込まれるように見つめてしまう。

 

安部文珠院 国宝・渡海文殊

 

 

快慶の造像にはもう一つ特徴がある。老若貴賤を問わず多くの人がお金を出し合って造仏する「結縁合力(けちえんごうりき)」だ。平安時代は支配階級の個人による造仏が多かったが、鎌倉時代に入ると結縁合力が多くなる。重源の精神と一般の民衆の考え方には相違がなく、皆が死者を弔う思いが強かった。

 

快慶が高さ三尺(約90cm)の阿弥陀如来立像を数多く残したのは、結縁合力に積極的に応じたためだ。快慶の繊細な作風は、弔いの精神を彼なりに表現した結果のように私は感じる。静かに祈ることを求めた時の人たちに愛されたのだろう。

 

快慶の生きた時代、鎌倉仏教の先駆となる法然による浄土宗が勃興した。快慶が信じた阿弥陀信仰は新たな形に発展し、「口に出して阿弥陀に念仏を唱えれば極楽に行ける」という浄土宗の教えに共感が広まった。まだ禅宗や日蓮宗が盛んではなかった鎌倉時代は、快慶の阿弥陀像は人々の帰依を深く集めたのだろう。

 

奈良国立博物館で「快慶展」が開催されていたが、快慶作の国宝仏像で常にお会いできる(常時公開されている)ものは以下である。例外が発生する可能性もあるので訪問前にご確認ください。

 

東大寺(奈良市)南大門 金剛力士像 http://www.todaiji.or.jp/

浄土寺(兵庫県小野市)浄土堂 阿弥陀三尊立像 http://ono-navi.jp/spot/463/

安倍文殊院(奈良県桜井市)収蔵庫 文殊五尊像 http://www.abemonjuin.or.jp

 

 

 

日本や世界には、数多く「ここにしかない」名作がある。

「ここにしかない」名作に会いに行こう。

 

 

 

 テンポのよい解説で日本の仏像史の予習・復習にはおすすめ。

仏像史の流れの中から快慶の個性をあらためて理解できる。

(平凡社新書)

 

 

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ルネサンスに幕を降ろした時代の寵児 ~カラヴァッジョ

2016年12月17日 | 美の偉人ものがたり

San Luigi dei Francesi教会のカラヴァッジョ作品


現代の著名画家の中で、存命中に売れた/売れなかった、いずれにしろ没後長い間忘れられ、カラヴァッジョのように20世紀になって改めて評価された画家は少なくない。

そうした画家は、日本画では今や展覧会が開催されれば最も集客力がある一人の伊藤若冲。存命中は京都で売れっ子画家だったが、明治以降は関心からはずれ、再び注目されたのはここ20-30年のことだ。西洋画ではフェルメール。彼も存命中はオランダのデルフトの上流階級の間で人気を誇っていたが、残した作品数が少なかったからか、19世紀後半まで忘れられていた。今や世界中で絶大な人気を誇り、贋作が最も多い画家の一人としても著名である。

今ではバロック絵画の扉を開けたことで著名なカラヴァッジョも、長い間忘れられていた画家の一人だ。工房も弟子も持たず、喧嘩は日常茶飯事で殺人まで犯した荒くれ者だったからか、1610年にこの世を去ると、賛否両論が激しかった彼の画風を周辺で継続しようとするものはいなかった。以来20世紀まで、肉体の写実表現とキアロスクーロ(明暗法)の絶妙なバランスが評価されることはなく、逆にリアルすぎて「醜い」と感じた人が少なくなかったようである。

彼はミラノ出身だが、1592年にローマに移ってから一躍脚光を浴びる。

時のローマ教皇シクストゥス5世がローマの街並みの大改造を行い、建築ラッシュの時代だった。宗教改革への対抗として、華美を好まないプロテスタントに対し、教会の建築や装飾の優雅さを誇ることで、信者を引き付けようとした。バチカンのサン・ピエトロ大聖堂の丸屋根が完成したのも、シクストゥス5世の治世の時で、カラヴァッジョはまさに絵画需要が旺盛なタイミングでローマにやってきたことになる。

カラヴァッジョにはもう一つの時代の流れの幸運があった。ミケランジェロやラファエロがローマで活躍した16世紀初頭の「盛期ルネサンス」以降、絵画の潮流は「マニエリスム」となっていた。偉大な盛期ルネサンスの画家の「マニエラ(=手法)」を模倣することで、レベルの高い絵画を描くことができると考えられた。ミケランジェロが「最後の審判」で描いた人体のくねりや引き伸ばしが多用され、当時のローマの人々からも「抽象的で時代遅れ」とみなされていた。ちなみに「マニエラ」は、現代の私たちが用いる「マンネリ」の語源であり、まさに革新的な絵画が求められていた時代だった。

2016年3月~6月に、国立西洋美術館で開催された「カラヴァッジョ展」には、11点の彼の作品が出品された。11点となると少ないように聞こえるが、まず彼の真筆は世界中で60点ほどしか確認されていない。また、ローマで彼の名を一躍有名にしたサン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会にある「マタイ三部作(召命/天使/殉教)」のように、移動不可能な作品も多いため、世界でも有数の展覧会だ。


Rome, San Luigi dei Francesi教会 聖マタイと天使


ウフィツィ美術館「バッカス」、ブレラ絵画館「エマオの晩餐」、世界初公開の「マグダラのマリア」など、あたかも写真のように人間の一瞬の表情をとらえ、強調したいところにスポットライトを浴びせる手法は、同じ宗教画であってもルネサンスの画家の作品に比べて、理想の姿ではなく現実に近いよう描かれており、斬新さを明確に感じる。


Firenze, Uffizi美術館 バッカス


Milan, Brera絵画館 エマオの晩餐


カピトリーノ絵画館「女占い師」は、現実の人間の人生模様を題材とする「風俗画」であり、ジュルジュ・ラ・トゥールのように多くの画家が好んだ主題のはしりとなった。宗教画一辺倒だったローマの人たちを大いに驚かせたが、斬新すぎたのか彼の存命中は全く人気が出なかった。


Rome, Capitolini絵画館 女占い師


この展覧会に出品されている作品を見るだけで、ルネサンスの画風とは明らかに異なる表現を世に提案し、後世のバロック画家に影響を与えたことがよくわかる。

日本の美術館にカラヴァッジョ作品はなく、ローマに多くの作品がある。中でもサン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会は最高傑作だ。1時間くらい時間がたつのを忘れて見ていることになるだろう。

カラヴァッジョが活躍しこの世を去った時期は、日本ではちょうど、狩野派と差別化し、豪華絢爛よりも「静けさ」の絶妙な表現で障壁画の絶品を多く残した長谷川等伯や海北友松の時期と重なる。「新しい絵を描きたい」という思いだけは共通であろう。



日本や世界には、数多く「ここにしかない」名作がある。
「ここにしかない」名作に会いに行こう。

公式サイト
サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会(ローマ)
http://saintlouis-rome.net/

 

 

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