横浜美術館で行われている「原三溪の美術 -伝説の大コレクション」のレポート、後半戦です。茶道具コレクションや、ほとんど知られていない三溪の日曜画家としての素顔に加え、三溪が支援した若き日の大家の作品をたっぷりと楽しめます。
- 茶の湯は名士の交際の必須科目、三溪は人生後半でこよなく愛した
- 三溪の書画のタッチは文人画風でほのぼのと優しい、人柄がしのばれる
- 近代日本画の巨匠の名作も集結、彼らの多くが三溪の下から巣立った
横浜美術館にとって、郷土のヒーローでもある三溪を大々的に取り上げる、満を持した展覧会です。前半戦に引き続き、後半戦も濃厚です。
横浜美術館 エントランスホール
三溪の茶人としての活動はおおむね大正になってから、人生の後半生に本格化します。横浜経済界やコレクターとしての地位を確立し、自ら茶会を主宰する機会も多くなっていきます。茶道具や掛軸といった”モノ”の蒐集だけにとどまらず、茶の湯と言う”コト”を通じて、文化への造詣や審美眼の醸成を深めていったのでしょう。
【展覧会公式サイト 茶人三溪】 ご紹介した作品の画像の一部が掲載されています
「第3章 茶人三溪」でも、三溪が茶会の記録をきちんとのこしていたことから、三溪の茶人としての側面をリアルにうかがい知ることができます。関東大震災を機に蒐集とパトロン活動は控えるようになりましたが、茶の湯だけは欠かしませんでした。
三溪は茶会に仏教美術を用いて驚かせた
【福岡市美術館 公式サイトの画像】 「王子形水瓶」
三溪の茶人としての交流は、益田鈍翁や高橋箒庵ら三井の重鎮に加え、「電力王」と呼ばれながら稀代の茶人としても名を馳せた松永耳庵(まつながじあん)とも活発でした。「王子形水瓶」福岡市美術館蔵は耳庵がほれ込んだ作品で、三溪没後に耳庵に譲られました。
奈良時代に造られた銅合金製で、法隆寺伝来と伝えられています。深い緑色に見える表面は優美なラインに造形されており、三溪は花生として茶会で愛用していました。茶会ではそれまで仏教美術が用いられることはなかったため、斬新なアイデアとして評判を呼びました。通期展示です。
【五島美術館 公式サイトの画像】 「志野茶碗 銘 梅が香」
三溪は江戸時代最高峰の茶道具コレクターで研究家でもあった大名・松平不昧(ふまい)の旧蔵品も多数購入しています。「志野茶碗 銘 梅が香」五島美術館蔵もその一つで、三溪が特に好んで茶会で用いました。素朴な印象を受けますが、拡張も兼ね備えた名椀です。8/7までの展示です。
三溪の茶道具コレクションの内の少なからずは、荏原製作所の創業者で茶人としても名高い畠山即翁(はたけやまそくおう)が戦後になって引き継ぎ、現在畠山記念館の所蔵となっています。「青織部菊香合」はその一つで、青い釉薬の格調が高い松平不昧の旧蔵品です。通期展示です。
三溪園で所蔵美術品を展示する三溪記念館
「第4章 アーティスト三溪」では、三溪が自ら筆を執った書画作品が、所蔵する三溪園から多数出展されています。第4章の作品はすべて通期展示です。
三溪は画家になっても大成していた、だろう
【展覧会公式サイト アーティスト三溪】 ご紹介した作品の画像の一部が掲載されています
三溪は子供の頃に文人画家だった祖父から絵を学んでおり、素人画家とは思えない腕前の作品が多く見られます。与謝蕪村を思わせる”ほのぼの”系の画風の他、自らが好んだ琳派表現の影響が見られます。
好んで描いた「蓮」をモチーフとした作品が多く出展されています。琳派の”たらしこみ”表現を多用しており、何より蓮の花を主役にする大胆な構図が印象的です。作品から表現を学ぶのはさることながら、それを素人画家に見えないように実行してしまう素人画家はなかなかいないでしょう。
宗達/光琳/抱一と続く画派は明治時代までは「光琳派」「宗達光琳派」と呼ばれていましたが、今日用いられる「琳派」の呼び名を初めて用いたのが三溪という説もあります。「蓮」の絵からも三溪の琳派贔屓が伝わってきます。
「鈍翁の一日」は先輩茶人として敬愛していた益田鈍翁の小田原の別荘での一日の過ごし方を絵巻にしたためたものです。文人画風のタッチからは三溪の人柄までもがしのばれます。
三溪がパトロンとしての活動は、1899(明治32)年に同じ横浜出身の岡倉天心が下野して立ち上げた日本美術院の賛助会員になったことが、原点の一つであろうと考えられています。三溪がパトロンとして目を向けたのは、日本画の中でも伝統的な表現にとらわれないことを指向した”新派”と呼ばれたグループが中心です。横山大観や下村観山ら日本美術院に参加した画家たちが主に該当します。
三溪のフィランソロピー精神に火をつけた新派
三溪は江戸時代に大胆な構図と色彩表現で一世風靡した琳派をこよなく愛していました。新派たちの新しい表現にチャレンジする考え方が、三溪にとっては波長が合ったのでしょう。
三溪の”新派”作品の購入は1908(明治41)年から本格的に始まりますが、この頃は天心が率いた日本美術院の活動が五浦で最も困窮していた時期と重なります。自らの好みに合いそうな画家たちが背中を丸めざるをえない姿を見たことも、三溪のフィランソロピー精神に火をつけたのでしょう。
「第5章 パトロン三溪」の展示では、三溪が最も贔屓にした下村観山の名品が最初に目に飛び込んできます。
【国立美術館所蔵作品検索システム】 下村観山「大原御幸」東京国立近代美術館蔵
【e国宝の画像】 下村観山「弱法師」東京国立博物館蔵
「大原御幸」東京国立近代美術館蔵は、1908(明治41)年購入、三溪の新派贔屓の始まりを告げるような記念碑的作品です。三溪が展覧会でこの作品を目にしたときは未完成部分が多かったにもかかわらず、三溪は購入します。モチーフは平家物語に基づく”古典”ですが、人物表現が写実的で色彩も明確です。躍動感に富んだ新派の表現であることがありありと伝わってきます。8/7までの展示です。
「弱法師(よろぼし)」東京国立博物館蔵は、三溪園の梅の木をモチーフに描いたもので、観山の最高傑作と評され重要文化財に指定されています。三溪園を訪れたインドの詩人・タゴールがいたく気に入り所望しましたが、三溪は手放しませんでした。8/9以降の展示です。
【国立美術館所蔵作品検索システム】 菱田春草「賢首菩薩」東京国立近代美術館蔵
菱田春草「賢首菩薩」東京国立近代美術館蔵は、天心の勧めで1908(明治41)年に購入しますが、すぐに手放します。三溪は新派の画家でも春草はあまり好みませんでしたが、春草の早世後に再び購入を始めています。当初は琴線に触れなかったのでしょうか。
唐の高僧を、輪郭線を書かずに面的に表現した作品です。色彩の豊かさも強烈な印象を与えます。当初は表現が斬新すぎてあまり受容されませんでした。現在では朦朧体(もうろうたい)の道を開いた名品として重要文化財に指定されています。8/14までの展示です。
三溪園の三羽烏
【国立美術館所蔵作品検索システム】 小林古径「極楽井」東京国立近代美術館蔵
小林古径は、安田靫彦(ゆきひこ)/前田青邨(せいそん)と共に、矢代幸雄が「三溪園グループの代表」と呼んだ画家で、三溪から子供のように可愛がられていました。
「極楽井」東京国立近代美術館蔵は、古径らしい真っ白な肌の女性が水を汲む様子を桃山時代の装束で描いています。背景には大輪の花が一杯に描かれており、桃山時代の障壁画を思わせるような迫力と華やかさがある作品です。8/2以降の展示です。
【展覧会公式サイト パトロン三溪】 ご紹介した作品の画像の一部が掲載されています
安田靫彦は前田青邨と共に戦後に法隆寺金堂壁画を模写した歴史画の大家です。「夢殿」東京国立博物館蔵は、安田にとってははじめて製作した大画面作品であり、瞑想する聖徳太子の神秘的で洗練された表情が印象的です。8/9以降の展示です。
前田青邨「御輿振(みこしぶり)」東京国立博物館蔵は、延暦寺の僧兵が神輿で京の街に強訴した様子を横長に描いた大作です。三溪園にあった古美術からも表現を学んだと考えられており、緊迫感に満ちた街の様子がリアルに描かれています。青邨の出世作となりました。8/9以降の展示です。
【ColBase 国立博物館所蔵品検索システム】 速水御舟「京の舞妓」東京国立博物館蔵
速水御舟も三溪に特に可愛がられた画家で、結婚の際に三溪が媒酌人を務めています。「京の舞妓」東京国立博物館蔵は、1920(大正8)年の院展で衝撃を与えた御舟初期の代表作です。祇園の人気舞妓をモデルに、表情はもとより背後の壁面などグロテスクなまでの写実表現が観る者をひきつけます。
発表時には横山大観から酷評されましたが、日本画でここまでリアルに見える人物画はまずないでしょう。前衛的な細密描写と象徴表現で大成した御舟の若き日の実力を垣間見ることができる名品です。7/26-8/7の展示です。
東京国立博物館
「第5章 パトロン三溪」の出展作品の多くは、東京国立博物館と東京国立近代美術館の所蔵品で占められています。戦後に三溪コレクションの近代日本画の多くを引き継いだのは東博で、後に一部が東近美に移管されました。
三溪コレクションは、大規模コレクションの中でも比較的散逸を免れています。古美術は大和文華館、茶道具は畠山記念館、近代日本画は東博と、ある程度まとまって引き継がれたためです。美術品がまとまって美術館に収蔵されるのは本当に意義深いことです。そんなことを感じさせる見事な構成の展覧会でした。
こんなところがあります。
ここにしかない「空間」があります。
原三溪 横浜に美の楽園を創った男
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<横浜市西区>
横浜美術館
開館30周年記念
生誕150年・没後80年記念
原三溪の美術 伝説の大コレクション
【美術館による展覧会公式サイト】
【主催メディアによる展覧会公式サイト】
主催:横浜美術館、日本経済新聞社
会期:2019年7月13日(土)~9月1日(日)
原則休館日:木曜日
入館(拝観)受付時間:10:00~17:30(金土曜~19:30)
※会期中6回に分けて一部展示作品/場面が入れ替えされます。
詳細は「展示替えリスト」PDFでご確認ください。
※この展覧会は、今後他会場への巡回はありません。
※この美術館は、コレクションの常設展示を行っていません。企画展開催時のみ開館しています。
◆おすすめ交通機関◆
東急東横線直通・みなとみらい線「みなとみらい」駅下車、3番出口から「マークイズ」を通って徒歩3分
JR京浜東北・根岸線「桜木町」駅下車、東口から「動く歩道」「ランドマークプラザ」を通って徒歩10分
横浜市営地下鉄ブルーライン「桜木町」駅下車、北1口から「動く歩道」「ランドマークプラザ」を通って徒歩15分
JR東京駅から一般的なルートを利用した平常時の所要時間の目安:50分
東京駅→JR上野東京ライン→横浜駅→JR根岸線→桜木町駅
【公式サイト】 アクセス案内
※この施設には有料の駐車場があります。
※休日やイベント開催時は、渋滞/駐車場不足により、健常者のクルマによる訪問は非現実的です。
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>茶会に仏教美術を初めて用いたのは三溪
この点ですが、コレは思い込みで開拓者は益田孝(鈍翁)だと思っておりましたので意外でした。
実際に裏付ける資料などありましたらご教示ください。
https://blog.goo.ne.jp/38_gosiki/e/ade958221025956ce46bec7f7044de2f
に記した以下の表現
茶会に仏教美術を初めて用いたのは三溪
について、裏付け史料をご説明します。2点確認できます。
1)展覧会公式サイト
https://harasankei2019.exhn.jp/exhibition/exhibition02.html
茶の湯に仏教美術を取り入れる趣向は三溪の前にはみられません。
と解説しています。
茶会では出席者/茶道具/献立といった詳細が記録されることが多いため、三渓の記録より早い時期に仏教美術を茶会で披露した記録が確認されていない、と解釈できます。
2)展覧会図録
P.236「王子形水瓶」の作品解説
三井の重鎮・高橋箒庵が三渓が仏教美術を茶会に取り入れたことについて「これ以上の名案があるとは思えない」と評したと解説しています。
高橋は三渓や益田鈍翁と並んで当時を代表する茶人の一人であり、三井では益田の後輩にあたります。
仮に高橋や三渓が益田の方が仏教美術を先に茶会で用いたことを知っていれば...
高橋にとっては大先輩の顔をつぶすようなことになり、絶賛を行うとはまず考えられません。三渓も益田を茶人としても実業家としても敬愛していたため、高橋の発言を記録に残すようなことはしないと思われます。
高橋や三渓は益田との茶の湯の交際は親密で、そもそも益田が先に茶会で仏教美術を用いたことを知らない可能性も低いでしょう。
このような解釈から「三渓が初めて」という可能性が高いと思われますが、「誰かが先に仏教美術を用いていたが記録が存在せずわからない」場合もあり、100%断定することはできません。
よってブログ文中の見出し表現を、誤解を招かないよう「三溪は茶会に仏教美術を用いて驚かせた」と訂正いたします。
ご指摘いただきありがとうございました。
小生なりに確認しましたのでご報告申し上げます。
1)2)両方の論拠となったと思われる第2次資料を見つけました。
それによると
「これ以上の名案があるとは思えない」と評した
のは高橋箒庵ですが、その対象は益田紅艶(鈍翁の弟)が催した下記の天平茶会の評価でした。 しかし、それに続いての三溪に関しての表現は天平茶の創始者であると言ってます。
仏教美術をどう定義するかによってですが、天平時代の美術品を用いた茶会は三溪であるということでしょうか。
天平茶会 大正8年2月1日
『但し天平茶と云へる事、最初横浜の原三渓君が之を試み、次に益田鈍翁が之に和し、今度紅匏が更に合槌を打ちたるにて、云々。。』
東都茶会記 5巻 41頁
「王子形水瓶」は天平時代に造られて法隆寺に伝来したという、茶会で飾る品としてはかなり異色だったと思われます。仏教色の一切なかった絵画や書、工芸品しか用いてこなかったそれまでの茶会に、どこか仏教文化を感じさせる神秘的でエキゾチックな美術品を三渓が用いてアイデアの斬新さが評判を呼んだ、と解釈できるように感じます。
仏教美術を厳密に定義することは困難ですが、文化そのものに仏教の影響がきわめて強かった奈良時代はさらに区別が困難になります。「天平の品」と称するか「仏教美術品」と称するか、どちらでもOKではないでしょうか。