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美の五色 bino_gosiki ~ 美しい空間,モノ,コトをリスペクト

展覧会,美術,お寺,行事,遺産,観光スポット 美しい理由を背景,歴史,人間模様からブログします

お寺の建築様式はブレンドの賜物:美術鑑賞用語のおはなし

2018年06月15日 | 美術鑑賞用語のおはなし



お寺に様々ある建物の中でも、ほぼ中央にあって最も大きくて目立つのは、本堂(金堂・仏殿)・講堂(法堂)・御影堂といった宗教行為を行う建物です。これら建物にも建てられた時代の流行を取り入れ、歴史の生き証人としてとても魅力的な姿を今に伝えています。

本堂講堂御影堂は、本尊など寺で最も大切な信仰対象を安置しているため、方丈・書院など住居・執務に使う建物に比べて、より頑丈かつ華麗に造られる傾向があります。

住宅の場合と同じくお寺の建築も、過去の建築例や複数の様式から優れた点をブレンドして造られています。このブレンドに大いに利用されたのが、鎌倉時代に中国からもたらされた建築様式です。お寺でよく目にするデザインの特徴の多くが、中国に起源があることがわかります。


1)よく耳にする和様・大仏様・禅宗様とは?

お寺のガイド本の解説によく出てくる用語です。鎌倉時代以降の寺の堂宇の建築様式を分類する用語ですので、平安時代以前の寺の堂宇建築には用いません。

和様(わよう)は、鎌倉時代に中国から大仏様・禅宗様が輸入される以前から存在した寺の堂宇の建築様式です。時代が下るにつれ和様と大仏様・禅宗様がブレンドされ、互いの特徴を活かした折衷様(せっちゅうよう)もみられるようになります。

以前まで、大仏様(だいぶつよう)は天竺様(てんじくよう)、禅宗様(ぜんしゅうよう)は唐様(からよう)と呼ばれてきました。

なお寺の建築様式の時代変遷と、屋根の形状の時代変遷はあまり一致しません。奈良時代以前は寄棟造が多く、中世以降は入母屋造が多くなるという、おおまかな傾向は見られますが例外は多数あります。


平安時代までの寺の建築様式

寺の建築様式は、仏教そのものの伝来と一緒に飛鳥時代に伝えられたと考えられます。飛鳥時代の寺の建築で現存するものはなく、建築様式はわかりませんが、仏像と同じく朝鮮半島に近い様式であった可能性が高いでしょう。

お寺の建築で最古の法隆寺・金堂や薬師寺・東塔は、白村江の戦いで一時的に朝鮮半島や中国大陸との交流が絶たれていた白鳳時代の建築様式で、中国風のデザインがあまり目立ちません。

奈良時代後期から平安時代初期にかけて、再び遣唐使による中国大陸との交流が活発に行われるようになります。中国風のデザインが目立つようになり、唐招提寺・金堂や室生寺・金堂にその姿を確認することができます。

平安時代中期以降は遣唐使が廃止されたこともあって、国風文化と呼ばれる日本独自の好みが寺の建築様式にも現れます。徐々に屋根は入母屋造が多くなり、大きさ自体がコンパクトで天井が低い建物が多くなります。宇治の平等院鳳凰堂やいわき市の白水阿弥陀堂が代表例です。

平安時代以前はこのように、明確な建築様式は確認できず、文化全体のおおまかな流れに即したものでした。


とにかく頑丈な「大仏様」

平安時代末期の平重衡による南都焼討により東大寺の大仏殿が焼失します。当時の朝廷にとっては権力の象徴を揺るがす一大事であり、平家に代わって武家の権力者になろうとしていた源氏の協力も取り付け、すぐさま復興に着手します。

復興の責任者に任命された重源(ちょうげん)が、巨大建築を遂行するために導入したのが、自ら中国・南宋の福建省で学んだ建築様式でした。それが現代でいう「大仏様」です。


東大寺・南大門の「貫」(緑線で示した部材)

平安時代の国風文化で主流となったコンパクトな建築様式では、大仏殿のような巨大建築は対応できません。大仏様は木造建築として、シンプルで頑丈であることがその最大の特徴です。

柱は直径が太い巨木の円柱をふんだんに使います。柱を水平方向に支える「貫(ぬき)」を多用し、天井板がなく屋根裏が見えます。床は土間で、窓は採光や通風に優れた連枝窓が目立ちます。

東大寺・南大門や兵庫県・小野市の浄土寺・浄土堂などが代表例です。鎌倉時代初期以降は純粋な大仏様は見られなくなります。大きいものより小さいものを好む日本人には合わなかったのでしょうか。

大仏様はほんのわずかな期間だけ花を咲かせたことになりますが、建築技術としてはその後、綿々と受け継がれていきます。「貫」がその代表例です。地震や暴風雨災害が多いにもかかわらず、日本で木造建築が現代まで生き残ったのは、「貫」による補強が大きく貢献していると考えられています。

現代でも、四つ足の木製の椅子の足元に、水平方向に貫がよく用いられています。シンプルながらもとても合理的な技術の原点が、とにかく頑丈な「大仏様」なのです。


浄土寺・浄土堂

【Wikipediaへのリンク】 大仏様


繊細なデザインの「禅宗様」

栄西があらためて日本に伝えた禅宗が鎌倉幕府の庇護により本格的に広まると、禅宗寺院の建築様式である「禅宗様」も広まってきます。コンパクトで繊細なデザインであるため、同じ頃に中国から伝来した「大仏様」とは異なり、その後も長く採用され続けました。


上海・玉佛禅寺

最大の見た目の特徴は、屋根の四方の先端が強く上方に反っていることです。この反りが建物を実に優美に見せています。大仏殿ほど大きくない建物でこそ、しっとりと落ち着くデザインです。他にも中国風のデザインも多く見られます。天井板がなく屋根裏が見える、柱は円柱、土壁はほとんどない、床は瓦の「四半敷」、窓は釣り鐘型に見える「火灯窓」、扉は重厚感がない薄手の「桟唐戸」、などが禅宗様の特徴です。

日本人好みに合った禅宗様は禅宗以外の寺院にも広まります。中でも「火灯窓」は、お寺や城など古い建築の象徴のように現代の日本人にすっかり定着しています。

【Wikipediaへのリンク】 禅宗様


優美な「和様」


滋賀県の西明寺・本堂、和様の代表例

和様は漢字の意味から推測できるように、日本人の好みに最も合った建築様式です。用語としては、中世以降に大仏様・禅宗様に該当しないお寺の建築を区別するために生まれました。

その特徴をあえて言えば、よりコンパクトな空間と優美なデザインです。床が張られ天井板があるため室内空間が小さい、柱が細い、縁側がある、などがあげられます。寝殿造の京都御所のような印象を受けます。

【Wikipediaへのリンク】 和様建築


ブレンドの賜物「折衷様」

漢字の意味のごとく、中国からもたらされた「大仏様」「禅宗様」と、それに該当しない「和様」の特徴をブレンドしたとみなされる様式です。

近世にかけて一般的になり、お寺の建築様式そのものの区別ができなくなっていきます。「和様」以上に定義が難しい様式です。大阪の観心寺・金堂が代表例としてよくあげられますが、学術的には明確にあげるのは困難とされています。


山岳寺院に多い「懸造」

平安時代になって山の中に寺が建立されることが多くなると、平地が限られるため斜面や川に突き出るように堂宇が建てられます。床下を長い柱で支える懸造(かけづくり)です。京都・清水寺本堂、奈良・室生寺金堂、鳥取・三仏寺投入堂が代表例です。

江戸時代には川や海に張り出した町屋でも見られるようになります。


巨大な懸造、清水の舞台


2)寺院建築のパーツ

お寺の中には寺院建築特有の意匠が数多くあり、ファンも少なくありません。「お寺に来た」と感じさせる逸品が勢揃いです。

本尊を安置するパーツです。

須弥壇(しゅみだん)

  • 本尊など、その堂宇の主役となる仏像を安置するための場所です。多くは床より一段高く設けられます。須弥壇のある区画は、堂宇の中でも「内陣」と呼ばれます。

【Wikipediaへのリンク】 須弥壇

厨子(ずし)

  • 仏像など重要な信仰対象を納める箱。納める対象に応じた大きさで造られます。秘仏開帳の場合は、厨子の扉を開けて内部の仏像が実際に見えるようにします。

【Wikipediaへのリンク】 厨子


奈良・称名寺の厨子(青線で囲んだ部分)

堂宇の外側の周囲、いわゆる縁側に張り巡らされたパーツです。

高欄(こうらん)

  • 縁側の外側の淵に設けられえた手すり(欄干)のこと。勾欄(こうらん)も同じ意味です。


擬宝珠(ぎぼし)

  • お寺・神社・橋の高欄や階段の柱の上部に付けられる装飾のこと。形状がネギの花に似ていることから葱坊主(ねぎぼうず)とも呼ばれます。素材は主に銅です。
  • 魔除けの意味や、柱の腐食防止の目的があります。

【Wikipediaへのリンク】 擬宝珠


京都・清凉寺の擬宝珠(黄色で囲んだ部分)と高欄

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お寺の行事はたくさんあってワクワク:美術鑑賞用語のおはなし

2018年06月11日 | 美術鑑賞用語のおはなし



お寺は仏教を信仰する場ですが、その運営や活動は多岐に渡っています。運営の一環として様々な宗教行事が行われており、たくさんの人々の信奉を集めています。お寺が行う“コト”について、探ってみたいと思います。


寺の運営実態は時代に応じて変化 <基本的な収入源>

仏教寺院の寺の運営は、日本に伝来した飛鳥時代以降、時代背景に応じて大きく変化しています。運営を支える主な収入源がどこにあったのか、をまずは整理してみたいと思います。

飛鳥~平安時代

  • 仏教や学問の研究と国家・貴族の鎮護が主な活動です。
  • 官寺は国家、私寺は貴族がオーナーで、造営費用(イニシャルコスト)を負担します。
  • 運営費用(ランニングコスト)は、オーナーが所有する荘園の租税収入があてがわれます。平安時代には物流や商業の利権を押さえ、絶大な経済力を持つ寺も現れます。


鎌倉時代~室町時代

  • 学問の研究、僧侶の養成と上流階級の鎮護に加え、庶民への布教の拠点にもなっていきます。
  • 造営費用とランニングコストは、平安時代までの形態に加え、鎌倉新仏教では市井の信者による寄進も行われ始めます。


戦国時代

  • 京都の大規模寺院は、法華宗を除いて軒並み運営難に陥ります。荘園収入は安定せず、戦乱で焼失した伽藍の再建もままなりませんでした。法華宗は富裕な町衆に支えられ、復興も早かったのです。
  • 浄土真宗の本願寺のように、戦国大名に代わって特定地域のすべてを支配する寺も現れます。生き残るためには、寺も手段を選べない時代でした。


安土桃山時代~江戸時代

  • 安土桃山時代は寺の新設より復興が優先され、江戸時代には新設そのものが幕府に禁止されます。
  • 天下人によって荘園制度は終わりをつげ、大規模寺院は荘園を手放す代わりに、天下人から俸禄をもらうシステムが確立します。また秀吉の刀狩りで武装解除され、以降は寺が実力行使をすることはなくなります。
  • 江戸時代には寺請け制度が確立します。禁教のキリスト教・不受不施派を締め出すために禁教でない寺の信徒であることを寺に証明させる制度です。すべての人は寺の檀家となることを義務付けられ、寺は戸籍の管理を担います。現代と同じく、檀家からの葬儀・法要の手数料収入が見込めるようになります。
  • また庶民階級の生活が安定し、著名寺院では参拝・巡礼・開帳・興行といった事業収入も確立します。



江戸時代に一大興行拠点となっていた浅草寺

明治以降

  • 明治維新直後、大規模寺院はお上からの俸禄を絶たれ、境内地や美術品を手放してしのがざるをえなくなります。葬儀・法要や参拝・巡礼・開帳などの興行といった、現代のような経営形態に一層ウエイトを移すようになります。



勧進 <臨時収入の確保>

勧進(かんじん)とは、はじめは僧侶による宗教行為や浄財の勧め全般を指しましたが、中世以降は浄財を求める行為だけを意味するようになります。

勧進帳とは浄財を集める趣意書のことです。北陸・安宅関で弁慶が勧進帳を読み上げ、義経を無事に通過させたシーンは、歌舞伎の名場面としてよく知られます。

寺社の造営・回収費用を浄財として集める勧進の最古の例は、奈良時代の東大寺大仏の造立です。国家予算でもまかなえない事業だったことから、聖武天皇が民衆に絶大な人気のあった行基(ぎょうき)に勧進を依頼しました。

勧進は時代が下るにつれ、寺の臨時収入を得る手段としてイベント興行の形をとり、頻繁に行われるようになります。鎌倉時代には盲目の芸人・琵琶法師による平家物語の講演が流行します。江戸時代には各地で秘仏の開帳、また江戸では相撲興行や富くじ(現代でいう宝くじ)販売、が一般的になります。

【Wikipediaへのリンク】 勧進


秘仏と開帳

仏像は永らく姿を見せないものとされてきました。いわゆる秘仏(ひぶつ)です。現在国宝・重文に指定されている数々の仏像がその美しい姿を保つことができているのは、閉ざされた厨子の中で光や湿度などの劣化要因から守られてきたことが大きな要因です。

江戸時代以降、勧進目的で秘仏の開帳(かいちょう)が行われるようになり、現代にいたっては開帳頻度がより頻繁になる傾向があります。秘仏は、天台宗・真言宗のような歴史のある密教系の寺で多くみられ、鎌倉新仏教の系の寺では少ない傾向があります。


出開帳に積極的だった京都・清凉寺

秘仏をその寺で公開する場合は居開帳(いかいちょう)と呼ばれ、江戸の浅草観音が著名でした。大都市に出張する場合は出開帳(でかいちょう)と呼ばれ、江戸で行われた京都の嵯峨清凉寺や成田山新勝寺が著名でした。

秘仏の開帳頻度は少ない順から、絶対秘仏→全く不定期→住職一代限り→33年毎→12年毎→6年毎→毎年→季節毎→毎月、であるのが一般的です。

「絶対秘仏」は、何代にもわたって住職ですら見たことがなく、姿形がわからないため、文化財指定もされていません。極論すれば本当に存在するのかもわかりません。「全く不定期」は開祖1,200年忌のように、大きな節目にあわせて行われます。

【Wikipediaへのリンク】 秘仏
【Wikipediaへのリンク】 開帳


霊場巡礼

遠隔地や複数の霊場(れいじょう)と呼ばれる霊験あらたかな社寺を訪れる慣習は、平安時代後期に貴族階級において成立したと考えられています。花山(かざん)法皇による西国三十三所巡礼、白河法皇による熊野詣が、その先例です。

三十三所巡礼は観音信仰の定着に伴い、「坂東三十三箇所」など全国で巡礼ルートが造られていきます。また弘法大師信仰でも巡礼ルートが造られます。江戸時代に一般的になった「四国八十八ヶ所」がその代表例です。

庶民階級の生活が安定した江戸時代は仏教寺院だけでなく、「お伊勢参り」のような遠距離の神社参拝も定着します。いわゆる観光旅行のはしりです。遠距離巡礼するためには、所属する寺から通行手形(つうこうてがた)、現代でいうパスポートを発行してもらわないと、街道の関所を通過できませんでした。

【Wikipediaへのリンク】 霊場
【Wikipediaへのリンク】 西国三十三所
【Wikipediaへのリンク】 熊野三山


御朱印

霊場を参拝した記念として定着したのが朱印(しゅいん)です。寺社双方にありますが、本来は写経を納めた証となる印でした。霊場巡礼の興隆に伴い、著名寺院では現代のように、写経を伴わなくても有料で朱印を行っていました。なお浄土真宗のお寺は朱印を行いません。

【Wikipediaへのリンク】 朱印


法要、法会、年中行事

お寺では年間を通じて様々な宗教行事とそれにちなんだ祭が行われ、それぞれの地域ですっかり定着しているものが多くあります。お寺の宗教行事は法要(ほうよう)もしくは法会(ほうえ)と呼ばれますが、両者に厳密な意味の違いはありません。

地元で愛されているお寺のイベントに行ってみると、活気があって実にすがすがしくなります。また秘仏や美術品の特別公開が行われる場合も少なくなく、仏教美術の鑑賞には貴重な機会となります。

広く行われているものでも様々な名称と種類があります。日程については、新暦・旧暦のどちらを採用するか等により、開催する寺によって異なります。

【Wikipediaへのリンク】 法会


修正会(しゅうしょうえ)

  • 毎年1/1から1-2週間行われる場合が多い。
  • 最終日(=結願(けちがん))には火祭りの「左義長」がよく行われる。

【Wikipediaへのリンク】 修正会


後七日御修法(ごしちにちみしほ)

  • 毎年1/8-14に東寺・灌頂院にて、非公開。
  • 幕末までは宮中で行われていた。真言宗で最も大切な法会。

【Wikipediaへのリンク】 真言宗、後七日御修法


左義長(さぎちょう)

  • 毎年1/15の小正月前後。
  • 木や竹をくみ上げた大きなやぐらで、正月の門松やしめ縄を燃やす。灰を持ち帰って自宅にまくと病除になると信じられている。
  • 全国で見られ、「とんど、どんど」など地方によって呼び名が異なる。

【Wikipediaへのリンク】 左義長


節分(せつぶん)

  • 毎年2/3頃、太陽の位置で日付を判定するためわずかにすれる年もある。
  • 季節の変わり目に現れると信じられた邪気(鬼)を、季節の始まりの前日に追い払う行事。本来は四季ごとに行われていた。鬼を追い払う行事を追儺(ついな)と言う。
  • 全国の寺社で、豆まきなどのイベントが広く行われている。

【Wikipediaへのリンク】 節分


興福寺の追儺会


涅槃会(ねはんえ)

  • 日本では毎年2/15もしくは3/15頃、釈迦の祥月命日の法要。
  • 巨大な涅槃図を開催中に公開する寺が多い。

【Wikipediaへのリンク】 涅槃会


修二会(しゅにえ)

  • 毎年3月(旧暦の2月)。
  • 奈良の寺で多く見られ、有名な東大寺の「お水取り」は修二会の行事の一つ。

【Wikipediaへのリンク】 修二会


灌仏会(かんぶつえ)

  • 日本では毎年4/8もしくは5/8、釈迦の誕生日を祝う。降誕会(ごうたんえ)、仏生会(ぶっしょうえ)、花祭(はなまつり)とも呼ばれる。
  • お堂を花で飾り、小さな誕生仏に甘茶をかけて祝う寺が多い。

【Wikipediaへのリンク】 灌仏会


彼岸会(ひがんえ)

  • 毎年の春分(3/20頃)と秋分(9/21頃)を中日とした前後各3日間、太陽の位置で日付を判定するためわずかにすれる年もある。
  • 先祖供養の法要で、ぼたもち(おはぎ)を供えることが一般的。

【Wikipediaへのリンク】 彼岸(春秋)


盂蘭盆会(うらぼんえ)

  • 毎年7/15頃もしくは8/15頃
  • いわゆる「お盆」で、先祖の霊が現世に戻ってくる際の法要。施餓鬼会(せがきえ)と呼ばれる、あの世で飢えに苦しむ霊に食物を供えて供養する法要が合わせて行われることが多い。
  • 七夕、送り火、灯篭流し、盆踊りなど、お盆にまつわる著名な祭りも多い。
  • 毎年7/24頃もしくは8/24頃に畿内で盛んに行われる地蔵盆は、先祖供養ではない。子供の守り神である地蔵を、お盆に近い時期に大々的に祀る地域の行事。

【Wikipediaへのリンク】 盂蘭盆会


成道会(じょうどうえ)

  • 毎年12/8、釈迦が悟りを開いた日の法要

【Wikipediaへのリンク】 成道会


宗祖の祥月命日(=年忌)法要

  • 3/21、空海の正御影供(しょうみえく)、真言宗
  • 4月下旬、法然の御忌大会(ぎょきだいえ)、浄土宗
  • 11月下旬もしくは1月中旬、親鸞の報恩講(ほうおんこう)、浄土真宗
  • 6/5、栄西の開山忌(かいざんき)、建仁寺
  • 10/13もしくは11/21、日蓮のお会式(おえしき)、日蓮宗
  • 3/23頃もしくは4/23頃、聖徳太子のお会式(おえしき)、聖徳太子ゆかりの寺



西本願寺


縁日(えんにち)

  • 仏様や開祖・高僧に縁(ゆかり)のある日のことで、その日に参拝すれば特にご利益があると信じられる。日付で固定され、毎月行われるものが多い。
  • 参拝者が多いことから祭りや露店で賑わうことも多い。
  • 一年の最初の縁日を「初○○」、最後の縁日を「終い□□」と呼ぶことが多い。京都では北野天満宮の初天神(はつてんじん)、東寺の終い弘法などが著名な縁日。
  • 観音菩薩の毎月18日も全国的に著名で、秘仏開帳がこの日に行われることが少なくない。

【Wikipediaへのリンク】 縁日


落慶法要/開眼供養

  • 落慶(らっけい)とは、寺社の新築や修理の完成(落成)を祝う行事。
  • 開眼(かいげん)とは、新造した仏像・仏画を堂宇に安置する際に仏に魂を入れる儀式。

【Wikipediaへのリンク】 落慶
【Wikipediaへのリンク】 開眼


寺の音楽

法要や巡礼の際に歌われる楽曲がいくつかあります。

声明(しょうみょう)

  • 法要の際に僧侶が経典に節をつけて唱える楽曲。独特のトーンが近年人気を集め、京都の大原声明は鑑賞会も開かれている。
  • 天台宗と真言宗を中心に多くの流派がある。

【Wikipediaへのリンク】 声明


御詠歌(ごえいか)

  • 仏や教えを称える五七五七七の短歌形式に節をつけて、在家信者や巡礼者が参拝時に唱和する楽曲。
  • 三十三所巡礼の寺で始まったと考えられ、多くの宗派で多くの流派がある。

【Wikipediaへのリンク】 御詠歌


和讃(わさん)

  • 仏や教え、経典を称える短歌をつなげた長歌形式に節をつけて僧侶や信者が唱和する。
  • 奈良時代からあったと考えられ、全国の民謡や浪曲などの源流と考えられる。

【Wikipediaへのリンク】 和讃

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僧侶の名前で功績がわかる:美術鑑賞用語のおはなし

2018年06月10日 | 美術鑑賞用語のおはなし



お寺に続いて僧侶の格式や役職を表す名称を整理してみたいと思います。

僧侶の名前は寺の縁起や肖像画などの美術品にもよく登場します。ほとんどが敬称付きで表示されています。その僧侶がどのような役割を果たし、どのような評価をされていたのか、敬称でわかるようになります。寺の歴史を僧の功績を理解する上でも、とても役に立つ知識となります。


住職、和尚の違いは? <寺の代表の役職名>

寺の管理運営責任者のことを住職(じゅうしょく)と言います。主に禅宗寺院で使われていた住持(じゅうじ)も同じ意味です。各宗派で住職を指す役職名は多岐に渡っていますが、現代において宗派共通で使えるのは住職です。

明治以降はどの宗派でも妻帯が認められたため、住職は世襲が多くなっています。副住職という役職名もよく耳にしますが、多くは現住職の後を継ぐことが決まっているその住職の実子です。

現代では女性が住職の跡を継ぐことも珍しくありません。住職がいない寺を無住(むじゅう)と言います。


興福寺

和尚は、元は修行僧に仏法を教える師を指しました。宗派によって(おしょう、わじょう、かしょう)と読み方が異なります。現代では住職や僧侶を広く指すあいまいな表現になっています。

坊主(ぼうず)は、元は僧房の主である住職を指しました。これも現代では住職や僧侶を広く指すあいまいな表現になっています。

法師(ほうし)は、元は学識や経験豊かな尊敬される僧侶を指しました。琵琶法師など、僧形に扮した中世の物語の主人公によく用いられています。

【Wikipediaへのリンク】 住職
【Wikipediaへのリンク】 和尚
【Wikipediaへのリンク】 坊主
【Wikipediaへのリンク】 法師


開山と開基 <寺の創始者>

開山(かいざん)とは、寺を創建する行為を指し、転じて創建した寺の初代住職も指します。開基(かいき)とは、寺の創建を発願し建設資金を提供するオーナーを指します。浄土真宗や曹洞宗では開祖を開山と呼びます。

禅宗では、実質的な開山僧(=創建開山)が、師に敬意を表して死後であっても形式的に開山とする勧請開山(かんじょうかいざん)の習慣もよく見られます。

【Wikipediaへのリンク】 開山


大師、国師 <天皇が与える尊称>

中国の皇帝や日本の天皇は、高僧の業績をたたえるためにしばしば尊称を与えています。主に諡(し、おくりな)として死後に与えられたものです。高僧への尊称としては3つがよく知られていますが、格式の違いを示す基準はありません。


東寺

大師(だいし)は、清和天皇が866(貞観8)年、最澄に「伝敎大師」、円仁に「慈覚大師」を贈ったのが最初です。もっとも有名なのは空海の「弘法大師」でしょう。

各宗派の開祖や中興の祖に贈られている例が多く見られます。法然は江戸時代から現代にいたるまで50年毎の遠忌の際に大師号が贈られ続けており、一人で8つの大師号を持っています。

国師(こくし)のほとんどは、臨済宗の開山に贈られています。臨済宗の高僧は大師号が贈られることが多宗派に比べて少なめです。大師・国師以外に禅師(ぜんじ)もあります。禅宗の僧が中心ですが、他の宗派でもあります。

【Wikipediaへのリンク】 大師
【Wikipediaへのリンク】 国師
【Wikipediaへのリンク】 禅師


上人、聖人、老師 <他の尊称>

上人(しょうにん)も高僧の尊称の一つですが、天皇から下賜されたものに限りません。平安時代に諸国を行脚して民衆に布教・社会事業を行った空也(くうや)に名付けられたのが始まりとされます。

聖人(しょうにん)は、各宗派内で宗派の開祖を呼ぶ尊称として多く見られます。キリスト教やイスラム教の聖人(せいじん)とは概念が異なります。

老師は高齢になった層を指す場合に加え、禅宗では修行僧の師となる僧を意味します。

【Wikipediaへのリンク】 上人
【Wikipediaへのリンク】 聖人


僧位 <僧侶の官位>

日本で僧侶に対して国家が与えた位階を僧位(そうい)と言い、平安時代に確立しました。平安時代以降は絵師や仏師などの文化人に与えられるようになり、江戸時代には医師や学者にまで拡がりました。

位階の順位

  1. 法印(ほういん)、僧正(そうじょう)僧侶名に付ける
  2. 法眼(ほうげん)、僧都(そうず)を僧侶名に付ける
  3. 法橋(ほっきょう)、律師(りっし)を僧侶名に付ける


【Wikipediaへのリンク】 僧位


僧禄

僧禄(そうろく)とは、僧侶の人事管理を統括する役職名で、日本では主に臨済宗で使われていました。室町時代は足利幕府の指揮のもと相国寺の塔頭・鹿苑院が、江戸時代には徳川幕府の指揮のもと南禅寺の塔頭・金地院が、それぞれ僧禄を務めていました。臨済宗全体の住職の任命権を握っており、絶大な権力をふるいました。

【Wikipediaへのリンク】 僧禄


出家と還俗 <僧になる、やめる>

僧侶を厳密に定義すると「仏教の戒律を守ることを誓い、修行する人」を指します。

僧侶になるためには俗世間を離れて寺で修行生活を始めます。これが出家(しゅっけ)です、落飾(らくしょく)とも言います。出家の際に行われる儀式が得度(とくど)で、修行者の生活規範である戒律(かいりつ)を授かり、それを守ることを誓います。


一休寺

修行僧のことを古くは小僧(こぞう)と呼んでいましたが、現代では「未熟者、年少者」に意味が変わっています。禅宗では修行僧を雲水(うんすい)と呼びます。

還俗(げんぞく)とは、出家して僧侶になった者が世俗に戻ることです。江戸時代までは武家・公家から出家していた次男以下の者が、家督相続する長男が亡くなったため、還俗して相続する例が珍しくありませんでした。

【Wikipediaへのリンク】 僧
【Wikipediaへのリンク】 出家
【Wikipediaへのリンク】 戒律
【Wikipediaへのリンク】 得度
【Wikipediaへのリンク】 還俗

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寺の名前で格式がわかる:美術鑑賞用語のおはなし

2018年06月09日 | 美術鑑賞用語のおはなし



お寺の格式や種類を表す名称はたくさんあります。名称を理解していると、そのお寺が時の権力者からどのような評価をされていたのか、わかるようになります。

格式の高さを維持している寺には、相応の経済基盤を伴った上で寄進者も多くなるため、上質な文化財が集まります。


寺、山、院の違いは? <寺の名称>

仏教寺院の名称には、固有名詞の後に山・院・寺が付き、それぞれ山号(さんごう)・院号(いんごう)・寺号(じごう)と言います。山号+寺号の組み合わせを正式名称とする寺が最も多くなっています。

最も多いのは寺号です。飛鳥時代の仏教伝来の頃は中国語で役所を意味していました。読み方「てら」「じ」の違いに傾向や意味は見出せません。

山号は、日本では鎌倉時代に禅宗が広まって以降に普及した名称です。禅宗寺院が用い始め、他宗派にも広がっていきました。山号がない寺もあります。地名ではなく仏教用語を付ける場合も多くあります。読み方は「さん、ざん」です。

中国は国土が広いために同じ寺号の寺が多く、区別するために所在地や所在する山の名称を付けたのが始まりです。日本では平安時代までは寺号とは別に山号を付ける習慣はありませんでした。

院号の「院」の由来には2通りあります。一つは塀で囲まれた建物を指す古代の言葉で、正倉院のように、寺の広い境内の中の特定の囲まれたエリアを指していました。もう一つは上皇や女院に付けられた名称で、そうした身分の高い皇族が入った門跡寺院に付けられ始めました。現代ではこうした由来にあてはまらないケースも多々見られます。



山号+寺号のような正式名称だと長くなるので、最も普及している号だけ、もしくはその号をさらに省略してで呼ぶのが一般的です。

  • 高野山金剛峰寺 → 高野山
  • 華頂山知恩教院大谷寺 → 知恩院
  • 瑞龍山太平興国南禅禅寺 → 南禅寺
  • 成田山新勝寺 → 成田山、成田不動


また特定の堂宇・仏像といった参拝対象が有名になり、その参拝対象名が通称名として普及している場合もあります。庶民信仰が根強い寺に多く見られます。京都では「通称寺」として、共同で参拝をPRしています。

  • 紫雲山頂法寺 → 六角堂
  • 光明山引接寺 → 千本ゑんま堂
  • 金剛山金乗院平間寺 → 川崎大師


【Wikipediaへのリンク】 山号


本山、別院、末寺 <宗派のヒエラルキー>


妙心寺

本山(ほんざん)とは宗派の中で特に重要視される寺を指す用語です。宗派の中心となり、最重要視される寺は「総本山」「大本山」などと呼ばれますが、宗派によって名称は異なります。

別院(べついん)は、本山と遠距離の大都市の拠点寺院に付けられる名称です。別格(べっかく)本山とは、総・大本山に準ずる役割の寺、末寺(まつじ)とは本山の傘下に入る寺を指します。

本山の下に同じ宗派の末寺が連なるヒエラルキーは、江戸幕府による本末制度によって成立しました。それまでは他宗派の末寺が独立でもめたり、上納金獲得を目的として大規模寺院が強制的に末寺に組み入れようとするトラブルが多発していました。寺は特定の宗派に必ず属さねばならなくなり、住民の戸籍を管理する寺請制度が安定して運用されるようになりました。

現代では日蓮宗のように本末関係を完全に廃止している宗派もあります。また特定の宗派に属している(=江戸時代でいう末寺)場合でも、宗教法人としては独立している場合も多々あります。

【Wikipediaへのリンク】 本山
【Wikipediaへのリンク】 本末制度


塔頭

塔頭(たっちゅう)は、元は禅宗寺院で高僧の死後に建てられた墓とそれを守る小庵のことでした。徐々に高僧をまつるために支持者が建てた小規模寺院や高僧の隠居後の住居を指すようになりました。現代は禅宗以外の多宗派でも広く用いられています。

禅宗寺院の塔頭の多くは、安土桃山時代以降に有力大名や富裕な商人の帰依を受けていました。上流階級を迎えるためにしつらえた襖絵や茶室・庭園が、国宝や名勝となって今に伝わっているところも少なくありません。

通常は大寺院の境内に隣接しています。観光目的では通常非公開の塔頭が多いですが、近年では不定期ながらも特別公開を行う塔頭が増えています。

【Wikipediaへのリンク】 塔頭


里坊

里坊(さとぼう)とは、山の上に伽藍がある寺が普段の生活と業務に必要な街との往来に不便なため、山の麓に日常の拠点として設けた坊のことを言います。主に高僧が高齢を理由に設けたため、麓に設けた“塔頭”のような位置づけです。寺が政治権力者と実力であいまみえることがなくなった江戸時代に発達しました。

比叡山延暦寺が琵琶湖川の麓である大津市・坂本に設けたのが代表例です。延暦寺ではトップである天台座主の本坊も、江戸時代には麓の坂本にありました。


官寺、国分寺、定額寺 <国家による格付け>

官寺(かんじ)とは、国家が運営していた寺院のことで、平安時代以前に建立されています。奈良の東大寺・唐招提寺や京都の東寺が現存する代表例です。飛鳥・奈良時代に寺院名称が「○○大寺」である場合、官寺であることを意味します。

一方、国家ではなく有力貴族など民間が運営した寺院を私寺(しじ)と言います。藤原氏による奈良の興福寺が代表例です。

平城京では官寺・私寺とも盛んに建立されていましたが、平安京では東寺・西寺の2つの官寺以外の建立は認められず、室生寺など山岳部に私寺が建立されました。平安時代半ば以降は、寺を国家が運営する概念自体が消滅し、官寺の新設はなくなります。



国分寺(こくぶんじ)は、奈良時代に聖武天皇が国家鎮護のために各国に建立した官寺です。尼寺の国分尼寺(こくぶんにじ)と一緒に建立されました。奈良の東大寺・法華寺がそれぞれの総本山です。

平安時代には廃れ始め、宗派を変えたりして現在まで続く寺もありますがわずかです。大半は遺跡や地名に痕跡を残すのみとなっています。

奈良・平安時代には定額寺(じょうがくじ)という格付けもありました。一定の位置づけがされていたと考えられていますが、実態はよくわかっていません。

こうした寺の格付けのことを寺格(じかく)と言います。本山・末寺も宗派内における寺格です。

【Wikipediaへのリンク】 官寺
【Wikipediaへのリンク】 国分寺
【Wikipediaへのリンク】 定額寺


勅願寺、門跡 <天皇が関わる寺>

勅願寺(ちょくがんじ)とは、天皇・上皇の意向で国家鎮護・皇室繁栄などを祈願して創建された寺を指します。創建後時間が経ってから勅願寺になる場合もあります。鎌倉新仏教の場合、勅願寺になることはその宗派が公に認められたことを意味しました。畿内を中心に全国に数多くあります。

一方、平安京内で皇族・貴族の私的な信仰のために建立された寺を御願寺(ごがんじ)と言います。官寺が消滅した平安時代半ば以降にみられるようになります。藤原頼通による宇治の平等院が代表例です。



門跡(もんぜき)とは、皇族や公家が住職を務める寺院と、その住職を指します。息女が入る門跡は「尼門跡」と呼ばれます。

平安時代の904(延喜4)年、宇多天皇が仁和寺に入ったのが始まりとされています。以降、家督を継ぐ可能性のない皇族や公家の子息が若くして入寺することが一般的になり、門跡寺院も徐々に増えていきます。

門跡は天台宗と真言宗の寺院が中心で、ほとんどが京都にあります。門崎寺院の塀には3-5本の白い横方向の定規筋(じょうぎすじ)をひき、本数の多さで格式の高さを表します。現代では、門跡寺院ではない寺にも定規筋がひかれている場合があります。

【Wikipediaへのリンク】 勅願寺
【Wikipediaへのリンク】 門跡


安国寺

安国寺(あんこくじ)は、南北朝時代に足利尊氏・直義兄弟が、後醍醐天皇や戦没者の菩提を弔うため、利生塔(りしょうとう)各国に1か所ずつ建立した寺院のことです。室町幕府の衰退とともに安国寺も寺勢を失っていきますが、一部現存している寺もあります。

戦国時代に毛利氏の外交僧として活躍し、関ケ原の戦いで敗れ斬首された安国寺恵瓊(あんこくじえけい)の名前は、安芸の安国寺の住職だったことに由来します。

【Wikipediaへのリンク】 安国寺、利生塔


臨済宗の五山十刹

五山制度(ござんせいど)は、中国の寺の格付け制度で、鎌倉時代に禅宗と共に日本に伝えられました。旧仏教に代わる仏教勢力として臨済宗を庇護していた鎌倉幕府が、政治的な意図で採用しました。幕府が任命した住職を格付けが上位の寺に順次昇進させることで、臨済宗寺院をコントロールしました。

鎌倉時代に五山に指定された寺の構成はよくわかっていません。建長寺や建仁寺は少なくとも含まれていたと考えられますが入れ替えも相当あったようです。現在のように京都・鎌倉で別々に格付けられてはいませんでした。



室町幕府も引き続き臨済宗を庇護し、五山制度を採用します。当初は入れ替えが多く安定しませんでしたが、2代将軍・義詮が京都・鎌倉で別々に格付けます。現代の構成と順位を定めたのは3代将軍・義満で、足利将軍家の菩提寺として新たに建立した相国寺を五山に入れるため、南禅寺を別格の「五山の上」に位置付けるという荒業を行使しました。

  • 五山の上:南禅寺
  • 京都五山:第一位から、天竜寺→相国寺→建仁寺→東福寺→万寿寺(現:東福寺塔頭)
  • 鎌倉五山:第一位から、建長寺→円覚寺→寿福寺→浄智寺→  浄妙寺


十刹(じっさつ)は、五山の次に位置づけられた寺格です。入れ替わりも激しく、京都・鎌倉だけでなく全国にありました。

【Wikipediaへのリンク】 五山
【Wikipediaへのリンク】 十刹


叢林と林下

幕府の庇護を受け五山制度に入る寺は叢林(そうりん)、庇護を受けず制度に入らない寺は林下(りんげ)、と呼ばれていました。

大徳寺は後醍醐天皇と、妙心寺は大内氏と、それぞれ足利幕府の敵対勢力と近かったため、五山制度から除外されていました。室町幕府が衰えるのに伴い、林下の中心的寺院になった大徳寺や妙心寺は多くの戦国大名の帰依を受け、全国に勢力を伸ばしていきます。一方叢林の寺は振るわなくなります。大徳寺は上流階級が茶の湯で交際するサロンにもなっていきます。

【Wikipediaへのリンク】 林下

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曹洞宗のダブル本山に納得 ~仏教宗派の個性(10):美術鑑賞用語のおはなし

2018年06月06日 | 美術鑑賞用語のおはなし



もう一つの禅宗・曹洞宗(そうとうしゅう)は、何より座禅を重んじます。地方を中心に永らく信者を拡大してきました。案外知られていませんが、信者数と寺院数では現在、浄土真宗本願寺派(西本願寺)を上回って日本最大の宗派です。

同じ禅宗でも、京都では圧倒的に臨済宗が目立ちますが、地方では真逆です。臨済宗と曹洞宗は布教のターゲット層はもちろん、マーケティングのやり方まで見事に異なります。両者とも、とても賢明に生き残る道を選択したのだと思えてなりません。そんな曹洞宗の魅力を探ってみたいと思います。


「道元」の曹洞禅は厳格だった

道元(どうげん)は、鎌倉新仏教の開祖の中では第三世代にあたります。第一世代で禅宗のもう一派・臨済宗の扉を開いた栄西より60歳ほど下、第二世代の親鸞より30歳ほど下の世代です。

【福井県文書館公式サイトの画像】 道元像

道元は1200(正治2)年、京都の名門の公家に生まれますが、出家することになります。比叡山や園城寺で学んだ後、禅を学ぶために建仁寺の明全(みょうぜん、栄西の弟子)に弟子入りします。1223(貞応2)年、明全とともに渡った南宋で、臨済禅ではなく曹洞禅に感銘を受けます。

南宋で入滅した明全の遺骨を携え1228(安貞2)年に帰国した道元は、一旦は建仁寺に入りますが、まもなく深草に興正寺(こうしょうじ)を開きます。


現在の興聖寺「琴坂」(宇治に江戸時代に再興)

道元は臨済宗のように既存仏教との融和姿勢を見せず、ひたすら無心になって座り続ける只管打坐(しかんたざ)を奨励します。また当時根強かった末法思想も否定したことから、仏や経典を学んで祈ることが常識だった当時の仏教界にはまるで“カルト”に映ったのかもしれません。

深草で道元は、のちに法灯を継ぐことになる孤雲懐奘(こうんえじょう)ら支持者を獲得していきますが、曹洞禅を極めるのは京都では困難と考え始めたようです。

1243(寛元元)年、親交のあった有力武士・波多野義重から寄進された越前に入ります。この寄進地に道元が建立した道場が、現在の曹洞宗大本山・永平寺(えいへいじ)です。

永平寺で道元は、生涯の集大成となる曹洞宗のバイブル「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」を完成させ、1253(建長5)年に入滅します。

曹洞宗の修行の仕方は、臨済宗の看話禅(かんなぜん)に対し、黙照禅(もくしょうぜん)と呼ばれます。師が雲水に公案を与えるのではなく、専ら座禅に徹することで悟りを開きます。また悟りを開いてからも、さらなる高いレベルを求めて座禅を際限なく続けます。

道元は信者の獲得や教団の運営はそっちのけの職人肌の人物だったようです。この人柄が道元の死後に教団が進む道を変えることになります。

【Wikipediaへのリンク】 道元
【Wikipediaへのリンク】 曹洞宗


永平寺と総持寺、総本山が二つあるのに宗派は一つ

曹洞宗は日本最大の仏教宗派ですが、長い歴史の中で分裂せずに運営し続けた日本では稀有な宗派です。でも不思議なことに総本山は2つあります。こうした不思議に曹洞宗の強さの秘密があるようです。

道元の入滅後、孤雲懐奘が永平寺を率います。孤雲懐奘の存命中は、道元の禅風を守りながら伽藍整備や経営基盤の確保に努め、宗派内をうまくまとめていました。孤雲懐奘の入滅後、改革派と保守派の対立は収束不能に陥り、改革派の徹通義介(てっつうぎかい)は1293(永仁元)年頃に永平寺を出て、金沢に大乗寺に入ります。

この時曹洞宗は一時的に分裂状態になりますが、保守派が残った永平寺は波多野氏からも賛同を得られなくなり、運営そのものに行き詰まるようになります。

一方大乗寺は順調に寺勢を固めていき、徹通義介の後を継いだ瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)が、1321(元亨元)年に能登に拠点を移します。これが現在のダブル総本山の一つ、総持寺(そうじじ)です。

 【総持寺公式サイトの画像】 瑩山紹瑾

曹洞宗内では瑩山紹瑾を道元と並ぶ「両祖」としており、総本山と同じく開祖もダブルです。瑩山紹瑾が教団としての発展の基礎を固めたためです。

  • 修行の進め方を詳しく示したマニュアルのようなものを用意し、それにのっとって修行を続けると悟りのレベルを高めることができるシステムを考案。厳格な座禅生活を求めた道元の禅風を志しやすいようにした。
  • 女性の出家も許容し、生活に困った女性の駆け込み寺として受け入れた。
  • 在家信者にもわかりやすいよう、密教の加持祈祷や神道の祭祀も取り入れ、身近な現世利益を祈るニーズにも対応した。
  • 胡人に戒名を与えて僧侶とし、死後も供養を続けるという現代の葬式仏教を初めて提案し、檀家を獲得していった。



豊川稲荷の巨大伽藍は信仰の厚さをうかがわせる

瑩山紹瑾は、斬新な禅宗を伝えた偉大な道元を看板にしながら、情報や選択肢が限られる地方でも受容されやすいよう、現実的なニーズに着々と応えていったのです。曹洞宗寺院は全国に広がり、地方武士の支持を大いに集めました。地方の有力寺院に地方大名の菩提寺が多いことからわかります。

  • 座禅で悟りを開く曹洞宗の教えは地方でも、戦に向き合い厳しい判断を迫られる武士に受容された。
  • 臨済宗は公案ができる高僧の師が必要だが、地方にはそうそういない。
  • 同じく地方で信者を増やした浄土真宗は、武士には敵対勢力にもなりえたので受容しにくい。


地方に生きる武士や庶民にとって、曹洞宗は角がなくとても受容しやすかったのです。これが室町時代以降に地道に信者を伸ばしてきた最大の秘密です。


曹洞宗に厚く帰依した大内氏は瑠璃光寺を遺した

なお能登の総持寺は明治になって失火で全焼し、1911(明治44)年に現在の横浜・鶴見に移転する大英断を下します。東京は地方から人口が流入する巨大マーケットと考えたのでしょう、総持寺らしいマーケティングを重視した決断だと思います。

曹洞宗の約15.000の寺院は大半が、総持寺系列だと言われています。それだけ信者獲得には成功しています。心の原点の永平寺、現実を支える総持寺。両者の絶妙なバランスが、分裂することをよしとしなかった宗派としての知恵でしょう。


曹洞宗の主な寺院

宗旨 宗派 本山 所在地 住職名
曹洞宗 永平寺 福井県永平寺町 貫首(かんしゅ)
総持寺 横浜市鶴見区


総本山以外の著名寺院

  • 能登の總持寺祖院、永平寺東京別院長谷寺
  • 京都の天寧寺・源光庵・詩仙堂・大石寺、宇治の興聖寺、宇治田原の禅定寺、桜井の平等寺
  • 青森の恐山菩提寺、岩手の正法寺、米沢の林泉寺
  • 東京の泉岳寺・とげぬき地蔵・豪徳寺、鎌倉の大船観音、伊豆の修善寺
  • 上田の安楽寺、高岡の瑞龍寺、金沢の大乗寺、愛知の豊川稲荷
  • 尾道の向上寺・天寧寺、山口の瑠璃光寺、長門の大寧寺、下関の功山寺、熊本の大慈寺


【Wikipediaへのリンク】 永平寺
【Wikipediaへのリンク】 総持寺
【Wikipediaへのリンク】 瑩山紹瑾

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日本文化を洗練した臨済・黄檗宗 ~仏教宗派の個性 (9) :美術鑑賞用語のおはなし

2018年06月05日 | 美術鑑賞用語のおはなし



禅宗と言えば「座禅」というように、禅宗は自己と向き合うことで悟りを開く仏教です。臨済(りんざい)・曹洞(そうとう)・黄檗(おうばく)の3宗にわかれています。鎌倉時仏教の中では、主に武家に支持されました。

臨済宗は、中世から江戸時代にかけて日本文化の形成に絶大な貢献をしています。襖絵や水墨画などの美術展が行われると、必ずと言っていいほど臨済宗寺院の所有作品が含まれます。禅が支持され、文化が洗練された秘密を探ってみたいと思います。


「栄西」は当初、禅に関心がなかった

日本で臨済宗の禅が隆盛する扉を開けたのが明菴栄西です。禅宗の僧侶名は中国風に漢字4文字が多く見られますが、「栄西」のように2文字だけを取り出して呼ぶこともあります。栄西が開いた建仁寺では「みんなんようさい」と読みますが、一般的には「みんあんえいさい」です。

禅は、奈良時代以前に中国から伝わっており、最澄も延暦寺で教えてはいましたが、ほとんどふるいませんでした。栄西が“あらためて”伝えてから日本では臨済禅が興隆するようになりました。

しかし栄西が伝えたのは臨済禅の一派にすぎません。そのため臨済宗の宗派で栄西を開祖としているのは建仁寺だけであり、日本の臨済宗全体の開祖ととらえることはできません。

栄西は1141(永治元)年、岡山県の神職の家に生まれます。比叡山や各地を遊学しますが、天台宗をより学ぶために27歳で南宋へ渡ります。そこで禅と出会います。いったん帰国しますが禅への関心がますます強まったことから、46歳でインドまで行くべく再び南宋へ渡ります。インド行きは許可されず、南宋で臨済宗を学びます。


博多・聖福寺

1191(建久2)年に帰国し、九州で複数の小規模な禅道場を設けた後、1195(建久6)年に日本初の本格的禅道場・聖福寺(しょうふくじ)を博多に開きます。

延暦寺を中心に既存仏教から早速攻撃されますが、栄西は禅と他宗は相反するものではないと考えていました。延暦寺からの攻撃回避と朝廷からの布教許可取得を目的に、天台や密教の教えと禅を並行して学ぶべきと説いた「興禅護国論(こうぜんごこくろん)」を執筆します。

京都での布教よりも鎌倉を優先し、まず1200(正治2)年、北条政子により寿福寺(じゅふくじ)を開きます。そして1202(建仁2)年、鎌倉幕府2代将軍・源頼家により京都に建仁寺(けんにんじ)を開きます。元号が寺名になっているように、幕府・朝廷の厚い庇護を受けた寺です。興禅護国論で述べたように、建仁寺は創建当初は禅・天台・真言の三宗兼学でした。

栄西は1215(建保3)年に入滅しますが、臨済宗は延暦寺との摩擦を避けながら、京都・鎌倉の上流武家階級に支持を広げていきます。

【Wikipediaへのリンク】 明菴栄西
【Wikipediaへのリンク】 臨済宗


禅宗は、仏に祈るのではなく自己と向き合う

禅宗は仏教の中でも信仰に対する考え方がとても個性的です。通常の仏教は経典や仏様をあがめて祈ることにより、現世利益を得られ、往生できると説きます。しかし禅宗は、祈りや経典のことばではなく、座禅という修行体験を通じて自己と向き合い、悟りを開くことで、自らや周囲を救済できると説きます。祈るのではなく悟りを開くことが何より大切なのです。


東福寺・禅堂

臨済宗と曹洞宗の違いは、悟りの開き方にあります。臨済宗は座禅と共に、師が雲水(うんすい、禅宗の修行僧)に悟りの境地への到達を促進するために与える、公案(こうあん)と呼ばれる問題とそれに対する回答を重視します。論理的な思考では理解不能な、いわゆる禅問答です。どのような回答を導き出せるかで、師は雲水の悟りの程度を判断します。師匠から雲水に悟りの境地を伝えることをとても重視するのです。

よく知られる公案に「片手で拍手をするとどんな音がするか?」というものがあります。まさにアニメの一休さんの珍問答に通ずるものがあります。回答が師に認められるまで何年もかかる公案もあります。

こうした座禅と公案を組み合わせて行う臨済宗の禅の修行の仕方を看話禅(かんなぜん)、もしくは公案禅(こうあんぜん)と言います。一方、曹洞宗の禅の修行の仕方は黙照禅(もくしょうぜん)と呼ばれます。曹洞宗に公案はなく、専ら座禅に徹することで悟りを開きます。黄檗宗の悟りの開き方は、臨済宗と同じです。

【Wikipediaへのリンク】 禅


達磨(だるま)

縁起物として知られるだるまは、5c末の中国の禅宗の開祖とされるインド人僧侶の「達磨」が座禅している姿を表したものです。達磨が実在の人物かは定かではありません。

日本の臨済宗寺院では、イメージキャラクターのようにユーモアのある表現で描かれた達磨の絵をよく見ます。禅宗の世界観を表す神話のような水墨画にもよく登場します。

【Wikipediaへのリンク】 達磨(僧侶)
【Wikipediaへのリンク】 だるま(置物)


白隠慧鶴(はくいんえかく)

【公式サイトの画像】 MIHO MUSEUM蔵 白隠慧鶴筆「達磨図」

達磨の絵でよく知られる白隠は、日本の臨済宗の中興の祖としてもあがめられています。江戸時代の半ば1686(貞享2)年に沼津で生まれ、駿河を中心に諸国を遊学しました。

臨済宗寺院は安土桃山時代から江戸時代初期に茶の湯文化を通じて大いに栄えましたが、一方で修行をおろそかにしているとの内部批判の声があがっていました。曹洞宗・黄檗宗と比較して衰退していた臨済宗を憂いた白隠は、臨済宗の修行の仕方である看話禅を完成させます。現在すべての臨済宗派が白隠の看話禅を実践しています。

【Wikipediaへのリンク】 白隠慧鶴


臨済宗が和の文化を洗練した

京都の臨済宗寺院は主に室町時代に発展します。室町幕府の庇護の下、知識人や上流階級が集まり、様々な文化が花開くようになります。

今に遺る美しい庭園や襖絵は、そうした上流階級の集まるサロンとして造られていきました。現代の和室の原型である書院造は、そうしたサロンのために主に禅宗寺院で発達した建築様式です。師弟関係を重視する臨済宗は、師が弟子に贈った絵画や書もたくさん遺されています。

一方臨済宗は、南都・天台・真言宗寺院ほど仏像が目立たない場合が少なくありません。仏に祈ることよりも悟りを開くことを重視する考えが影響しているのでしょうか。この仏像が目立たない傾向は他の鎌倉新仏教でも見られます。仏以上に開祖をあがめて祈ることを重視するためかもしれません。

臨済宗に縁の深い室町時代の文化を探ってみたいと思います。

頂相(ちんそう)

禅宗の僧侶の肖像画(彫刻)のことです。師が自分の法灯を継がせる弟子に、後継の証明として自賛(じさん、絵画の作者が自ら絵画に書いたコメント)を記した上で渡していました。また高僧の法要の際に、現代の遺影写真のようにかかげていました。

【公式サイトの画像】 建長寺蔵・鎌倉国宝館寄託 国宝「蘭渓道隆像」

師の深い精神性を表現しようとするため、表情はその人の性格がうかがえるほど緻密に描かれることが一般的です。大寺院の開山の頂相を中心に、多くが国宝・重文に指定されています。

【Wikipediaへのリンク】 頂相

墨蹟(ぼくせき)

本来は筆者が特定されている真筆の文章を指しますが、現在は禅宗の僧による真筆の文章を指すのが一般的です。真筆の文章の中でも天皇が書いたものは宸翰(しんかん)と呼ばれます。

法話・扁額・命名・餞別・遺言・手紙・許可状など、文章の内容は多岐にわたります。中世の禅宗寺院では中国語が日常的に使われていたこともあり、ほとんどが漢文で書かれています。

【e国宝公式サイトの画像】 東京国立博物館蔵 国宝「尺牘(板渡しの墨蹟)」

頂相のように墨蹟も、筆跡から筆者の深い精神性がうかがえます。茶会の掛軸としても珍重されました。墨蹟も多くが国宝・重文に指定されています。

【Wikipediaへのリンク】 禅林墨跡

五山文学(ござんぶんがく)

鎌倉時代末期から室町時代にかけて、鎌倉・京都で政治的に重視された五山寺院を中心に隆盛した漢文学です。詩文・日記・論説など幅広く書かれていました。義堂周信(ぎどうしゅうしん)、春屋妙葩(しゅんおくみょうは)、絶海中津(ぜっかいちゅうしん)らが五山文学を代表する臨済宗の学問僧です。

【Wikipediaへのリンク】 五山文学

水墨画(すいぼくが)

墨だけで線や面とその濃淡も表現した中国風の絵画で、鎌倉時代に禅と共に中国からもたらされました。部分的に着色されていても墨による表現がメインであれば水墨画に含めます。肖像・公案・禅の伝説をモチーフとしたものから始まり室町時代後期には、禅とは無関係な場合も含む山水画へと発展していきます。

【公式サイトの画像】 藤田美術館 国宝「柴門新月図」

詩画軸(しがじく)と呼ばれる、掛軸の下部に水墨画、上部にモチーフと関連した詩文を書く作品も、室町時代に禅僧の間で流行しました。「柴門新月図」はその最古の作品です。

相国寺の如拙(じょせつ)・周文(しゅうぶん)、東福寺の明兆(みんちょう)らが、水墨画の傑作を多く描いた画僧として知られています。

【Wikipediaへのリンク】 水墨画

禅宗庭園

足利将軍家が建立した禅宗寺院を中心に禅の精神性を表現した庭園です。初期には石組と植生・水の流れを組み合わせて表現した大規模庭園が多く、夢窓疎石が作庭した京都の西芳寺・天竜寺の庭園が代表例です。


西芳寺

室町時代後期になると、禅宗寺院の書院が上流階級のサロンに使われるようになります。水の流れがなく、比較的コンパクトな枯山水庭園が書院に面して造られるようになります。京都の大徳寺大仙院・龍安寺の庭園が代表例です。

庭園は、禅宗寺院が遺した文化の代表例です。京都の観光スポットとして世界中の人々を惹きつけています。

お茶をのむ

栄西は喫茶の習慣をもたらしたとも言われていますが、奈良時代にはすでに中国から伝わっていました。最澄も茶の種子を持ち帰っていますが、永らく廃れていました。栄西は茶の詳しい効用・製法・種子をあらためて持ち借り、その情報を得た明恵が高山寺で始めた茶葉の栽培が、後に宇治に広まっていきました。

禅僧や武士が愛用し、室町時代には茶の銘柄をあてる博打のような闘茶(とうちゃ)が上流の武士階級で流行しました。闘茶が戦国時代に廃れた後、村田珠光(むらたじゅこう)が主人と客との密接な交流を重視する「わび茶」を提唱し、千利休によって茶の湯として完成されます。

【Wikipediaへのリンク】 喫茶の歴史(日本)


臨済宗の主な寺院

臨済宗の各宗派の開祖はすべて異なります。日本の仏教宗派の中では特異です。各派の本山寺院の開山は、栄西につながる師弟関係がありません。また栄西以外にも様々なルートで臨済宗の流派が中国から日本に入ってきたこともあります。よって臨済宗全体を統括するような開祖や本山の概念はありません。

日本の臨済宗は、まずは鎌倉幕府の主導の下、京都と鎌倉で大寺院が建立されていきます。

  • 新しい宗派を庇護することで、京都の公家や既存仏教勢力をけん制できる
  • 自ら悟りを開く臨済宗の教えは、戦に向き合い厳しい判断を迫られる武士に受容された

武家政権としては、こうした背景から臨済宗を庇護することが合理的だったと考えられます。

鎌倉に続く室町幕府も、引き続き臨済宗との親密な関係を保ちます。地方武士にはもう一つの禅宗・曹洞宗が浸透していきます。

臨済・黄檗宗の宗派

宗旨 宗派 本山 所在地 住職名
臨済宗 建仁寺派 建仁寺 京都市東山区 管長(かんちょう)
東福寺派 東福寺 京都市東山区
建長寺派 建長寺 鎌倉市
円覚寺派 円覚寺 鎌倉市
南禅寺派 南禅寺 京都市左京区
國泰寺派 國泰寺 富山県高岡市
大徳寺派 大徳寺 京都市北区
向嶽寺派 向嶽寺 山梨県甲州市
妙心寺派 妙心寺 京都市右京区
天龍寺派 天龍寺 京都市右京区
永源寺派 永源寺 滋賀県東近江市
方広寺派 方広寺 浜松市北区
相国寺派 相国寺 京都市上京区
佛通寺派 佛通寺 広島県三原市
興聖寺派 興聖寺 京都市上京区
黄檗宗 萬福寺 宇治市 堂頭(どうちょう)


臨済宗の著名寺院(山内塔頭除く)は全国に数多くあります。妙心寺派は臨済宗全体の寺院数の約半数を占める最大宗派です。

建仁寺派

  • 京都の六道珍皇寺・高台寺・法観寺(八坂の塔)・妙光寺

東福寺派

  • 綾部の安国寺、益田の医光寺、山口の常栄寺(雪舟庭)、博多の承天寺

建長寺派

  • 鎌倉の寿福寺・浄妙寺・明月院、立川の普済寺

円覚寺派

  • 鎌倉の瑞泉寺・東慶寺

南禅寺派

  • 京都の圓光寺・金福寺・正伝寺
  • 多治見の永保寺、萩の大照院

大徳寺派

  • 大和郡山の慈光院、大津の満月寺(浮御堂)、奈良の芳徳寺、堺の南宗寺
  • 東京の祥雲寺・東海寺、箱根の早雲寺、博多の崇福寺

妙心寺派

  • <境外塔頭>京都の龍安寺
  • 京都の円通寺・法輪寺(だるま寺)、滋賀の石馬寺、奈良の圓照寺
  • 松島の瑞巌寺、東京の龍雲寺、山梨の恵林寺、高山の安国寺、岐阜の崇福寺、岡崎の一畑山薬師寺、尾張一宮の妙興寺、福井の越前大仏
  • 福山の安国寺、出雲の一畑寺、高知の雪蹊寺、博多の聖福寺、大宰府の戒壇院

天龍寺派

  • 京都の西芳寺・厭離庵・源光寺・等持院・臨川寺、亀岡の金剛寺(応挙寺)

相国寺派

  • <山外塔頭>京都の鹿苑寺(金閣寺)・慈照寺(銀閣寺)・真如寺


【Wikipediaへのリンク】 建仁寺
【Wikipediaへのリンク】 東福寺
【Wikipediaへのリンク】 建長寺
【Wikipediaへのリンク】 円覚寺
【Wikipediaへのリンク】 南禅寺
【Wikipediaへのリンク】 大徳寺
【Wikipediaへのリンク】 妙心寺
【Wikipediaへのリンク】 天龍寺
【Wikipediaへのリンク】 相国寺


江戸時代に一世風靡した「黄檗宗」

黄檗宗(おうばくしゅう)は、江戸時代初期に長崎の華僑たちによって中国の福建省から招かれた高僧・隠元隆琦(いんげんりゅうき)が伝えた明代の中国の臨済宗の一派です。日本の臨済宗は南宋時代の中国の臨済宗をベースにしており、黄檗宗は中国において日本とは異なる進化を遂げた臨済宗です。江戸時代は臨済宗の中の一宗派で、明治になって黄檗宗として独立しました。

江戸時代の初め、長崎にはすでにたくさんの華僑が住んでおり、福建省(台湾の対岸)出身者が多数を占めていました。1654(承応3)年、63歳で長崎にやってきた隠元は、中国で有数の高僧として著名であったことから、入寺した興福寺には教えを乞うために僧たちであふれかえったと言います。

隠元は当初3年間の約束で来日していましたが、隠元の高名に接した多くの関係者から引き留められます。謁見した4代将軍・家綱から寺領を賜ったこともあり、日本にとどまることを決意します。この寺領が現在の黄檗宗大本山・萬福寺(まんぷくじ)です。故郷の自身の寺と同じ名前を付けました。

その後も後水尾天皇をはじめ、多くの皇族や武家・商人が帰依し、江戸時代初期の日本仏教に大きなインパクトを与えました。黄檗宗の修行僧が実践していた集団生活による修業は、当時宗勢が衰退していた日本の臨済宗にも大きな刺激になったのです。

隠元と弟子たちは、現在日本で定着している多くの文化を中国からもたらしたことでも知られています。インゲン豆・西瓜・蓮根・タケノコ等の食材、煎茶(茶葉に湯をそそいで飲む)の習慣、普茶料理をはじめ、美術・建築・篆刻・医術といった技術ももたらしました。仏教だけでなく、文化や技術でも日本社会に大きなインパクトを与えた、まさに偉人集団でした。隠元は中国には帰国せず、20年日本で過ごし入滅します。


開梆(かいぱん)

黄檗宗は、ルーツは臨済宗と同じですので、教えや修行の仕方に大差はありません。しかし伽藍の様子はずいぶん違います。明らかに中国風のデザインです。寺の本堂は臨済宗のように仏殿とは呼ばず、大雄宝殿(だいゆうほうでん)と呼びます。天王殿(てんのうでん)には中国では弥勒菩薩と考えられている太鼓腹の布袋(ほてい)がまつられています。

僧侶が食事をする斎堂(さいどう)には、巨大な開梆(かいぱん)が吊るされており、時報を知らせます。木魚の原型と言われています。読経は古い中国語で行うため、独特の響きがあります。

黄檗宗の著名寺院(山内塔頭除く)も全国に少なくありません。

  • 京都の石峯寺・閑臥庵
  • 仙台の大年寺、高崎の達磨寺
  • 鳥取の興禅寺、萩の東光寺、長崎の崇福寺・福済寺・興福寺・聖福寺


【Wikipediaへのリンク】 黄檗宗
【Wikipediaへのリンク】 隠元隆琦

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京都で大成功した日蓮宗 ~仏教宗派の個性(8):美術鑑賞用語のおはなし

2018年06月04日 | 美術鑑賞用語のおはなし





日蓮(にちれん))は、日本で最も有名な僧侶の一人でしょう。
江戸時代までは法華宗(ほっけしゅう)と呼ばれていた、現在の日蓮宗の宗祖です。
日蓮の人生とその後の弟子たちの歩みは、鎌倉新仏教の中でも最後発組であるがゆえに、とても厳しいものでした。

しかし戦国時代には京都で最も注目される宗派に成長し、数々の歴史的事件の舞台となります。
またあまたの芸術家の帰依を受けたことで、かけがえのない文化財を今に伝えることにもなりました。
とても個性的な宗派なのです。

目次



日蓮は波乱の人生を送った

日蓮は、鎌倉新仏教の開祖の中でも、時宗の一遍と並んで最も遅い世代にあたります。
1222(貞応元)年、千葉県の外房の小湊で、漁師の子に生まれました。
生家近くの清澄寺(せいちょうじ)で出家した後、比叡山や畿内・鎌倉の寺を遊学します。
1253(建長5)年に清澄寺に戻った日蓮は、朝日に向かって題目「南無妙法蓮華経」を唱えたのです。
日蓮宗では、この年を開宗の年としています。

日蓮宗は、仏教の経典の一つ「法華経」の教えと「釈迦」を、何よりあがめます。
「法華経」とは、題目「南無妙法蓮華経」で唱えられる「妙法蓮華経」の省略です。
他宗の教えを否定することが特徴的で、あたかも一神教のように映ります。
死後の往生よりも、現世利益を主にアピールすることも特徴的です。

著書「立正安国論(りっしょうあんこくろん)」では、当時相次いだ災害の原因を以下のように主張しました。

  • 唯一正しい教えである法華経をあがめない
  • 法然による称名念仏の教えが間違っている
  • 浄土宗を放置すれば日本は新たな国難に見舞われる

この主張の背景には、同じ法華経をあがめる天台宗への親近感があったかもしれません。天台宗も新興勢力の浄土宗を攻撃していました。

【市川市公式サイトの画像】 法華経寺蔵「立正安国論」

1260(文応元)年、過激ともいえる立正安国論を、時の幕府最高実力者の北条時頼に見せます。
浄土宗徒の反発に加えて、禅宗徒だった時頼をも怒らせました。
日蓮が伊豆に流された「伊豆法難」です。

しかし流罪は2年で許され、その後も支持者を広げていきました。
蒙古からの国書が届いたことを知ると、立正安国論での「予言が的中した」と自信をさらに深めます。
多宗派との軋轢は増す一方で、1271(文永8)年から再び、3年ほど佐渡に流されました。

日蓮の佐渡配流を境にした前後の時代を「佐前佐後」と呼び、日蓮の考え方が大きく変わったと現在では考えられたいます。

  • いかなる迫害にも耐え、法華経の教えを広め続ける
  • 題目「南無妙法蓮華経」には法華経の教えが集約さたれている
  • 題目を唱えるだけで成仏できる
佐渡でこう考えるようになったのです。

この考えは、徹底的に批判してきた法然の教え「念仏を唱えるだけで往生できる」とよく似ています。
しかしとてもわかりやすいことも事実です。
結果的に後の急速な信者獲得に大いに貢献しました。

佐渡から戻ると、有力な支持者から現在の祖山・身延山久遠寺(みのぶさんくおんじ)の土地を寄進され、弟子の育成に努めます。
1282(弘安5)年、湯治のため常陸国に向かう途中、現在の東京・池上本門寺(いけがみほんもんじ)で入滅しました。

死の直前に後継者と定めた6人の弟子、六老僧がその後の発展を担うことになります。

【Wikipediaへのリンク】 日蓮
【Wikipediaへのリンク】 日蓮宗


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六老僧が門流をつくる

六老僧とは、日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持です。
門流(もんりゅう)と呼ばれる日蓮宗独特の派閥を形成し、それぞれの考え方で信仰を続けていきます。
日蓮宗はルールに厳格な宗派であり、ルールの運用や解釈をめぐって門流の分派や合従が頻繁に起こりました。
戦前に本山・末寺制度を廃止していることもあり、どの門流に属していたかは「旧本山寺院名」で表しています。


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日蓮宗系の主な宗派
宗旨宗派本山所在地住職名
日蓮宗
久遠寺山梨県身延町法主(ほっす)
日蓮本宗要法寺京都市左京区貫首(かんしゅ)
顕本法華宗妙満寺京都市左京区
本門法華宗妙蓮寺京都市上京区
法華宗本門流本能寺京都市中京区
【独立】日蓮正宗大石寺静岡県富士宮市

宗派の中心となる久遠寺を、日蓮宗では祖山と呼びます。
久遠寺の著名な旧末寺には、京都の常照寺や大阪の能勢妙見山があります。
他に日蓮の生涯の重要な節目となった誕生寺(たんじょうじ)・清澄寺・池上本門寺も宗派内では格別な位置づけです。


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日朗(にちろう)

東京・池上本門寺(いけがみほんもんじ)や鎌倉・妙本寺(みょうほんじ)の礎を築き、それぞれ池上門流・比企谷(ひきがやつ)門流となって発展していきました。
池上本門寺には現在、日蓮宗を統括するオフィスである「宗務院」が置かれています。
京都にある日蓮宗寺院の多くも、日朗の門流によって建立されたものです。


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日常(にちじょう)

元は日蓮の有力な支持者の一人で、下総中山の自邸で日蓮の執筆活動を助けていました。
日常と他の支持者が建立した寺は、戦国時代に現在の法華経寺として合併します。
法華経寺に「立正安国論」など、日蓮自筆の書跡が多く残るのはこうした由縁があるからです。

法華経寺は中山門流の中心となり、京都の本法寺・頂妙寺や堺の妙国寺とともに門流を支えています。
法華経寺の著名な旧末寺には、東京の柴又帝釈天があります。

京都の本法寺(ほんぽうじ)は、焼いた鍋を頭にかぶせられる弾圧を耐え、「鍋かぶり」と称された日親(にっしん)が室町時代に創建しました。
本阿弥光悦が檀家だったこと、長谷川等伯が京都に出てきた頃の寄宿地だったこと、で知られています。
著名な旧末寺には、京都の光悦寺があります。



本法寺・長谷川等伯像


中山門流からは日什(にちじゅう)が、京都で妙満寺(みょうまんじ)を創建しました。
日什門流と呼ばれ、現在の顕本法華宗(けんぽんほっけしゅう)になっています。


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 日興(にっこう)

日蓮の六老僧の他の5人と対立して身延山を下り、現在の富士宮市に大石寺(たいせきじ)を建立します。
法華経の解釈の違いによるもので、日興の考えは勝劣派(しょうれつは)、他の5人の考えは一致派(いっちは)と呼ばれます。

富士門流と呼ばれた弟子たちもさらに分派していきました。
東駿河の西山本門寺・大石寺・下条妙蓮寺・小泉久遠寺に京都の要法寺・伊豆実成寺、内房の保田妙本寺とあわせて「興門八本山」を形成します。
富士門流の中でも一致派が存在するほど、日蓮宗は競技の解釈の違いに厳格です。

大石寺は日蓮正宗として、日蓮宗から独立しました。
幕末以降に活動を開始したいわゆる新興宗教の中で、最大の信者数を誇る創価学会は、日蓮正宗の一派として活動を始めたのが原点です。

【Wikipediaへのリンク】 日朗
【Wikipediaへのリンク】 日常
【Wikipediaへのリンク】 日興


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最後発ながら京都で地盤を築いた「日像」

法華宗は鎌倉新仏教で最後発ですが、戦後時代には京都で多くの信者を獲得しました。
最初に布教始めた日像(にちぞう)がまいた種が、見事に実ることになったのです。


日像(にちぞう)

日朗の実弟で、日蓮から京都での布教を直々に託されます。
1293(永仁元)年から始め、既存仏教からの反発で3度京都から追放されますが、不死鳥のように都度戻ってきました。
1334(建武元)年には、京都の拠点だった妙顕寺(みょうけんじ)が後醍醐天皇の勅願寺となります。
40年掛かってついに認められたのです。
四条門流の祖と言われます。



妙顕寺・光琳曲水の庭のアカマツは美しい


妙顕寺は本圀寺(六条門流・日静が創建、戦後に山科に移転)とともに、日蓮宗の京都の二大拠点となります。

秀吉の都市政策で現在の寺之内通に移転し、近隣の立本寺・妙覚寺とともに「龍華の三具足(りゅうげのみつぐそく)」として市民や観光客に親しまれています。
塔頭の泉妙院(せんみょういん)は、尾形光琳の菩提寺として著名です。

立本寺(りゅうほんじ)の著名な旧末寺には、京都の涌泉寺、名古屋の圓頓寺があります。

妙覚寺(みょうかくじ)は、本能寺の変の際に信長の嫡男・信忠が宿泊していました。
また狩野派の菩提寺だったことでも知られています。



妙覚寺の狩野家墓所


六条門流の本圀寺の著名な旧末寺には、京都の常寂光寺があります。


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日隆(にちりゅう)

一致派の妙顕寺で修業していましたが、勝劣派に考えを改め、1415(応永22)年に本能寺を建立します。
現在の法華宗本門流(ほっけしゅうほんもんりゅう)の原流です。

本能寺は、戦国時代には堀と土塁に囲まれた強固な要塞のような体を成していました。
信長が光秀に襲われた日本史上もっとも名高い歴史的事件の舞台としてとて、あまるにも有名です。

日隆は京都の妙蓮寺(みょうれんじ)を大本山とする、本門法華宗(ほんもんほっけしゅう)の祖でもあります。

【Wikipediaへのリンク】 日像
【Wikipediaへのリンク】 日隆


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京都で町衆の心をつかんだ「教え」の秘密

法華宗は、戦国時代には商工業者を中心とした町衆から絶大な支持を獲得するようになっていました。
本願寺の洛中進出を警戒した法華宗徒を中心とした軍勢は、1532(天文元)年に山科本願寺を焼討し、京都での勢力を確立します。

しかしこの勢いが多宗派の反発を受け、1536(天文5)年に延暦寺を中心とした軍勢に、京都の法華宗寺院をすべて焼討されました。天文法難です。
法華宗徒は京都を追放され、多くが堺に避難します。
京都での禁教は6年に及びました。

禁教が解かれると法華宗徒は京都に戻り、寺の再建を始めます。
しかし再建もつかの間、秀吉の都市政策により、上京の寺之内通近辺(一部は寺町通)に再び移転させられたのです。
現在の日蓮宗寺院の位置はほぼ、この際の移転によるものです。
しかし苦難は続き、京都市中を焼き尽くした1788年の天明の大火で、ほぼ全焼しました。

法華宗寺院は幾度も再建を余儀なくされていますが、他宗に比べるとそのスピードは圧倒的に早いことで有名でした。
信者は富裕な町衆が多く、援助がすぐに集まったからです。
京都の法華宗寺院の檀家に、あまたの芸術家が並んでいることからもわかります。
この再建の速さを、他宗は「指をくわえて見ている」しかありませんでした。

法華宗が富裕な町衆の心をとらえることができたのはなぜでしょうか?

  • 法華経の教えが唯一、今生きている人々を救うことができる。現世利益を重んじることが、日々の現実の生活に直面する町衆の心をつかんだ。
  • 女性を排除しなかったことも大きな要因。山岳寺院を中心に「女人禁制」はとても多く、商工業の「おかみ」が制限なく信仰できることは、合理的で便利だった
  • 日蓮宗は、主要寺院のある静岡県や千葉県に加え、京都や堺と言った町衆の力が強い都市で多くの信者を獲得した。主に地方の集落で多くの信者を獲得した浄土真宗や曹洞宗とは対照的。




妙覚寺には有力大名の宿舎となった気品が今に伝わる


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不受不施派(ふじゅふせは)とは?

法華宗僧の中からは、多くの信者の獲得を「日蓮の教えをカジュアル化しすぎた」と疑問視する声も出始めていました。
不受不施派(ふじゅふせは)と呼ばれ、非法華宗徒から一切施しを受けず与えないという、厳格な考えです。
本法寺を開いた日親が初めて唱えたとされます。

不受不施派は、秀吉による方広寺の千人供養への出仕を拒み、家康にも屈しませんでした。
不受不施派は江戸幕府から禁教とされます。

【Wikipediaへのリンク】 不受不施派


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浄土真宗はマーケティング上手 ~仏教宗派の個性(7):美術鑑賞用語のおはなし

2018年06月03日 | 美術鑑賞用語のおはなし



浄土真宗(じょうどしんしゅう)は、国内最多の信者・寺院を抱える宗派です。宗祖の親鸞聖人(しんらん・しょうにん)は、真言宗を開いた弘法大師・空海と並んで日本でもっとも有名な僧侶です。

鎌倉新仏教の一つとして出発しますが、戦国時代に強大な結束力を作り上げます。そのため時の権力者と熾烈な抗争を繰り広げますが、見事に生き延びて現代に至ります。天台宗と並んで、日本社会の歴史に最も影響を与えた宗派です。

そんな結束力の原点はどこにあるのでしょうか? 浄土教系宗派の中でも特にスポットをあてて探ってみたいと思います。


宗派を立ち上げる意思はなかった「親鸞」

【西本願寺公式サイトの画像】 国宝・親鸞聖人「鏡の御影」

親鸞は、平安時代末期の1173(承安3)年に、京都・日野の法界寺の近辺で生を受けます。青蓮院に入り、比叡山で修業を重ねます。

次第に比叡山での修行に限界を感じるようになります。1201(建仁元)年、29歳の時に比叡山を下り、六角堂で修業したのち、浄土宗の開祖・法然がいる吉水草庵を訪ねます。法然の教えに薫陶した親鸞は、念仏の道に入ることを決意します。

1207(承元元)年、念仏が禁止され、法然が讃岐へ配流された「承元の法難」に巻き込まれます。親鸞は越後へ配流となり、その後は東国で20年ほど布教を進めます。なお流罪ではなく、京都での布教をあきらめ自らの意思で越後へ向かったとする説もあります。

茨城県笠間市の稲田草庵(現:西念寺)で1224(元仁元)年ごろ、浄土真宗のバイブルである教行信証(きょうぎょうしんしょう)の草稿を完成させます。浄土真宗はこの年を開宗年と定めています。親鸞の真筆の教行信証は今も東本願寺に伝えられています。もちろん国宝です。

なお浄土真宗では歎異抄(たんにしょう)もよく知られていますが、弟子が親鸞のことばをまとめたものです。教団内でもほとんど知られていませんでしたが、大正時代の小説「出家とその弟子」で有名になりました。

京都に戻って執筆活動を続けますが、1262(弘長2)年、末娘の覚信尼(かくしんに)らに看取られ、入滅します。親鸞は純粋に信仰に傾倒した人物でした。宗派として組織化する意思は見受けられず、弟子たちによって組織化していくのは入滅後60年ほどたった頃です。

【Wikipediaへのリンク】 親鸞


本願寺は当初は振るわなかった

覚信尼は親鸞が京都に戻ってから身の回りの世話をするようになり、親鸞没後は弟子たちのまとめ役になった教団としての「母」なる女性です。

1272(文永9)年、覚信尼は親鸞の墓・大谷廟堂(おおたにびょうどう)を大谷から、現在の知恩院の塔頭・崇泰院(そうたいいん)がある吉水(よしみず)に改葬します。吉水は浄土宗にとっても聖地であり、法然の法灯を受け継ぐ浄土真宗としてもとても大切にしたのでしょう。


吉水の大谷廟堂の地(現:知恩院塔頭・崇泰院)

覚信尼の死後に相続争いが起こりますが、覚信尼の孫の覚如(かくにょ)が勝利します。1321(元亨元)年、覚如は吉水の大谷廟堂の地に本願寺の号を掲げます。これが日本史を左右した一大宗教勢力である本願寺の発祥で、大谷本願寺と呼びます。

しかししばらく宗派としての勢いは確立できませんでした。隣接する青蓮院に上納金を治める末寺だったという説もあるように、細々と法灯を守っているのが現実でした。

【Wikipediaへのリンク】 浄土真宗
【Wikipediaへのリンク】 本願寺の歴史


戦国時代に民衆の心をつかんだ「蓮如」

本願寺8世宗主・蓮如(れんにょ)は、本願寺の寺勢を劇的に向上させ、中興の祖と呼ばれています。1465(寛正6)年、大谷本願寺は比叡山宗徒に破却され、蓮如は北陸に逃れます。「寛正の法難」です。

福井県あわら市・吉崎に御坊を開き、「講(こう)」と呼ばれる信仰の集まりを組織して急速に勢力を拡大します。1478(文明10)年、山科で本願寺の造営を始め、京都でも急速に信者を獲得します。

既存宗派に警戒されるようになり、1532(天文元)年、日蓮宗徒と戦国大名・六角氏により山科本願寺が焼討されます。「天文の錯乱」です。現在の大阪城の地に建立していた石山(いしやま)本願寺に拠点を移します。

【Wikipediaへのリンク】 蓮如


石山本願寺も今の大阪城のように巨大だった


信長に立ちはだかった「顕如」

顕如(けんにょ)は、戦国時代に本願寺を最盛期に導いた宗主で、石山本願寺をめぐる信長との対決でよく知られています。戦国時代、本願寺は地方の一向一揆を掌握するとともに、公家や地方の戦国大名との縁戚関係を深め、大名並みの力を持つようになっていました。

1570(元亀元)年から信長との対決、石山合戦が始まります。しかし敵を屈服させることで天下人となった信長は、10年かかっても石山本願寺を屈服させることはできませんでした。

石山本願寺は土塁や堀に囲まれ、普通の城以上の高い防御力を持っていました。また信長の軍勢に囲まれている間も兵糧の補給が密かに続けられていたと考えられます。周囲にそれだけの厚い支持基盤がないと、10年ももたなかったでしょう。

【文化遺産オンラインの画像】 和歌山市立博物館蔵「石山合戦配陣図」

合戦末期になって信長の天下統一がほぼ確実になったこともあり、厭戦ムードが漂い始めます。教団内で、顕如ら穏健派と、徹底抗戦を主張する顕如の長男・教如(きょうにょ)ら強硬派の対立が始まります。この対立が江戸時代の本願寺の東西分裂につながります。

1580(天正8)年、正親町天皇が仲介し、顕如は石山本願寺を退去します。しかし教如が素直に退去に応じなかったため、顕如は教如を一旦義絶します。

【Wikipediaへのリンク】 顕如


教えの誇りに最後までこだわった「教如」

石山本願寺を退去した顕如は、和歌山市の鷺森本願寺、貝塚市の願泉寺を経て、1585(天正13)年に秀吉から大坂に寺地を与えられ、天満本願寺を開きます。しかしわずか6年後に秀吉は京都への移転を命じます。現在の西本願寺はこの移転で境内が造られたものです。

1592(文禄元)年に顕如が入滅します。教如が宗主となりますが、穏健派を一切登用しなかったことから、内部対立は続きます。穏健派は秀吉に工作し、翌1593(文禄元)年に教如の弟・准如(じゅんにょ)を宗主とすることに成功します。

教如は隠居の身となり、秀吉から大坂に大谷本願寺(現在の南御堂)の土地を与えられますが、強硬派はまだ大きな勢力を保っていました。秀吉の死後、家康に接近した教如は現在の京都の東本願寺の地を与えられ、本願寺は分裂します。


東本願寺の遠景、御影堂は東大寺大仏殿より面積が大きい

京都人の間では「家康が本願寺の力を弱めるため、対立をあおって東西分裂させた」とまことしやかに伝説が語られることがあります。しかし対立は石山合戦から始まっており、収拾がつかないほどに亀裂が深まっていたとも考えられます。早期に分かれたことが、かえって宗派として安定したと考える向きもあります。

【Wikipediaへのリンク】 教如



浄土真宗の主な宗派と寺院

宗旨 宗派 本山 所在地 住職名
浄土真宗 浄土真宗本願寺派 西本願寺 京都市下京区 門主(もんしゅ)
真宗大谷派 東本願寺 京都市下京区 門首(もんしゅ)
真宗高田派 専修寺 津市 法主(ほっしゅ)
真宗佛光寺派 佛光寺 京都市下京区 門主(もんしゅ)
真宗興正派 興正寺 京都市下京区 門主(もんしゅ)
真宗木辺派 錦織寺 滋賀県野洲市 門主(もんしゅ)


東西本願寺以外の主な浄土真宗の宗派

  • 親鸞没後に起こった相続争いで敗れた勢力は、大谷の南方、現在の方広寺がある渋谷(しぶたに)の地に佛光寺(ぶっこうじ)を建立します。応仁の乱の頃までは本願寺をはるかにしのぐ信者を獲得していました。現在の真宗佛光寺派です。
  • 山科本願寺の造営が始まると、それまで浄土真宗では主流だった佛光寺派の大半の寺が蓮如に合流します。これにより本願寺は、佛光寺に代わって浄土真宗をリードする寺となります。合流した元・佛光寺派は興正寺(こうしょうじ)を建立、現在の真宗興正派に至ります。著名寺院に富田林の興正寺別院があります。
  • 地方では、親鸞が東国で布教していた際に、現在の栃木県真岡市に高田専修寺(たかだせんしゅうじ)が建立されます。戦国時代にかけて関東から北陸・東海の広い範囲で信者を獲得し、佛光寺に次ぐ勢力となります。現在の真宗高田派です。本山は戦国時代に津市の専修寺に移転しています。



佛光寺境内に開業しているD&DEPARTMENT

浄土真宗本願寺派と真宗大谷派の著名寺院(山内塔頭除く)は全国に数多くあります。いずれも都心にあって境内が広いことから、著名人や企業の葬儀会場によく使われます。同じ都市に存在する場合、東西で名前を区別しています。大阪だけは南北ですが、大阪城に向かって左側に西本願寺系、右側に東本願寺系があり、東西の場合と同じ左右の組み合わせになっています。

浄土真宗本願寺派(西本願寺)

本山

  • 本願寺(通称:西本願寺)

宗祖墓所

  • 清水寺の南隣にある大谷本廟(おおたにほんびょう)、通称:西大谷(にしおおたに)

直轄寺院

  • 東京の築地本願寺

別院(=地方の主要拠点)

  • 福井県の吉崎御坊(西御坊)、名古屋の西別院、京都の北山別院、大阪の津村別院(北御堂)、和歌山市の鷺森別院(雜賀御坊)、御坊市の日高別院、神戸別院(モダン寺)、宇佐市の四日市西別院

他の著名寺院

  • 京都の日野誕生院、八尾の顕証寺、橿原の称念寺
  • 尾道の耕三寺


真宗大谷派(東本願寺)

本山

  • 真宗本廟(しんしゅうほんびょう)、通称:東本願寺

宗祖墓所

  • 八坂神社の南隣にある大谷祖廟(おおたにそびょう)、通称:東大谷(ひがしおおたに)

別院(=地方の主要拠点)

  • 富山県の井波別院瑞泉寺、福井県の吉崎御坊(東御坊)、名古屋の東別院、長浜の大通寺、京都の岡崎別院、大阪の難波別院(南御堂)、宇佐市の四日市東別院
  • 1981(昭和56)年に、東京の拠点だった浅草本願寺が真宗大谷派から離脱しています。

他の著名寺院

  • 京都の了徳寺、長浜の向源寺


【Wikipediaへのリンク】 浄土真宗本願寺派
【Wikipediaへのリンク】 真宗大谷派
【Wikipediaへのリンク】 真宗高田派
【Wikipediaへのリンク】 真宗佛光寺派
【Wikipediaへのリンク】 真宗興正派


寺内町と御坊、浄土真宗の団結力の象徴

  • 室町時代から江戸時代にかけて、寺が自治を行う集落である寺内町(じないまち)が畿内を中心に発達しました。武家の支配を受けず、そのほとんどが浄土真宗寺院でした。現在も○○御坊・○○道場と呼ばれて親しまれています。御坊とは、自治を行う中心寺院と寺内町の双方を指します。
  • 大阪の富田林や奈良の今井のように重要伝統的建造物群保存地区に指定されているところもあり、観光地としても注目されています。守山の金森、高槻の富田、貝塚、奈良の高田などが知られています。



重伝建・今井の街並み


浄土真宗はとても個性的

浄土真宗寺院は浄土宗寺院とよく似ている

  • 本尊は阿弥陀如来です。伽藍は金堂と講堂ではなく、開祖を重んじるため阿弥陀堂と開祖を祀る御影堂(ごえいどう)が中心になります。
  • 念仏は「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と唱えます。


教えはいたってシンプル

  • 阿弥陀仏が人々を救おうとする本願(ほんがん、仏による約束)を信じ、念仏を唱えれば往生できると説きます。信仰のために修行や巡礼を求めません。
  • 加持祈祷を行わない、御朱印がない、おみくじ・お札・お守りを販売しない、といった他宗派にはない浄土真宗寺院の特徴は、こうしたシンプルな教えに基づくものです。
  • 修行者が守る生活規範を定めた戒律がなく、「不殺生」を規定していません。そのため肉食が許されていました。
  • 世の中の人はすべて善悪の判断ができない「悪人」であると定義し、自分が「悪人」だと悟った者が阿弥陀仏による救済の対象となる、とも教えます。武士だけでなく庶民でも戦で殺生を行うことが日常的だった戦国時代に、救いを求める民衆の心をぐっとつかんだ教えでした。
  • 日本仏教の中でも教えや信仰のやり方が最もシンプルと言えます。世が最も乱れていた戦国時代に急速に信者を獲得できたのは、このシンプルさが大きく影響していると考えられます。


唯一僧侶に妻帯を認めた宗派

  • 浄土真宗は、日本の仏教宗派で珍しい「妻帯を認める」宗派で、宗主職も世襲されます。明治以降はどの宗派でも妻帯が行われるようになりましたが、江戸時代は厳格に禁止されていました。
  • 宗主職の世襲は浄土真宗以外にはありませんでしたが、門跡寺院のように皇族からの新たな入寺があっても、ポストを増やさずに継続できたというメリットもありました。


宗派の名称

  • 蓮如が生きた時代、北陸・東海を中心に一向一揆が猛威を振るい、戦国大名を苦しめました。この一向宗を主導したのは本願寺宗徒にほかなりませんが、一向宗という名称は本来、他宗派が本願寺宗徒を呼んだ名称でした。
  • 浄土真宗はこの呼び名を嫌い、浄土真宗と名乗れるよう江戸幕府に願い出ますが、幕府は浄土宗の増上寺の反対を受けて「一向宗」と名乗るよう命じます。そのため江戸時代は自らを門徒宗(もんとしゅう)と呼んだこともありました。
  • 明治新政府は「真宗」と名乗ることを認めます。戦後になって西本願寺だけが「浄土真宗」を名乗るようになりました。西本願寺以外の宗派は現在も「真宗」を名乗っています。


報恩講(ほうおんこう)とは?

  • 親鸞の祥月命日(しょうつきめいにち、年1回の忌日)の前後に営まれる年忌法要です。中でも50年毎に行われる遠忌法要(おんきほうよう)はより盛大です。
  • 親鸞の祥月命日を決める暦が異なるため、宗派によって日程は異なります。西本願寺は現在の新暦に換算した日付を基準にし、毎年1月中旬です。東本願寺は旧暦の日付をそのまま基準にし、毎年11月下旬です。
  • 浄土真宗にとって最も重要な法要であり、文化財の特別公開が行われることも少なくありません。

 

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浄土教が仏教を民衆に広めた ~仏教宗派の個性(6):美術鑑賞用語のおはなし

2018年06月02日 | 美術鑑賞用語のおはなし



日本の仏教宗派のお話、後半戦では平安時代半ば以降に日本で信仰が始まった宗派を取り上げたいと思います。いわゆる鎌倉新仏教と呼ばれる宗派で、仏教が信者の階級や信仰目的に応じてよりわかりやすく布教されていく時代です。

前半戦に取り上げたより歴史のある宗派に負けず劣らず、各派はとても豊かな個性を発揮しています。そんな個性を見ていると、観る者を感動させる文化財がそこに伝わっている理由が少しずつわかるようになってきます。

浄土信仰は、法然が浄土宗を開く前から盛んに行われていました。法然以前の浄土信仰に重要な役割を果たした二人の僧から探ってみたいと思います。


地獄と極楽を有名にした源信

浄土(じょうど)とは、本来は仏が住む清らかな土地という意味です。平安時代に浄土信仰が隆盛するに従い、現代と同じように「西方極楽浄土」を主に指すようになります。

浄土信仰とは、死後に阿弥陀如来によって西方に導かれ、理想的な世界である極楽浄土に行けるよう、念仏(ねんぶつ)を唱えて祈る仏教の信仰の一つです。「浄土教」はその教えを指します。

教えとしては奈良時代より前に日本に伝わっていたと考えられています。平安時代の初期には延暦寺の円仁が、中国から最新の念仏の教えを持ち帰り、天台宗の一つとして教えるようになります。

平安時代半ばの延暦寺の恵心僧都・源信(えしんそうず・げんしん)が、985(寛和元)年に日本の浄土教のバイブルともいえる「往生要集(おうじょうようしゅう)」を著します。源信は日本浄土教の祖と言われ、源信の教えと往生要集は法然・親鸞や中世文化に多大な影響を与えることになります。

源信は死後の世界として極楽と地獄をわかりやすく説明し、極楽に行くには念仏の行が必要と説きます。この極楽と地獄の世界観は下級貴族や庶民にも理解しやすく、仏教の大衆化に大きく貢献します。また様々な文学や絵巻・仏画にも表現されるようになり、中世文化の潮流の一つとなっていきます。

厳しい修行を伴う観想(かんそう)念仏を浄土信仰の基本としますが、難行せずとも念仏を唱えるだけで極楽に行けるとする称名(しょうみょう)念仏も信仰の一つとして紹介しました。この称名念仏を重視したのが浄土宗を開いた法然です。

源信の生きた時代は、貴族社会から庶民まで末法(まっぽう)思想が広がっていました。末法とは、仏による正しい教えが行われない暗黒の世の中を指し、1052(永承7)年から末法の時代に入るとして人々の不安感を高めていました。

浄土教は末法への不安感を解消するにはピッタリの教えでした。上流貴族はきちんとした教えを求め、観想念仏に傾倒します。時代は藤原摂関政治の絶頂期でもあり、宇治の平等院に代表される浄土世界を表現した数々の寺や仏像が造られました。浄土教は、現代にかけがえのない文化財を残すことにつながったのです。

【Wikipediaへのリンク】 浄土教
【Wikipediaへのリンク】 源信


大衆に仏教への扉を開いた空也

源信より少し前、念仏によって仏教を庶民に伝え、鎌倉新仏教隆盛の礎を作った僧侶がもう一人いました。空也(くうや)上人です。

【公式サイトの画像】 六波羅蜜寺蔵「空也上人立像」

平安時代になっても日本の仏教は、国家鎮護や一握りの上流貴族階級のためだけの存在でした。寺は国家が運営し、僧侶と言えば国家公務員でした。下級貴族や庶民には仏教は全く縁遠い存在でしたが、そうした状況を危惧する僧侶が出始めます。

聖(ひじり)と呼ばれ、市中や諸国を行脚しながら民衆に布教・社会事業を行った僧です。多くは国家による正式な手続きを経ずに自ら僧と称した私度僧(しどそう)でした。そんな聖の代表格が空也です。

藤原氏による摂関政治が始まろうとしていた938(天慶元)年ごろ、京都で念仏の布教をはじめ、大きな評判を呼ぶようになります。空也が活動の拠点としていた六波羅蜜寺に残る肖像彫刻の傑作「空也上人立像」は、口から小さい阿弥陀像が飛び出しています。念仏を視覚的に表現したものと考えられています。

【Wikipediaへのリンク】 空也


浄土教の宗派は4つあり

源信や空也は、宗派のように持続的に教えを広める教団を作ることはしませんでした。浄土教を新しい宗派として最初に広めたのは、融通念仏宗を開いた良忍(りょうにん)で、浄土宗を開いた法然(ほうねん)、時宗を開いた一遍(いっぺん)と続きます。

浄土教系宗派にはもう一つ、法然の弟子だった親鸞を開祖とする浄土真宗があります、詳しくは次回に探ってみたいと思います。

浄土教系(浄土真宗以外)の宗派

宗旨 宗派 本山 所在地 住職名
融通念仏宗   大念仏寺 大阪市平野区 法主(ほっす)
浄土宗 (通称)鎮西派 知恩院 京都市東山区 門主(もんす)
西山禅林寺派 永観堂 京都市左京区 法主(ほっす)
西山深草派 誓願寺 京都市中京区 法主(ほっす)
西山浄土宗 光明寺 京都府長岡京市 法主(ほっす)
時宗   遊行寺 神奈川県藤沢市 法主(ほっす)



法然は鎌倉新仏教の突破口を開いた

浄土宗は、1175(承安5)年に法然が比叡山を下り、現在の総本山知恩院(ちおんいん)のある地・吉水(よしみず)に草庵を開いた年を宗派として開宗した年に定めています。

美作国(岡山県)出身の法然は、12歳で比叡山に入り、様々な教学を学ぶ中で源信の念仏の教えに傾倒していきます。中でも注目したのは、難行せずとも念仏を唱えるだけで極楽に行ける称名念仏でした。吉水草庵では称名念仏の教えに専念し、比叡山からも親鸞らが法然の活動に合流するようになります。

1181(養和元)年、前年に焼失した東大寺復興の大勧進職の推挙を辞退しています。重源は法然の推挙で大勧進職に就きました。1186(文治2)年には、大原勝林院で天台宗や南都仏教と論争し、一躍その名をとどろかせます。有名な「大原問答」です。

延暦寺にとって法然は、宗教上のライバルとなっていきます。1207(建永2)年、後鳥羽上皇の怒りを買うスキャンダルに巻き込まれたこともあり、念仏が禁止されます。法然は讃岐へ、親鸞は越後へ配流となった「建永の法難」です。しかし五摂家の九条家が法然に帰依していたこともあり、配流は短期間で赦免され、吉水に戻って余生を過ごします。

法然は、天台・真言の2強が仕切っていた京都の仏教界に新規参入するアントロプレナーでした。布教のターゲットとアプローチ手法をよく研究していたと言えます。法然の活動が、その後に続く鎌倉新仏教のアントロプレナーたちに大きな勇気を与えたことは間違いありません。

法然の入滅後も1227(嘉禄3)年に再び念仏が禁止となる「嘉禄の法難」に見舞われ、教団は以降分派を繰り返します。室町時代になると、鎮西(ちんぜい)派と西山(せいざん)派にほぼ集約され、江戸時代に徳川幕府の庇護を受けた鎮西派が、浄土宗の多数派として現在に至ります。鎮西派は正式な宗派名称ではありませんが、西山派と区別しやすいよう使われます。


知恩院の城のような石垣

浄土宗は江戸時代になるまでは有力宗派ではなく、総本山知恩院の境内もごく小さいものでした。徳川幕府が京都の有事の際の軍事的な拠点として想定したこともあり、北隣の天台宗の青蓮院の敷地を大幅に削って、現在の知恩院の境内としました。

徳川家が浄土宗を重視したのは、発祥の地・岡崎にある菩提寺・大樹寺が浄土宗だったことも一因です。江戸の増上寺は寛永寺と共に将軍の墓所となり、絶大な権勢をふるうことになりました。

浄土宗の寺の本尊は阿弥陀如来です。念仏は「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と唱えます。伽藍は金堂と講堂ではなく、阿弥陀堂と開祖を祀る御影堂(みえいどう)が中心になります。

布教のために開祖の生涯を絵巻にした「祖師絵伝」を重視するのも浄土教系宗派の特徴です。知恩院の国宝・法然上人絵伝はその代表例です。

浄土教系4宗派の中で、浄土真宗に次いで寺と信者数が多い宗派です。浄土宗(鎮西派)の著名寺院(山内塔頭除く)は全国に数多くあります。

総本山

  • 知恩院(正式名称:知恩教院大谷寺(ちおんきょういんおおたにでら))

大本山

  • 東京の増上寺、京都の金戒光明寺・百萬遍知恩寺・清浄華院、久留米の善導寺、鎌倉の光明寺、長野の善光寺大本願

他の有力寺院

  • 京都の清凉寺・得浄明院・化野念仏寺・阿弥陀寺(上京区)・古知谷阿弥陀寺・安楽寺・直指庵・地蔵寺・釘抜地蔵・大文字寺・世継地蔵・大雲院・檀王法林寺
  • 八幡の正法寺、大阪の一心寺・法善寺、貝塚の孝恩寺、斑鳩の吉田寺、御所の九品寺、吉野の如意輪寺、敦賀の西福寺
  • 東京の回向院・九品仏浄真寺・祐天寺、甲府の甲斐善光寺、名古屋の建中寺、岡崎の大樹寺


【Wikipediaへのリンク】 浄土宗
【Wikipediaへのリンク】 法然
【Wikipediaへのリンク】 知恩院


天台宗に近い「西山派」

浄土宗の西山派は、法然の高弟・証空(しょうくう)が源流です。天台宗を取り入れており、やや保守的な教えであることが特徴です。現在は宗派としては3つに分かれています。

西山禅林寺派の有力寺院

  • 総本山:京都の永観堂(正式名称:禅林寺(ぜんりんじ))
  • その他:京都の瑞泉寺・法性寺

西山深草派の有力寺院

  • 総本山:京都の誓願寺

西山浄土宗の有力寺院

  • 総本山:長岡京の粟生光明寺
  • その他:京都の長講堂


【Wikipediaへのリンク】 浄土宗西山禅林寺派
【Wikipediaへのリンク】 浄土宗西山深草派
【Wikipediaへのリンク】 西山浄土宗


大念仏狂言を始めた「融通念仏宗」


大念仏寺の万部おねり

融通念仏宗(ゆうづうねんぶつしゅう)は、浄土教系宗派の中でも最も早く開かれました。法然の浄土宗開宗より半世紀ほどさかのぼる1117(永久5)年、天台宗の良忍(りょうにん)が大原・来迎院で修行中に阿弥陀如来のお告げを受けて開宗したとされています。大念仏宗とも呼ばれます。

宗派として組織化されていたわけではなく、良忍の入滅後は細々と法灯が保たれている程度でした。法然の浄土宗のように多くの信者を集めることはありませんでした。

鎌倉時代後期の1300(正安2)年、融通念仏宗の中興の祖・円覚上人(えんがくしょうにん)が布教のために大念仏狂言を始めます。現在も京都の壬生寺・清凉寺・千本ゑんま堂で行われており、京都の著名な風物詩の一つです。

その後も再び時勢は衰えますが、元禄時代に寺勢を取り戻し、現在に至ります。総本山の大阪・大念仏寺は、25菩薩が来迎する5月の「万部おねり」がよく知られています。

【Wikipediaへのリンク】 融通念仏宗


踊り念仏と言えば「時宗」

時宗(じしゅう)は、浄土系宗派では最も後発で鎌倉時代後期に成立しました。浄土教の教えでは常識だった阿弥陀仏への信仰は問わず、ただ念仏だけを唱えれば往生できると説きます。

開祖・一遍上人は(いっぺんしょうにん)は、鎌倉新仏教の開祖では唯一、比叡山で学んでいません。生涯は全国の遊行(ゆぎょう)に捧げます。遊行とは、僧が各地を巡って布教・修行を行うことで、古くは行基・空也がよく知られています。

鉦や太鼓で踊りながら念仏を唱える「踊り(おどり)念仏」も遊行の際に行われ、時宗の布教の特徴になりました。蒙古襲来など社会不安が高まっていた時代で、幕末の「ええじゃないか踊り」のように庶民を熱狂させたと考えられています。

京都でも踊り念仏は流行し、信者を獲得します。室町時代に最先端文化をリードした猿楽の観阿弥・世阿弥や足利将軍の同朋衆の多くが、時宗信者だったことが知られています。

しかし一遍をはじめ、時宗は伝統的に教団としての組織化には熱心ではありませんでした。そのため江戸時代までは、集団に過ぎないという意味で「時衆」と表記していました。

総本山の藤沢・遊行寺(ゆぎょうじ、正式名称:清浄光寺(しょうじょうこうじ))は、一遍の死から30年ほどたってから弟子によって開かれたものです。著名寺院に、京都の安養寺・長楽寺、益田の萬福寺があります。

【Wikipediaへのリンク】 時宗

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ご来光の原点は修験道 ~仏教宗派の個性(5):美術鑑賞用語のおはなし

2018年05月25日 | 美術鑑賞用語のおはなし



修験道(しゅげんどう)は、山岳信仰と仏教が融合した宗派です。奥深く険しい霊山を駆け抜ける厳しい修行を特徴とします。修行者は、修験者(しゅげんじゃ)や山伏(やまぶし)と呼ばれ、その姿はよく知られています。神仏習合を象徴する宗派でもあります。

【聖護院公式サイトの画像】 山伏

山岳信仰は海外でも見られますが、ほとんどは信仰の対象となる山への登山をしません。日本の山岳信仰は逆に、信仰の対象となる山への登山を行うことが世界的に稀有です。霊山の山頂から見る日の出を「ご来光」として尊ぶのはとても珍しいのです。

宗派としては、飛鳥時代に役小角(えんのおづの、役行者(えんのぎょうじゃ)とも呼ばれる)が創始したとされますが、実在の人物かどうかは疑問視されています。盛んに信仰されるようになったのは平安時代からです。

山岳信仰を基本としているため、日本全国の霊山で信仰が見られます。熊野三山と吉野・大峰山を筆頭に、白山・富士山・出羽三山・英彦山など日本全国に渡ります。土着の信仰として、多くの地では永らく宗派という概念はありませんでした。


熊野古道の面影を色濃く残す熊野那智大社「大門坂」

平安時代の1090(寛治4)年に白河上皇が熊野詣をした際に、園城寺の僧で聖護院の開祖・増誉(ぞうよ)が熊野三山を統括する職である検校(けんぎょう)に任命されます。以来、天台宗寺門派が熊野三山での修験道への影響力を強めます。聖護院がその中心となり、本山派(ほんざんは)と呼ばれるようになります。


大峰山への入口に立つ金峯神社

畿内での修験道のもう一つの拠点である吉野・大峰山は、醍醐寺の開祖・聖宝(しょうぼう)が894(寛平6)年に中心となる金峯山寺(きんぷせんじ)を中興しました。心理的に真言宗に近く、当山派(とうざんは)と呼ばれるようになります。当山派は安土桃山時代までは醍醐寺の影響下にはなく、吉野の金峯山寺を中心に独自の活動を行っていました。

吉野・大峰と熊野を駆け抜ける修行の道は、大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)と呼ばれ、世界遺産になっています。中世には、熊野から吉野へ向かう方法を順峯(じゅんぷ)と呼び、主に本山派が用いました。一方吉野から熊野へ向かう方法を逆峯(ぎゃくふ)と呼び、主に当山派が用いました。

時代が下るにつれ、両派には少しずつボタンの掛け違いが目立つようになります。江戸時代の初め、トラブルが深刻になったことを憂いた金峯山寺が、時の政界に顔が利いた醍醐寺・三宝院の義演(ぎえん)を頼ります。

義演から幕府に働きかけがあり、1613(慶長18)年に幕府の裁定で両派間のルールが定められます。同時に全国の修験道が両派のいずれかに所属することも定められます。この裁定は当山派に有利でしたが、一方で本山である金峯山寺が本山派に属すことになります。以降、当山派は真言宗の影響下に入り、醍醐寺・三宝院を本山とします。

明治新政府によって修験道が禁止されると、本山派・当山派は天台宗・真言宗の寺院となります。修験道の宗派として独立するのは第二次大戦後です。

宗旨 宗派 本山 所在地 本尊 住職名

天台宗
から
【独立】

本山修験宗 聖護院 京都市左京区 不動明王 門主(もんしゅ)
金峯山修験本宗 金峯山寺 奈良県吉野町 蔵王権現 長臈(ちょうろう)
羽黒山修験本宗 荒沢寺 山形県鶴岡市 大日如来・阿弥陀如来・観音菩薩 住職(じゅうしょく)


旧本山派は、京都の聖護院を総本山に本山修験宗(ほんざんしゅげんしゅう)を名乗ります。江戸時代に本山派となった金峯山寺は、金峯山修験本宗(きんぷせんしゅげんほんしゅう)として旧本山派とは別の道を歩みます。羽黒山修験本宗(はぐろさんしゅげんほんしゅう)は、出羽三山の一つ・羽黒山の荒沢寺を総本山に独立しました。

旧当山派は独立せず、現在も醍醐寺・三宝院に属しています。

【Wikipediaへのリンク】 修験道
【Wikipediaへのリンク】 本山派
【Wikipediaへのリンク】 当山派

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夢の国を究めようとした真言宗 ~仏教宗派の個性(4):美術鑑賞用語のおはなし

2018年05月24日 | 美術鑑賞用語のおはなし



真言宗(しんごんしゅう)はとてもたくさんの分派があります。歴史的に有力な寺院が多く、明治以降に各本山が宗教法人として独立の道を選択した結果です。しかし一貫して宗派の開祖である空海を崇めており、天台宗のように宗派内での抗争が長く続いたことはありません。こうした結束力の強さの原点は、空海の遺した偉大な業績にほかなりません。

宗旨 宗派 本山 所在地 本尊 住職名
真言宗 東寺真言宗 東寺 京都市南区 薬師如来 長者(ちょうじゃ)
高野山真言宗 金剛峯寺 和歌山県高野町 阿閦如来(薬師如来) 座主(ざしゅ)
醍醐派 醍醐寺 京都市伏見区 薬師如来 座主(ざしゅ)
善通寺派 善通寺 香川県善通寺市 薬師如来 法主(ほっす)
随心院 京都市山科区 如意輪観音 門跡(もんぜき)
山階派 勧修寺 京都市山科区 千手観音 (ちょうり)
泉涌寺派 泉涌寺 京都市東山区 釈迦・阿弥陀・弥勒如来 長老(ちょうろう)
御室派 仁和寺 京都市右京区 阿弥陀如来 門跡(もんぜき)
大覚寺派 大覚寺 京都市右京区 五大明王 門跡(もんぜき)
信貴山真言宗 朝護孫子寺 奈良県平群町 毘沙門天 法主(ほっす)
中山寺派 中山寺 兵庫県宝塚市 十一面観音 長老(ちょうろう)
真言三宝宗 清澄寺 兵庫県宝塚市 大日如来 管長(かんちょう)
須磨寺派 須磨寺 神戸市須磨区 聖観音 管長(かんちょう)
智山派 智積院 京都市東山区 金剛界大日如来 化主(けしゅ)
豊山派 長谷寺 奈良県桜井市 十一面観音 化主(けしゅ)
室生寺派 室生寺 奈良県宇陀市 釈迦如来 管長(かんちょう)
新義真言宗 根来寺 和歌山県岩出市 大日如来 座主(ざしゅ)
真言律宗 西大寺 奈良市 釈迦如来 長老(ちょうろう)
宝山寺 奈良県生駒市 不動明王 貫主(かんず)



現代までカリスマが君臨する真言密教

空海は816(弘仁7)年に高野山に道場を開き、823(弘仁14)年に嵯峨天皇より官寺の東寺を下賜されます。中国から持ち帰った密教を基本にした真言宗を確立します。

真言宗全体の総本山は高野山の金剛峯寺であるイメージが強いですが、歴史的には京都の東寺です。現在は真言宗全体を統括する制度がないため、形式的な概念です。現在の「金剛峯寺」は座主の住居である本坊のエリアだけを指す名称として実質的に使われていますが、江戸時代までは高野山全体を指す名称でした。空海よって名付けられ、高野山全体を一つの寺としてとらえていたものです。

密教は、言葉や事象に表れない秘密の真理を明らかにしようとすることに名の由来があります。仏は人物ではなく真理そのものと定義します。宇宙の王者である大日如来を仏の中心に据えます。修行を通じて真理を理解することで自己や他者を救うことができると説きます。

空海は当時の日本に存在した奈良仏教や天台宗を、顕教(けんぎょう)として密教より下位に位置付けます。顕教は、言葉や事象に表れるものだけを真実ととらえているに過ぎないとみなしたのです。

空海の教えは当時とても革新的だったと考えられます。大日如来を頂点とする真言密教の世界観を、たくさんの仏像を並べてプレゼンテーションした東寺の立体曼荼羅は今見ても圧巻の空間です。平安時代初期には、何より恐れられた災い除けや病気平癒など現世利益を祈る宗派として絶大な支持を得ます。

一方で空海は他宗を排斥するようなことはしませんでした。最澄が自前にこだわった戒壇は、空海は既存の東大寺を使用します。南都仏教に対しては融合を目指すような動きが、以降も真言宗には見られます。

空海のカリスマ性は入滅後もますます高まっていきます。真言宗の教えが、空海一代でさらなる発展の余地がないほどのレベルに達していると認識されたためです。四国八十八か所巡礼や各地に残る膨大な数の空海自作の仏像といった事象は、神格化された弘法大師信仰の代表例です。



空海の孫弟子にあたる理源大師・聖宝(りげんたいし・しょうぼう)は醍醐寺を開きました。真言宗系修験道の当山派の開祖でもあります。醍醐天皇の寵愛を受けていたことで知られます。醍醐寺は、足利義満の満済、秀吉・家康の義演ら、政治権力者のブレーンとなる高僧を多く輩出します。

醍醐寺以外でも伝統的に、真言宗は政治権力者との融和を重んじます。秀吉による攻撃を回避した高野山の僧・木食応其(もくじきおうご)は、その後も豊臣政権のブレーンとして信頼を得ます。こうした点も天台宗と大きく異なります。

真言宗の京都における本山クラスの大寺院は、天皇の別荘・門跡・菩提寺に起源をもつ寺が多く、王朝文化を色濃く今に伝えています。また宗派全般的に歴史があることから、仏像や建造物など文化財が数多く残る点も特徴的です。 延暦寺は興福寺と同様に、現実的な俗世間との関わりを重視する伝統があります。一方、真言宗は俗世間とは一線を画す伝統があります。どちらも生き残るために選択した伝統です。

東寺の立体曼荼羅や高野山奥の院で2kmにわたって歴史的人物の墓標が並ぶ圧巻の参道など、夢の国にやってきたように思わせる真言宗のプレゼンテーションの上手さは秀逸です。空海のDNAが脈々と伝わっているように思えてなりません。

真言宗の寺の伽藍には、多宝塔(たほうとう、大塔と呼ぶ場合もある)が多く見られます。真言密教の最上位に位置する大日如来を祀ります。しかし真言宗寺院の本尊に大日如来は多くありません。現世利益というわかりやすいマーケティングを意識したのでしょうか、薬師如来のほか多岐にわたります。

真言宗の著名寺院(山内塔頭除く)は全国に数多くあります。

東寺真言宗(総本山:東寺)

  • <大本山>大津の石山寺
  • 京都の神泉苑

高野山真言宗(総本山:金剛峯寺)

  • <遺跡(ゆいせき)本山>京都の神護寺、河内長野の観心寺
  • 京都の安祥寺・千本ゑんま堂
  • 大阪の太融寺、堺の家原寺、箕面の勝尾寺、交野の獅子窟寺、羽曳野の野中寺
  • 西宮の門戸厄神、小野の浄土寺、加東市の朝光寺、城崎の温泉寺、香住の大乗寺
  • 奈良の大安寺、天理の長岳寺、大和郡山の矢田寺、橿原のおふさ観音、奈良県の百済寺・子嶋寺
  • 和歌山の慈尊院
  • 小浜の羽賀寺・多田寺・妙楽寺
  • 横浜の弘明寺、伊豆の願成就院、名古屋の興正寺、小松の那谷寺
  • 岡山の西大寺、宮島の大願寺、周防国分寺、鳴門の霊山寺

真言宗醍醐派(総本山:醍醐寺)

  • <大本山>御所の転法輪寺、尾道の西国寺
  • 京都の一言寺・法界寺・長建寺
  • 綾部の光明寺、舞鶴の松尾寺、大津の岩間寺
  • 奈良の十輪院、大和郡山の松尾寺、吉野の大峯山寺
  • 鳥取県の不動院岩屋堂

真言宗泉涌寺派(総本山:泉涌寺)

  • <大本山>尾道の浄土寺
  • 京都の誠心院・雨宝院
  • 鎌倉の覚園寺・明王院

真言宗御室派(総本山:仁和寺)

  • <大本山>河内長野の金剛寺、宮島の大聖院
  • 奈良の円成寺、橿原の久米寺、泉佐野の慈眼院、藤井寺の葛井寺・道明寺、西宮の神呪寺
  • 小浜の明通寺、高松の屋島寺

真言宗大覚寺派(大本山:大覚寺)

  • 京都の祇王寺
  • 神奈川の大山寺、福山の明王院、香川県の観音寺

その他

  • 奈良の霊山寺・松尾寺・正暦寺、和歌山の紀三井寺
  • 愛知県の鳳来寺、石鎚山の極楽寺


【Wikipediaへのリンク】 真言宗
【Wikipediaへのリンク】 東寺
【Wikipediaへのリンク】 高野山真言宗(金剛峯寺)

【Wikipediaへのリンク】 真言宗醍醐派
【Wikipediaへのリンク】 真言宗泉涌寺派
【Wikipediaへのリンク】 真言宗山階派
【Wikipediaへのリンク】 真言宗御室派
【Wikipediaへのリンク】 真言宗大覚寺派
【Wikipediaへのリンク】 真言宗善通寺派


高野山にも内部抗争はあった

真言宗は、宗派内や他宗との抗争、政治権力者との対立といった武力衝突は、天台宗と比べると明らかに少ない宗派です。それでも大きな危機は二度ありました。

平安時代末期に興教大師・覚鑁(こうぎょうだいし・かくばん)が、浄土教の教えを取り込んだ新しい密教を提唱します。高野山の腐敗を嘆いて改革を行いますが、守旧派を抑えきれなくなります。1140(保延6)年に覚鑁は山を下り、高野山のふもとから少し紀ノ川を下った地に根来寺(ねごろでら)を開きます。天台宗の寺門派・三井寺と同じようなパターンです。


根来寺・大塔

新義(しんぎ)真言宗として活動した根来寺は、戦国時代に鉄砲の産地として栄えます。多数の僧兵を抱える一大宗教都市になりますが、秀吉に屈服せず、攻撃されて壊滅します。

根来寺から逃れた僧侶たちの内、玄宥(げんゆう)が率いて京都に智積院を再興した一派が現在の智山派(ちさんは)、専誉(せんよ)が率いて長谷寺に入った一派が豊山派(ぶざんは)、のそれぞれ源流となっています。智積院は根来寺の塔頭の一つでした。

新義以外の派は古義(こぎ)真言宗と呼ばれます。真言宗を大きく2つに分ける概念ですが、両者間には天台宗のような強い確執はありません。

新義真言宗系の著名寺院(山内塔頭除く)は数多くありますが、関東に有力寺院が多いことが特徴的です。

真言宗智山派(総本山:智積院)

  • <関東三大本山>成田山新勝寺、川崎大師平間寺、高尾山薬王院
  • いわきの白水阿弥陀堂、東京の高幡不動・深川不動・薬研堀不動院
  • 名古屋の大須観音、愛知県の甚目寺、伊賀の新大仏寺
  • 京都の上品蓮台寺・千本釈迦堂・因幡堂・六波羅蜜寺・安楽寿院
  • 木津川市の蟹満寺・海住山寺、大山崎の宝積寺、寝屋川の成田山不動尊、富田林の瀧谷不動
  • 土佐国分寺、松山の太山寺

真言宗豊山派(総本山:長谷寺)

  • <大本山>東京の護国寺
  • 千葉の観福寺、東京の目白不動・西新井大師・武蔵国分寺
  • 長岡京の乙訓寺、明日香の飛鳥寺・岡寺、五條の栄山寺、竹生島の宝厳寺
  • 愛媛の石手寺


新義真言宗系その他

  • 奈良の室生寺、栃木の鑁阿寺


【Wikipediaへのリンク】 新義真言宗
【Wikipediaへのリンク】 真言宗智山派
【Wikipediaへのリンク】 真言宗豊山派


奈良で花開いた真言律宗

真言律宗は、鎌倉時代に叡尊(えいそん)が真言密教と律宗が伝える戒律を融合させた宗派です。鎌倉仏教の一つとしても数えられます。叡尊は、弟子の忍性(にんしょう)と共に、被差別民やハンセン病患者など社会的弱者の救済を行ったことでも知られます。

叡尊は荒廃していた西大寺を復興させ、奈良近辺の寺に瞬く間に支持を得ます。現在でも真言律宗の寺は、奈良近辺に集中する傾向があります。


浄瑠璃寺

真言律宗の著名寺院は以下です。

  • <総本山>西大寺、<大本山>生駒の宝山寺
  • 奈良の海龍王寺・不退寺・般若寺・元興寺極楽坊・白毫寺・不空院・福智院、大和郡山の額安寺、生駒の長弓寺
  • 宇治の橋寺、木津川市の岩船寺・浄瑠璃寺
  • 横浜の称名寺、鎌倉の極楽寺


【Wikipediaへのリンク】 真言律宗

 

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中世の京都に君臨した天台宗 ~仏教宗派の個性(3):美術鑑賞用語のおはなし

2018年05月23日 | 美術鑑賞用語のおはなし



真言宗は、空海があまりに偉大であったのか、空海に続く有力な弟子は表れていません。多くの宗派に分かれますが、いずれも脈々と空海の法灯を伝えています。

一方天台宗は対照的です。最澄に続く有力な弟子が続出し、鎌倉仏教の生みの親にもなります。絶大な経済力を身につけ、中世には都に君臨していましたが、武力抗争など負の側面も少なくありません。日本社会の形成に与えてきた影響は、真言宗より天台宗の方がはるかに大きいと言えます。歴史の教科書に登場する頻度の多さからも納得できます。

宗旨 宗派 本山 所在地 本尊 住職名
天台宗 (通称)山門派 延暦寺 大津市 薬師如来 座主(ざす)
【独立】 天台寺門宗 三井寺 大津市 弥勒菩薩 (ちょうり)
天台真盛宗 西教寺 大津市 阿弥陀如来 貫首(かんしゅ)
和宗 四天王寺 大阪市天王寺区 救世観音 管長(かんちょう)
粉河観音宗 粉河寺 和歌山県紀の川市 千手千眼観音菩薩 管長(かんちょう)
鞍馬弘教 鞍馬寺 京都市左京区 尊天(毘沙門天・千手観音・護法魔王貴) 管長(かんちょう)
聖観音宗 浅草寺 東京都台東区 聖観音 貫首(かんしゅ)



日本仏教の歴史を作った延暦寺

天台宗の開祖・最澄は、唐に留学する前の788(延暦7)年、比叡山中の現在の根本中堂の場所に小さな一乗止観院(いちじょうしかんいん)を建立します。この小さな寺が、最澄の死後823(弘仁14)年に、嵯峨天皇から創建時の元号を寺名として賜った総本山・延暦寺(えんりゃくじ)の起源です。

延暦寺からは優れた弟子が多く登場し、天台宗の発展を継続させていきます。最澄がもたらした密教が空海のものより不十分だったため、弟子たちが積極的に唐に渡り新しい教えを持ち帰ろうとしました。

最澄の少し後、3代天台座主になった慈覚大師・円仁(じかくだいし・えんにん)と、5代天台座主になった智証大師・円珍(ちしょうだいし・えんちん)は、最澄ができなかった貴重な経典や曼荼羅を唐から持ち帰ります。

円仁は、東京の浅草寺や目黒不動、山形の立石寺、松島の瑞巌寺を開いたとする伝説があります。唐への旅行記「入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)」は、東方見聞録などと並んで世界的に著名な旅行記です。後に寺門派・三井寺と対立する山門派のリーダーとしてあがめられます。

円珍は円仁以上に多くの経典を持ち帰ります。円珍が貴重な経典を三井寺に置いたことが、のちに山門寺門の対立の大きな要因となります。黄不動やなどの美術品や肖像画・書など、円珍がかかわった国宝クラスの文化財が数多く三井寺に残されています。

966(康保3)年に18代天台座主になった元三大師・良源(がんざんだいし・りょうげん)は火災で荒廃していた伽藍を復興させ、比叡山中興の祖としてあがめられています。「厄除け大師」として庶民にも人気があり、「おみくじ」の創始者とも言われています。


延暦寺

延暦寺は、法華経典の教えを基本とする天台宗ではありますが、戒律・密教・念仏・禅など他の様々な仏教宗派の教えも受容します。そのため四宗兼学(ししゅうけんがく)の道場とも呼ばれ、南都寺院に代わって仏教を志す若者の総合大学のようになっていきます。良忍・法然・親鸞・栄西・道元・日蓮ら、鎌倉時代に興った新宗派の開祖は、すべて延暦寺から巣立っていきます。

こうしたオープンな姿勢は、真言密教だけを教えた高野山とは対照的です。平安京に近かったという立地条件もありますが、日本仏教の興隆に果たした貢献度は計り知れません。僧兵による武力行使というマイナスイメージだけで、延暦寺を語ることはできません。

僧兵のような強固な組織を維持できたのは、比叡山が総合商社のように都の経済の多くを支配していたためです。南都北嶺(なんとほくれい)と呼ばれた室町時代まで続く興福寺との対立が、興福寺に対抗しうる経済力を付けようと努力した結果と思えてなりません。

祇園社(現・八坂神社)や北野社(現・北野天満宮)を次々と支配下に置きます。両社が持つ洛中の広大な土地には不輸不入の権があり、国家といえども手を出せませんでした。また琵琶湖の水運の大半を握っており、比叡山にそっぽを向かれては都の経済にすぐさま影響が出たのです。

平安時代後期に院政を始めて絶大な権力を誇った白河法皇の嘆き「わが心にかなわぬもの、賀茂河の水、双六の賽、(比叡山の)山法師」はよく知られています。権力者ですら手を出せないほど社会を牛耳っていました。

その後も戦国時代まで、寺門派・他宗・政治権力者との抗争が相次ぎます。室町幕府6代将軍・義教による攻撃、本願寺や日蓮宗との抗争、信長の焼討、と日本史を左右する重大事件の当事者であり続けます。

天台宗は、歴史的に分派・独立が多い宗派です。本家の延暦寺は「天台宗」とだけ宗派名を名乗っていますが、分派との区別のために山門派(さんもんは)と呼ぶことも少なくありません。

天台宗(山門派)の著名寺院(山内塔頭除く)は全国に数多くあります。

総本山

  • 延暦寺

門跡寺院

  • 大津の滋賀院、京都の五門跡(妙法院・三千院・青蓮院・曼殊院・毘沙門堂)

大本山

  • 平泉の中尊寺、日光の輪王寺、上野の寛永寺、長野の善光寺大勧進

他の有力寺院

  • 京都の革堂・方広寺・真如堂・法住寺・蓮華寺・勝林院・宝泉院・来迎院・寂光院・赤山禅院・二尊院・愛宕念仏寺・月輪寺・願徳寺・三鈷寺・勝持寺・山科聖天
  • 滋賀県の湖東三山(西明寺・金剛輪寺・百済寺)と湖南三山(常楽寺・長寿寺・善水寺)、甲賀市の櫟野寺、大津の聖衆来迎寺・青龍寺
  • 小浜の若狭神宮寺、亀岡の穴太寺
  • 明日香の橘寺、岸和田の大威徳寺、貝塚の水間寺
  • 海南の善福院・長保寺、和歌山県の道成寺・青岸渡寺・補陀洛山寺
  • 神戸の太山寺、加西市の一乗寺、加古川の鶴林寺、姫路の圓教寺、太子町の斑鳩寺
  • 平泉の毛越寺、奥州市の黒石寺、山形の立石寺
  • 佐野の厄除け大師、川越の喜多院、東京の目黒不動、調布の深大寺
  • 長野県の大法寺、信濃国分寺、岐阜県の華厳寺・横蔵寺、名古屋の荒子観音、岡崎の滝山寺
  • 鳥取県の三佛寺・観音院・大山寺
  • 大宰府の観世音寺、大分県の富貴寺・両子寺

上野の寛永寺は、江戸時代は延暦寺に代わって天台宗全体の管理を行っていました。明治維新後に管理権は延暦寺に戻っています。

【Wikipediaへのリンク】 天台宗
【Wikipediaへのリンク】 延暦寺


寺門派の分派と抗争

天台宗は四宗兼学と呼ばれたように、仏教の教えの多様性を受容したことが、日本の仏教宗派の中では稀有です。そのためか結果的に、平安時代から現代まで独立した宗派が非常に目立っています。

分派した筆頭は通称・三井寺(みいでら)で知られる園城寺(おんじょうじ)です。山門派に対して寺門派(じもんは)と呼ばれる天台寺門宗の総本山です。

【三井寺公式サイトの画像】 智証大師・円珍

延暦寺内で円仁と円珍を支持する二つの派閥ができ、対立を始めます。993(正暦4)年、円仁派が円珍派を襲撃し、円珍派は山を下りて三井寺に入ります。山門寺門の対立はやむことはなく、室町時代まで数多く続きます。こうした長期に渡って熾烈な内部抗争が続いたことも、真言宗とは対照的です。


三井寺で最も神聖なエリア、唐院・灌頂堂

円珍を開祖とする寺門派の教えは、延暦寺の四宗兼学に修験道を加えていることがその特徴です。天台宗系の修験道である「本山派」は寺門派との関係が密接です。

三井寺は仏教美術が数多く伝えられていることも特徴的です。幾度の山門派からの攻撃も守り抜いてきました。一方の延暦寺は、やはり信長による焼討が今に伝わる仏教美術の数にも影響していると考えられます。

【Wikipediaへのリンク】 天台寺門宗
【Wikipediaへのリンク】 三井寺(園城寺)


卒業生を送り出す伝統が今に続く

延暦寺は仏教の様々な宗派の考え方を教える伝統があります。室町時代までは絶大な軍事力と経済力を持っていました。江戸時代は徳川幕府によって厚く庇護されており、何といっても日光の家康廟を弔う寺は天台宗の輪王寺です。

こうした歴史的な背景から、天台宗とはやや異なる教えをする寺も数多く傘下に収めてきました。江戸時代には徳川幕府の本末制度により、寺は必ずどこかの宗派に属さなければならなくなりました。天台宗の傘下に入る寺も少なくありませんでした。

明治維新と第二次大戦敗戦のような社会が大きく変わる時に、天台宗から独立した寺は少なくありません。近年になっても卒業生を送り出す伝統は続いています。

比叡山のふもと、大津市・坂本にある西教寺(さいきょうじ)は、天台真盛宗(てんだいしんせいしゅう)の総本山です。室町時代の1486(文明18)年に真盛(しんせい)が寺を中興したことで宗派の祖としています。天台真盛宗は天台宗の中でも念仏を重んじる浄土教の影響が強い宗派です。明治時代に独立しました。

【Wikipediaへのリンク】 西教寺

法隆寺と並んで日本で有数の歴史を誇る大阪の四天王寺(してんのうじ)は現在、和宗(わしゅう)を名乗っています。593年から聖徳太子が建立を始めました。四天王寺は様々な宗派を教える八宗兼学(はっしゅうけんがく)の寺で、伝統的に宗派には属していませんでした。教えの近い天台宗との関係を徐々に強めていきましたが、和宗として第二次大戦後すぐに独立しました。

【Wikipediaへのリンク】 四天王寺

和歌山県の紀ノ川沿いにある粉河寺(こかわでら)は、粉河観音宗(こかわかんのんしゅう)の総本山です。粉河観音宗は天台宗に近い教えです。

【Wikipediaへのリンク】 粉河寺

奈良時代に鑑真の高弟が創建したとされる鞍馬寺(くらまでら)も永らく天台宗でした。第二次大戦後すぐに、鞍馬弘教(くらまこうきょう)として独立しています。宇宙の支配する尊天(そんてん)をあがめることが特徴です。

【Wikipediaへのリンク】 鞍馬寺

全国でも有数の参拝者を誇る東京の浅草寺(せんそうじ)は、飛鳥時代の創建と言われます。慈覚大師・円仁が中興したとされ、永らく天台宗でした。第二次大戦後すぐに、聖観音宗(しょうかんしゅう)として独立しました。

【Wikipediaへのリンク】 浅草寺

 

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日本史のスーパースター、最澄と空海 ~仏教宗派の個性(2):美術鑑賞用語のおはなし

2018年05月22日 | 美術鑑賞用語のおはなし



奈良から京都に都が移されるに伴い、仏教を取り巻く環境も大きく変わります。密教が新たに中国からもたらされたことにより、奈良仏教と異なる「宗派」の概念が芽生え、信者の階層やニーズに応じた信仰が発展していきます。平安時代初期は、平安京内に東寺・西寺以外に寺の建立が禁じられたこともあり、寺は山に建立される時代でした。

平安時代の仏教を理解するには、とても有名な空海とやや地味な最澄、二人の偉人の理解が欠かせません。こうした二人のイメージは後世が作り出したものです。二人の遺した業績は日本仏教界にとどまらず、社会全体に大きな影響を与えることになります。宗派を理解するうえで欠かせない二人の個性の違いについて探ってみたいと思います。


桓武天皇が仏教を大きく変えた

784年、桓武(かんむ)天皇は長岡京に遷都します。称徳(しょうとく)天皇に取り入り絶大な権勢をふるった僧・道鏡(どうきょう)のように、平城京で肥大化した南都仏教寺院の影響力を嫌ったためと考えられています。そのため桓武天皇は平城京からの寺院の移転を一切認めませんでした。平城京遷都時に有力寺院がそろって飛鳥から移転したのとは大きく異なります。

桓武天皇は新しい仏教の教えを求めていました。天皇側近の僧となっていた最澄(さいちょう)を唐に派遣し、中国の最新の仏教を学ばせます。最澄は805(延暦24)年に帰国し、天台宗を開きます。

【比叡山延暦寺公式サイトの画像】 伝教大師・最澄

最澄の活動は既得権を守ろうとする奈良仏教とことごとく対立しますが、新しい仏教を求める嵯峨(さが)天皇の支持も受け、認められていきます。畿内では奈良・東大寺にしかなかった国家による僧侶認定機関・戒壇(かいだん)を、比叡山に設けることにも成功します。

戒壇の設置もあって平安時代に数多くの若者が集まり、総合大学のようになっていました。こうして鎌倉仏教の開祖たちを世に送り出すことになります。

最澄が唐に渡った遣唐使一行に無名の若者も名を連ねていました。もう一人のスーパースター・空海(くうかい)です。遣唐使への乗船は当時、国家が実績を認めた人物以外はほぼ不可能でした。無名だった空海がなぜ乗船できたかはよくわかっていません。

【高野山金剛峰寺公式サイトの画像】 弘法大師・空海

空海は当初20年の留学の約束でしたが、わずか2年の滞在で帰国します。この約束を守らなかった理由に、中国の最新の仏教である密教(みっきょう)を早く日本で布教したかったからという説もありますが。よくわかっていません。

都に戻る許しを得るため博多と大宰府に滞在したのち、809(大同4)年に高雄山寺(現・神護寺)に入ります。この帰京には最澄の尽力があったと考えられています。


平安密教の原点、神護寺

最澄は自分がもたらした天台宗の密教(台密、たいみつ)より、空海が学んだ真言宗の密教(東密、とうみつ)の方が優れていることに気づき、先輩ながらも密教に関しては空海から学ぼうとします。両者のもたらした密教の完成度の違いが、現代まで続く両派の歴史を大きく左右することになります。

残念ながら最澄と空海の関係は長くは続きませんでした。二人は入滅後、天皇から僧侶に贈られる最高の敬称である大師(だいし)を賜わります。空海は弘法(こうぼう)大師、最澄は伝教(でんきょう)大師です。弘法大師の方が、圧倒的に知名度が高いことをお感じになられると思います。

平安京における仏教は、二人の個性の差から異なる展開をしていくことになります。

【Wikipediaへのリンク】 最澄
【Wikipediaへのリンク】 空海

 

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奈良仏教は学問だった ~仏教宗派の個性(1):美術鑑賞用語のおはなし

2018年05月21日 | 美術鑑賞用語のおはなし



お寺巡りをしていると、自然とその寺の宗派(しゅうは)が気になるようになります。宗派によって寺のつくりや文化財に一定の個性が見いだせるからです。宗教上の考え方を異にする宗派は世界中の宗教にみられますが、日本の仏教の宗派を厳密に数えると150を超えます。

そのすべてをおさらいするのではなく、比較的著名で訪問頻度の高いお寺の宗派に絞って、その特徴を探ってみたいと思います。とはいえボリュームがあるので、まずは日本に仏教が伝来した飛鳥時代から奈良時代の宗派にスポットをあてます。


1)仏教は最先端文化としてやってきた ~飛鳥時代

日本に仏教が伝わったのは、宣化(せんか)天皇治世の538年と欽明(きんめい)天皇治世の552年、2説いずれかの頃であると考えられています。

欽明天皇を継いだ推古(すいこ)天皇の治世に、まず日本最初の仏教寺院である法興寺(ほうこうじ、現・飛鳥寺は後身)が蘇我馬子によって建立されます。同じころ聖徳太子は法隆寺や四天王寺を建立し、日本仏教は皇族や有力豪族などごく限られた階層の人たちから浸透し始めます。


飛鳥寺

この頃の仏教には宗派という概念はありません。宗教上の考え方の違いを論じるほど教えについての情報があるわけではなく、理解も進んでいなかったからです。宗教というよりも、先進国の中国や朝鮮半島の最新の文化や技術を、仏教を通じて吸収する側面の方が強かったと考えられます。

百済は日本との友好関係を通じて朝鮮半島内でのプレゼンスを高めるため、日本への技術者の派遣に積極的だったと考えられています。その派遣のきっかけとして、寺の建設は相互にとても都合がよかったことでしょう。

【Wikipediaへのリンク】 仏教公伝


2)国家運営に必要な「学問」として浸透 ~奈良時代

奈良時代でもまだ、多くの人々に布教するよりも、中国から伝わった様々な宗派の教えを研究することが優先されていました。仏教の理解が国家の運営に何より必要だったのです。僧侶がとてつもない知識人となり、結果として平安遷都の要因になります。

宗旨 宗派 本山 所在地 本尊 住職名
法相宗 薬師寺 奈良市 薬師如来 管主(かんしゅ)
興福寺 奈良市 釈迦如来 貫主(かんしゅ)
【独立】 聖徳宗 法隆寺 奈良県斑鳩町 釈迦如来 管長(かんちょう)
北法相宗 清水寺 京都市東山区 千手観音 貫主(かんしゅ)
華厳宗 東大寺 奈良市 盧舎那仏 別当(べっとう)
律宗 唐招提寺 奈良市 盧舎那仏 長老(ちょうろう)


奈良時代に存在した宗派は「南都六宗」と呼ばれるように、6つありましたが3つしか現存しません。法相宗(ほっそうしゅう)は、660年頃に遣唐使として帰国した僧・道昭(どうしょう)が法興寺で教えを広めました。

中国ではその後華厳宗(けごんしゅう)が有力になり、日本には736年に遣唐使僧が持ち帰ります。現在華厳宗傘下の著名寺院(山内塔頭除く)には、奈良の帯解寺・新薬師寺・安部文珠院、防府の阿弥陀寺があります。

律宗(りっしゅう)は753年に鑑真がもたらしました。現在律宗傘下の著名寺院には、京都の壬生寺・法金剛院、生駒の竹林寺があります。従来は末寺がたくさんありましたが、現在その多くは、鎌倉時代に叡尊(えいそん)が真言宗の教えを律宗に融和させた真言律宗になっています。

【公式サイトの画像】 法隆寺 釈迦三尊

奈良時代までに建立された寺の本尊は釈迦如来が中心です。仏教の開祖である釈迦をあがめるという、最もベーシックな信仰です。東大寺の大仏で知られる盧舎那仏(びるしゃなぶつ)は宇宙の王者のような存在で、釈迦も盧舎那仏のおかげで悟りを開くことができたとされています。そのため毘盧遮那仏を本尊とする寺院も釈迦をあがめるという基本は同じです。

現在では表のように、寺ごとに宗派がわかれており、一つの寺で複数の宗派を信仰することはほとんどありません。現代人にとってはごく当たり前ですが、そうなったのはおおむね明治になってからです。奈良時代には一つの寺で六宗すべてを教えていることも珍しくありませんでした。

平安京遷都時に移転を許されなかった南都の寺は、その後も学問寺として運営されました。中でも藤原氏の庇護を受けた興福寺は大和国の荘園のほとんどを支配するようになり、鎌倉・室町幕府は大和国だけ守護(国の支配者)を置かなかったほどです。この強固な経済基盤が、南都北嶺と呼ばれた比叡山との対立や大和国の事実上の支配者としての地位を着実にしていました。

南都六宗の寺院の学問寺としての性格は現代まで続いています。檀家を持たず、葬式も行いません。そのため修学旅行の受け入れや写経といった観光収入の確立に積極的な寺院が多いことが特徴です。寺の説明には充分な経験を積んでいる僧侶も多く、居眠りする人はまったくいないほど話上手です。

またいずれの寺院も奈良時代からあるだけに、仏像や建造物は国宝だらけです。1,200年もの間、これほどの数の文化財を伝えてきた地域は、世界中でも奈良しかないでしょう。

【Wikipediaへのリンク】 法相宗
【Wikipediaへのリンク】 華厳宗
【Wikipediaへのリンク】 律宗

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伽藍を構成する堂宇の役割:美術鑑賞用語のおはなし

2018年05月16日 | 美術鑑賞用語のおはなし



お寺の伽藍には様々な建物があり、実に多様な名前が付けられています。そのネーミングは建物の役割と密接な関係があります。建物や内部空間を参拝・鑑賞するにあたっては、名前の意味を知っておくと理解の幅が大きく広がります。お寺の建物の役割についてお話ししたいと思います。

なお寺によっては長い歴史の中で、本堂や講堂のような重要な堂宇が失われ、再建されないままになっているところも珍しくはありません。この場合は、失われた堂宇の役割を現存する堂宇で担っています。


本堂(金堂・中堂・仏殿・大雄宝殿)

寺にとって最も大切な、信仰の対象である本尊(ほんぞん)を安置し、祈りをささげる堂宇のことです。本堂(ほんどう)は時代・宗派に関わらず最も一般的に用いられる名称です。

金堂(こんどう)は、平安時代前半までに創建された古代寺院に多い名称です。この頃の仏像はほぼ金箔で覆われていたことが金堂という名称の由来になったと考えられています。中堂(ちゅうどう)は、延暦寺など天台宗山門派で用いられます。仏殿(ぶつでん)は禅宗の臨済宗・曹洞宗で用いられ、黄檗宗では大雄宝殿(だいゆうほうでん)と呼びます。

本堂は最も大切な堂宇であるがゆえに、多くの寺では最大の建造物になっています。

興福寺のように金堂が3つあった寺院もあります。また室生寺や當麻寺のように、金堂と本堂が両方現存する寺もあります。中心的な信仰対象の並列や追加・変化に対応するためです。

【Wikipediaへのリンク】 本堂


内陣&外陣(正堂&礼堂)、須弥壇

本堂のような仏像を安置する比較的大きな堂宇の内部は、内陣(ないじん)・外陣(げじん)に分かれていることがよくあります。内陣は仏像を安置する須弥壇(しゅみだん)を中心に、僧侶が祈りをささげる神聖なエリアです。外陣は参拝者が本尊に祈りをささげるエリアです。


東大寺・法華堂、

参拝の便のため、外陣を後世に付け加えた建築も少なくありません。内陣部分を正堂(しょうどう)、外陣部分を礼堂(らいどう)と呼ぶ場合もあります。

【Wikipediaへのリンク】 内陣


講堂(法堂)

説教や経典の講義を行う堂宇のことです。現代の学校にある講堂(こうどう)に近い意味です。大人数を収容するため、金堂と同じかそれ以上に大きい場合もあります。禅宗寺院では法堂(はっとう)と呼びます。天井に描かれた円形の雲竜図は、随所で人気を集めています。

【Wikipediaへのリンク】 法堂



お寺の塔は、そもそもは仏教を開いた釈迦の遺骨やその代替物である仏舎利(ぶっしゃり)を収める堂宇です。層塔や多宝塔など様々な種類があります小型の石造の塔もたくさんあります

仏教伝来直後の飛鳥時代は、塔は金堂と並んで最も重要な堂宇でした。徐々に本尊を安置する金堂がより重視されるようになり、塔は寺のランドマークとしての役割が加味されていくようになります。

禅宗寺院にはほとんど塔はありません。塔に代わるランドマークとして、入口に堂々と建つ三門がその役割を担っているのかもしれません。

【Wikipediaへのリンク】 日本の仏塔


開山堂(祖師堂・御影堂)

いずれも寺や宗派を開いた僧をまつる堂宇です。開山(かいざん)とは、その寺を開いた初代の住職(管理責任者)のことです。祖師(そし)とは、その宗派を開いた僧のことです。

御影堂は開山・祖師の肖像彫刻・絵画を安置する堂宇です。一般的に「みえいどう」と読みますが、浄土真宗では「ごえいどう」です。浄土宗や浄土真宗では、本堂と並んで最も重要な堂宇に位置付けられます。

【Wikipediaへのリンク】 開山堂


太子堂、大師堂

いずれも寺にとって特に重要な人物をまつる堂宇です。漢字と発音が似ていますが、まつる対象は全く異なります。

太子(たいし)堂は、飛鳥時代のヒーロー・聖徳太子をまつります。法隆寺や四天王寺では、太子堂ではなく聖霊院(しょうりょういん)と呼びます。

大師(だいし)堂は、ほとんどが真言宗の開祖である弘法大師・空海をまつっています。天台宗の寺で、智証大師や元三大師をまつる堂宇を大師堂と称する場合もあります。真言宗の寺では、大師堂は御影堂(みえいどう)と呼ばれることがよくあります。

大師とは、朝廷による高僧への尊称の一つで、主にその高僧の死後に贈られます。開祖や中興の祖のような各宗派で最も尊敬される高僧に贈られており、あらゆる宗派に渡ります。しかし堂宇の名称になっているのはほぼ、真言宗と天台宗の寺に限られます。

【Wikipediaへのリンク】 太子堂
【Wikipediaへのリンク】 大師堂


仏像名+堂

阿弥陀堂・薬師堂・観音堂・釈迦堂・不動堂・大日堂・文殊堂・毘沙門堂など、安置されている仏像の種類の名称をそのまま付けた堂宇です。浄土真宗の阿弥陀堂ように、本堂として位置づけられている場合もあります。

死後の来世に極楽往生へ導いてくれる阿弥陀如来をまつる「阿弥陀堂」は、平安時代の浄土信仰の面影を伝える寺に数多く遺されています。平等院鳳凰堂に代表されるように、浄土庭園の幻想的な景観と相まって、荘厳なたたずまいを見せるものが少なくありません

【Wikipediaへのリンク】 阿弥陀堂


戒壇堂


大宰府・戒壇院

戒壇(かいだん)とは、正式な僧侶として厳しい仏教の規律を守れることを朝廷が認定する授戒(じゅかい)を行う場所のことです。

奈良時代に来日した鑑真は、仏教の規律をきちんと理解して授戒ができる高僧が日本にいなかったため、聖武天皇に招へいされました。奈良・東大寺、福岡・戒壇院、栃木・薬師寺の三か所に戒壇院が設けられ、国家による正式な僧侶としての認定が行われました。

その後最澄の尽力で延暦寺にも戒壇院が設置されますが、平安時代後期にかけて国家による戒壇は徐々に行われなくなっていきました。鎌倉時代以降は各宗派が独自に僧侶としての認定を行うようになります。

戒壇堂という名称の堂宇は、東大寺と延暦寺に現存しますが、いずれも江戸時代の再建です。

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鐘楼、鼓楼

鐘楼(しょうろう)は、梵鐘(ぼんしょう)、いわゆる釣り鐘を吊るし、時報や合図を告げるための堂宇です。一般的には大晦日の除夜の鐘の会場として知られています。

鐘ではなく太鼓を設置して時報や合図、緊急事態を告げた堂宇は鼓楼(ころう)と呼ばれます。城に設置されたものは太鼓櫓(たいこやぐら)と呼ばれます。

【Wikipediaへのリンク】 鐘楼
【Wikipediaへのリンク】 鼓楼


経蔵

経蔵(きょうぞう)とは、経典・書物を収蔵する堂宇です。校倉造の高床式倉庫や、八角形の回転する書架に収めた輪蔵(りんぞう)があります。

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僧堂(禅堂)

僧堂(そうどう)とは、僧侶が修行する堂宇のことです。主に禅宗寺院にあり、中国風を重んずるため床は土間です。座禅や食事が行われます。臨済宗では食事は食堂(じきどう)で行うのが一般的であり、僧堂を禅堂(ぜんどう)と呼びます。中国式にのっとった禅宗伽藍では、法堂の西側(向かって左)に主に設けられます。

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僧房(僧坊)

僧房(そうぼう・僧坊)とは、寺における僧侶の住居のことです。寺院を構成する堂宇の中では、塔と並んで最も古い形態です。奈良時代までは講堂の東西(向かって左右)や北側(向かって上)に設けられることが一般的でした。

奈良・元興寺に奈良時代の僧房を鎌倉時代に改築した本堂が現存しています。平安時代以降は、大規模な僧房の建設は少なくなります。

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本坊

本房(ほんぼう)とは、複数ある僧房の中で中心的な建物を指します。現代では僧侶の住居ではなく、寺の管理オフィスである寺務所(じむしょ)として使われる例が多く見られます。


食堂

「じきどう」と読みます。その字の通り僧侶が食事をとるレストランのことです。奈良時代までは講堂の東側(向かって右)や北側(向かって上)に設けられることが一般的でした。平安時代以前の食堂で現存するものはありません。



庫裏(庫院)

「くり」と読みます。寺の食事を用意するキッチンのことです。庫院(くいん)と呼ぶ場合もあります。現代では僧侶の住居や寺務所(じむしょ)として使われる例もあります。中国式にのっとった禅宗伽藍では、法堂・方丈の東側(向かって右)に主に設けられます。

【Wikipediaへのリンク】 庫裏


東司


一休寺・東司

「とうす、とんす」と読みます。トイレのことです。中国式にのっとった禅宗伽藍では、三門の西側(向かって左)に主に設けられます。

禅宗寺院では、寺を構成する主要な堂宇である七堂伽藍の一つに含めているところもあります。トイレではありますが、驚きです。生物の最も基本的な営みとして、食物の摂取と新陳代謝後の排泄を重視しているのでしょう。雪隠(せっちん)と呼ぶ場合もあります。

京都の東福寺や一休寺の東司は、重要文化財のトイレとしてよく知られています。もちろん実際に使用してはいけません。

【Wikipediaへのリンク】 東司


浴室

その字の通り、風呂のことです。湯屋(ゆや)とも言います。中国式にのっとった禅宗伽藍では、三門の東側(向かって右)に主に設けられます。

古来は、サウナのように蒸気を浴びる入浴方法でした。現代のように湯船につかる入浴方法は、天然の温泉以外では、鎌倉時代に東大寺を復興した重源が中国からもたらしたのが最初と考えられています。東大寺や山口・阿弥陀寺にその遺構が見られます。


草庵

草庵(そうあん)とは、人里離れたところに設けた小さな建物で、俗世間から隠遁した知識人や修行僧の生活の場のことです。草ぶき屋根の粗末な庵(いおり、小屋のように小さい建物)が語源です。

おおむね室町時代まで見られます。安土桃山時代以降は隠遁・修行する場ではなく、市中に設けられた茶室の様式として用いられるようになります。

【Wikipediaへのリンク】 草庵


方丈

方丈(ほうじょう)とは、主に禅宗寺院の責任者である住職の住居のことです。塔頭のような小規模な寺では本堂を兼ねることも一般的です。

元来は1丈(約3m)四方の小さな草庵のことを指していました。鎌倉時代の著名な随筆である鴨長明の「方丈記」は、こうした草庵で執筆されたことで名付けられました。

【Wikipediaへのリンク】 方丈

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