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美の殿堂ものがたり「コート―ルド美術館」_ロンドンにこんな美術館があったのか

2019年09月15日 | 美の殿堂ものがたり

「コートールド美術館」と言うと、日本ではあまり聞きなれないでしょう。ロンドンにある私立美術館で、印象派とポスト印象派のコレクションでは世界トップクラスの質を誇ります。東京都美術館で現在行われているコートールド美術館展で、日本でもその実力が広く知られることになると思われます。

  • 1920年代の一大コレクター、サミュエル・コートールド
  • イギリス人は当初、印象派に興味を示さなかった
  • 美術の研究機関としても現在は世界有数


世界有数のコレクションを築き上げたサミュエル・コートールドの高潔さと、美術館の実力を紐解いてみたくなりました。



テムズ川とサマセット・ハウス

コートールド美術館(Courtauld Gallery)は1932年に設立され、現在はシティとウェストミンスター寺院のほぼ中間にある、テムズ川沿いのサマセット・ハウスにあります。サマセット・ハウスはロンドンの著名な歴史的建築の一つで、広場に設けられるアイススケート・リンクが冬の風物詩になっています。

【美術館公式サイト Virtual Tour】 館内の様子 Room6

私は10年ほど前に訪れたことがあります。欧州の美術館ならではの重厚な室内空間に、驚きの名品がずらりと並んでいたことが印象に残っています。コートールドなる人物が世界有数のコレクターであると強く記憶に残りました。


1920年代の一大コレクター、サミュエル・コートールド

サミュエル・コートールド(Samuel Courtauld)は1876年生まれのイギリス人で、家業の繊維業を20c初頭に発展させ、レーヨン製造で巨万の富を築きました。美術品購入は1922年から妻・エリザベスと共に始め、1929年までの短期間で超一級のコレクションを築き上げました。

サミュエルは1932年、イギリスにはまだなかった美術に特化した研究機関の設立構想に賛同します。この際に設立されたのがコートールド美術研究所で、現在のコートールド美術館はこの研究所の付属機関です。

サミュエルは、研究所設立にあたってコレクションの寄贈/寄付/自宅の提供と全面的な援助を行い、設立の最大の功労者として研究所と美術館に彼の名が付けられることになります。

サミュエルの自宅は当時、ロンドンでも指折りの住宅建築の傑作ホーム・ハウスにありました。ロンドン社交界を代表するサロンとして知られていたホーム・ハウスは、コート―ルド夫妻が愛してやまなかった芸術空間でした。サミュエルは研究所設立の前年に妻を亡くしており、自宅の提供は美術と音楽を愛してやまなかった妻を追悼する思いが込められていたようです。

サミュエルは研究所設立の後、蒐集は行わなくなりましたが、1947年にこの世を去るまで、芸術団体やナショナル・ギャラリーのような美術館への支援を続けます。芸術を愛し、芸術が社会を向上させると信じた彼の高潔さは、イギリスの美術界に深く根付いていきます。



コート―ルド美術館の展示室

【所蔵者公式サイトの画像】 ルーベンス「ヤン・ブリューゲル(父)の家族」コート―ルド美術館

コートールド美術館はサミュエルが蒐集した印象派とポスト印象派の作品以外にも、バロックやルネサンス期のオールドマスターの名品を数多く所蔵しています。ルーベンスの「ヤン・ブリューゲル(父)の家族」は館を代表するオールドマスターの名品です。とても完成度の高い肖像画です。

これらはサミュエルの高潔さに心を打たれたコレクターたちが寄贈したもので、現在もコートールド美術館のコレクションは寄贈により拡大を続けています。


イギリス人は当初、印象派に興味を示さなかった

サミュエルが蒐集した印象派とポスト印象派は、意外なことに当時のイギリスではあまり関心を持たれていませんでした。サミュエルは硬直化した考え方を嫌う人物だったようです。印象派とポスト印象派の価値にいち早く気付いたことが、彼の蒐集心に火をつけます。

サミュエルが印象派とポスト印象派に関心を持つようになったのは、1917年にロンドンのナショナル・ギャラリーで開かれた展覧会がきっかけでした。アイルランド人の蒐集家ヒュー・レーンが寄贈したコレクションの展覧会で、サミュエルは印象派の明るく柔らかい表現に魅せられます。

【所蔵者公式サイトの画像】 ルノワール「傘」ロンドン・ナショナル・ギャラリー

レーンのコレクションの代表作、ルノワール「傘」はフランスの明るい光が見事に表現されています。サミュエルは、晴天の少ないイギリスでは体感しにくい描写に興味を持ったのでしょう。ヒュー・レーンはイギリスで数少ない印象派を評価したコレクターでした。レーンの印象派コレクションは、現在もロンドンのナショナル・ギャラリーを代表する名品として観る者を魅了し続けています。

【所蔵者公式サイトの画像】 ゴッホ「ひまわり」ロンドン・ナショナル・ギャラリー
【所蔵者公式サイトの画像】 スーラ「アニエールの水浴」ロンドン・ナショナル・ギャラリー

サミュエルはナショナル・ギャラリーにコレクションの寄贈はしていませんが、巨額の寄付を行っています。この寄付で購入されたのが、ゴッホ「ひまわり」やスーラ「アニエールの水浴」といった超一級の作品です。



トラファルガー広場

サミュエルは欧州の美術の潮流にイギリスが乗り遅れていると危機感を抱いていました。国家を代表する美術館が印象派やポスト印象派の名品を所蔵することで、イギリス美術界に刺激を与えたかったのでしょう。

名声を高めたサミュエルの下に、有力な画商から一級品の売立ての話が舞い込んでくるようになります。サミュエルの高潔さがなければ、ルノワール「桟敷席」やマネ「フォリー=ベルジェールのバー」といった超一級品の売立て情報が入らず、決して入手できなかったでしょう。

日本の松方幸次郎もその一人ですが、20c初頭は印象派やポスト印象派の人気が急速に高まった時代で、作品も高騰を続けていました。特に、経済力では世界一になったアメリカのコレクターの財力はすさまじく、多くの名品が大西洋を渡っていました。そんなとてもライバルの多い時代にあって、サミュエルの蒐集力には驚愕します。彼の高潔さに画商たちがほれ込んだのでしょう。

サミュエルの蒐集数は60点ほどと決して多くないですが、何より一級品が揃っていることに目を見張ります。審美眼にも感服します。


美術の研究機関としても現在は世界有数

コートールド美術研究所とコートールド美術館は、ホーム・ハウスが手狭になったこともあり1958年に移転、1989年から現在のサマセット・ハウスに入居しています。美術研究所は世界有数の美術の専門研究機関となり、世界中の美術館の館長を多数輩出していることでも知られています。サミュエルの理念は現代も多くの美術関係者の心の中に生き続けています。

美術研究所のホームページには、世界40か国から集まる学生に対し、Brexitの影響を説明するFAQが掲載されていました。Brexitがどう落ち着くかに関わらず、研究機関や美術館の活動に影響を与えることのないよう願ってやみません。

今年2019年9月から来年2020年6月まで、コートールド美術館が所蔵する印象派とポスト印象派の一級品のほとんどが、東京→名古屋→神戸と巡回する展覧会にやってきます。コートールド美術館が約2年間の改修休館の機会を活用したもので、ほぼ一生に一度しかない機会になります。

2020年秋にはリニューアル・オープンする予定です。コートールド美術館を観るために、ロンドンまでわざわざ足を運ぶ価値があります。ナショナル・ギャラリーのあるトラファルガー広場や大英博物館にも歩いて10分ほどの距離です。間違いなく”記憶に残る”旅になるでしょう。



こんな美術館があったのか

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<イギリス ロンドン市>
コートールド美術館
【公式サイト】https://courtauld.ac.uk/gallery(英語)

※改修工事により2018年9月~2020年秋ごろまで休館中です。




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美の殿堂ものがたり「北京の故宮」_巨龍・中国の美意識がここに凝縮

2019年07月21日 | 美の殿堂ものがたり

近年は日本各地で中国美術の展覧会が増えています。中国の文化に対する関心もおのずと高まってきたと感じていた折、久々に北京を訪れる機会がありました。歴史スポットが見逃せない私にとって、あらためて北京という都と故宮(紫禁城)という宮殿の歴史を再学習してみました。

  • 何と言っても世界最大の宮殿、いつ訪れても中国文化のスケールの大きさに度肝を抜かれる
  • 19c以降の動乱や戦災による破壊を免れた強運の持ち主、清朝時代の空間美がそのままのこる
  • 巨龍・中国の悠久の文化を体験するにはまさにここしかない


北京の故宮にあった一級の文化財の多くは台北の国立故宮博物院に移されているとはいえ、北京の故宮は中国文化の粋が凝縮された建築空間であり、現代まで奇跡的に生き残ってきました。かけがえのない空間という表現は、まさに北京の故宮にふさわしいでしょう。


故宮の入口・午門

故宮とは”昔の宮殿”という意味の通称で、1925年に博物館として一般公開されて以来、定着し始めた表現です。一方紫禁城(しきんじょう)とは、現役の宮殿として使われていた清代の名称です。「紫」は中国の天文学で世界の中心にあって、天子(=皇帝)になぞらえた北極星を表す「紫微星」に由来し、「禁」は自由に立ち入ることができないエリアであることを意味します。

現在の故宮は、堀に囲まれた有料観覧エリアで南北960m×東西750m、面積72.5万平米の大きさです。日本の天皇の宮殿にあたる京都御所の内裏部分は、築地塀に囲まれた有料観覧エリアで南北450m×東西250m、面積11.2万平米です。徳川将軍の居城であった江戸城の本丸・二の丸・三の丸に相当する、一般公開されている皇居東御苑の面積は21万平米です。紫禁城のスケールの大きさはケタ違いであることがわかります。


都としての北京の歴史は中国では新しい

北京の街が歴史に登場するのは、紀元前3-4c頃、秦の始皇帝が中国を統一する前の春秋戦国時代に北京周辺を支配していた燕(えん)が都をおいていた時代です。古代中国の都であった洛陽や長安から見ると北の辺境に位置するため、永らく統一国家の都とは認識されず、北方遊牧民族に対する前線基地や満州や朝鮮半島との貿易の拠点に過ぎませんでした。

北京が初めて統一国家の都となったのは、1271年に元の初代皇帝クビライが「大都(だいと)」としてモンゴルから都を移した時です。大都の市域や宮殿の位置は現在とほぼ重なります。

大都は元にとってはモンゴルとの往来に便利であり、天津や江南地方とつながる運河を通じて物資が集積しました。世界的な大都市として繁栄し、ヴェネツィアのマルコ・ポーロやモロッコのイブン・バトゥータがやってきたのもこの頃です。大都の繁栄はヨーロッパやアラブ社会まで轟いていたと考えられます。

元による中国の支配は南京を都とした明に追われて1368年に終わり、大都は北平(ほくへい)と改称されます。明の3代皇帝・永楽帝(えいらくてい)は、皇帝になる前に自らの本拠地としていたこともあり、北方遊牧民族ににらみを利かし、国内流通網も整備された北平を北京と改称し、1403年に南京から都を移します。明に続く清朝も本拠地の満州に近いこともあり、引き続き北京を都とします。

永楽帝は元代の宮殿を完全に破壊した跡地に、1406年から15年かけて新宮殿を造営します。これが現在に至る紫禁城です。清も明代の建物を引き続き使用しましたが、木造建築であるため頻繁に火災に見舞われ、現在の建物はほぼ清代に再建されたものです。

こうして北京は元が都と定めて以来、現在に至るまでの約750年間、明代の初めや近代の混乱期を除いて一貫して中国の都であり続けます。三千年を超える悠久の中国の歴史の前半は、長安や洛陽といった中国大陸の中心部に都を置き、後半は北京が一貫して都となります。


紫禁城内の敷地を区画する城壁も巨大


紫禁城の建物と美術品は数奇な運命をたどった

中国は、王朝が変わると先代の遺物を徹底的に破壊して痕跡をなくすことが多く、動乱による破壊も少なくありません。北京は明初の破壊と19c以降の列強支配による動乱の二度、以前の建造物が多く破壊されています。1860年に英仏軍によって破壊された中洋折衷の離宮・円明園はその喪失の代表例です。

円明園が破壊されたアロー戦争時と1900年の義和団の乱の二度、紫禁城は列強によって占領されますが、幸運にも建物の破壊は免れます。皇帝の居住エリアにはさすがに列強も手を出さなかったのでしょう。

一方美術品など持ち運びのできる文化財は、列強による略奪や資金捻出のための皇族からの売立てで19c末から散逸が始まります。現在の台北の故宮博物院にある美術品は当初、日本軍による破壊と略奪を避けるために内陸部に疎開させたものです。第二次大戦後の国共内戦時には南京にあったため、蒋介石によって台湾へ運ばれたものです。

しかし台湾に運んだ美術品は全体の1/3ほどで、大陸にのこされた美術品が北京の故宮と南京博物院の2か所に分蔵されています。紫禁城は建築としてのスケールはもちろん、美術品のスケールもケタ違いの質と量があったのです。


緑が豊かなエリアも


天安門、巨大過ぎて日本人には門に見えない

紫禁城の正門というと、南側の中心にあって、北京のみならず中国のランドマークにもなっている天安門を思い浮かべますが、厳密には違います。紫禁城の正門は天安門の真北にあって、有料エリアの故宮博物院の入口になっている午門(ごもん)です。

天安門は紫禁城を取り囲む「皇城」エリアの正門ですが、明清時代から法律の発布や軍隊の謁見が行われており、現在と同じく事実上の紫禁城の正門と位置付けられます。

なお天安門は明の永楽帝が造営した際は「承天門」と呼ばれていましたが、清代初めに再建された際に「天安門」と改称されています。他にも紫禁城内の建物の名称はよく変更されています。最も中心的な太和殿(たいわでん)も、造営当初の「奉天殿」から明代に「皇極殿」、清代初めに「太和殿」と2度改称されています。

天安門も午門も、門というよりも日本の奈良の大仏殿のような巨大建造物に見えます。見る者を圧倒するスケールの大きさは門からして違います。午門も天安門も登ることができます。天安門からはテレビニュースでよく目にする中国共産党の指導者と同じ目線で天安門広場をのぞむことができます。

現在の天安門はこうした中国政府の重要行事に用いるためでしょう、清代初めからの経年劣化のために1970年に建て替えられたものです。また観光客の目やテレビ写りも意識しているのでしょう、天安門の中央に掲げられた毛沢東の巨大な肖像画も約10年毎に新調されています。確かに南面する屋外に設置された肖像画としては、びっくりするほど日焼けすることなく、顔の艶が輝いています。


紫禁城の中は現在も別世界

午門から入場すると白い大理石が敷き詰められた巨大な広場が目に飛び込んできます。このパノラマを見た瞬間、誰もが禁じられたエリアに入ったと感じます。正面に見える巨大建造物は太和門(たいわもん)で、紫禁城の中心である太和殿はその先にあります。皇帝の即位式を行い、日本の平城宮跡の大極殿、京都御所の紫宸殿に相当する建物です。

太和殿は中和殿・保和殿と合わせて三殿と呼ばれ、最重要な国家行事や儀式が行われたエリアです。清代に文化活動や学問を行う場として利用された三殿の東西のエリアとあわせ、外朝(がいちょう)と呼ばれています。


1987年公開 映画「ラストエンペラー」日本版劇場予告 YouTube 動画

映画「ラストエンペラー」で、太和殿前の広場を埋め尽くした臣下が溥儀の皇帝即位式にのぞむシーンが思い出されます。紫禁城のイメージを象徴する場面として、今も世界中の人々の記憶に焼き付いています。

現在の太和殿は1697年に再建されたものですが、以前の約半分の大きさに縮小されています。再建した清朝4代・康熙帝(こうきてい)は、中国歴代最高の名君と呼ばれる善政で知られています。皇帝の即位式などで権威を見せつけるために巨額の費用を割くのは賢明ではないと考えたのでしょう。


白い基壇に比べて太和殿が小さいのは縮小されたため

半分に縮小されたとはいえ、太和殿は幅64m奥行37m高さ27mで現在も中国の木造建築としては、最大です。江戸時代に再建された奈良の東大寺大仏殿は幅57m奥行50m高さ49mで、創建当初は幅が86mありました。太和殿の再建前のサイズは調べられませんでしたが、現在の2倍の大きさから逆算すると、創建当初の奈良の大仏殿を上回るスケールだったと推測されます。


落ち着いた内廷、趣は外朝とはうって変わる

三殿から北側が外朝に対し内廷(ないてい)と呼ばれ、清代には皇帝の日常的な政務や、皇帝や后の住居として使われたエリアです。外朝に比べ柔和なデザインで小振りの建物が多くなります。敷地は細かく区切られており、いずれも高さ10mほどの巨大な壁に囲まれています。

居大な壁を見ると感じることがあります。中で暮らしていた”特別な人たち”は、きわめつけの優雅な生活をおくれた半面、監獄のように閉ざされた空間から自由に出られないという”掟”に従わなければなりません。皇帝であっても自由に出ることはできません。

日本の天皇や将軍もしかり、古今東西の権力者に共通の”掟”ですが、紫禁城は何と言ってもそのスケールが違います。壁の高さはそのスケールを象徴しています。

19cには”眠れる獅子”、21cには”巨龍”と呼ばれる超大国の美意識が、まさにここに凝縮されています。



溥儀の家庭教師ジョンストンが見た禁じられたエリア
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故宮博物院
【公式サイト(英語)】https://en.dpm.org.cn/


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美の殿堂ものがたり「国立西洋美術館」_いつ見ても素晴らしい常設展の秘密

2019年06月16日 | 美の殿堂ものがたり

東京・上野の国立西洋美術館、通称:西美(せいび)は、広大な上野公園の中でも最寄りのJR上野駅公園口から最も近いところに位置することもあり、上野のミュージアム群の”顔”のような存在になっています。今年2019年で早くも開館60周年を迎え、美術館設立のきっかけとなった松方コレクションの展覧会が現在華やかに行われています。

  • 各時代を俯瞰する質の高いオールドマスター西洋絵画を、日本有数の常設展でいつでも鑑賞できる
  • 数奇な運命をたどった松方コレクションの安住の地となり、松方幸次郎の夢が形を変えて実現
  • 本館はコルビジェ建築として2016年に世界遺産に登録、展示空間そのものも楽しめる


コレクションが散逸せずにのこされる価値を伝えてくれる、日本でも数少ない美術館です。設立の経緯にさかのぼって、西美の魅力を探ってみたいと思います。


本館2F 常設展示室、光の美しさが素晴らしい

国立西洋美術館は、10,000点を超える膨大な松方コレクションの中で最後にのこった約400点の作品を展示する施設として、1959(昭和34)年6月10日に開館しました。大正から昭和にかけて欧州でその名を轟かせた一大コレクター・松方幸次郎のコレクションの名品の安住の地が日本となったことは、かけがえのない強運でしょう。

松方幸次郎は経営していた川崎造船所、現在の川崎重工業の前身の経営が傾いたことで、多くのコレクションを手放さざるを得なくなります。自らのコレクションを「共楽美術館」を建設して公開する夢を持っていましたが、実現することなく失意のうちに1950(昭和25)年にこの世を去ります。

死の翌年、松方の夢は大きく動き出します。


フランスからの寄贈返還交渉の成立は、当時の日本に勇気を与えた

1951(昭和26)年のサンフランシスコ平和条約締結の際に、フランスに保管されていたため敵国資産としてフランス政府に没収されていたコレクションの返還を日本側から働きかけ、フランス政府が条件付きで応じます。「専用の展示施設を建設」「一部作品は寄贈返還から除外」がその条件です。

日本は敵国であり、敗戦の痛手から立ち直っておらず、大切な美術品をきちんと保管できるかもわかりません。フランス政府の決断は、当時の日本の美術界や国民に大きな勇気を与えたことでしょう。

専用の展示施設の建設財源の確保に国は苦労しますが、当時の洋画家たちの協力もあって寄付金を集めることに成功します。設計も巨匠建築家のル・コルビュジエに依頼することになり、フランス側も満足できる美術館に仕上がったのが、現在常設展示室として使用されている本館です。

【オルセー美術館公式サイトの画像】 ゴッホ「アルルの寝室」
【オルセー美術館公式サイトの画像】 ゴーガン「扇のある静物」

「一部作品は寄贈返還から除外」は、フランス政府が作品の質の高さから最後まで首を縦にふらなかったもので、約20点がオルセー美術館などに収蔵されています。ゴッホ「アルルの寝室」、ゴーガン「扇のある静物」はその代表作です。日本への寄贈返還に応じると国内で批判にさらされることを恐れたのでしょう。いずれも確かに素晴らしい名品です。

この2点は、現在2019年6月から約3か月間開催されている「松方コレクション」展にも出展されています。ある意味”里帰り”しているとも言えるでしょう。

【展覧会公式サイト】 西洋美術館「松方コレクション展」


西美館内の松方コレクションの解説パネル

ル・コルビュジエの当初の設計案では、劇場なども含まれていましたが財政難で見送られています。その劇場の建設構想は国ではなく東京都が受け継ぎます。ル・コルビュジエとともに西美を設計した前川國男の設計により、西美開館の2年後に向かいの敷地に「東京文化会館」としてオープンします。外壁のデザインを西美と同じテイストにするなど、西美と調和のとれた美しい空間が、現在も訪れる人を和ませています。


西美は60年の間、成長を続けた

松方コレクションはフランス近代絵画が多かったこともあり、西美では西洋美術史の流れを俯瞰できることを開館当初から目指していました。近代以前からルネサンス期にさかのぼる「オールドマスター」作品の購入と寄贈受け入れを続けており、松方コレクション370点だけで開館した所蔵品は、現在4,000点を超えるまでに増加しています。

【西洋美術館公式サイト】 館内地図

展示スペースの確保のため1979(昭和54)年に、現在19c以降の作品や版画・素描作品の常設展示室となっている新館がオープンします。本館の裏、北隣の国立科学博物館との間です。展示スペースは2倍になり、この時から特別展開催時であっても松方コレクションは常設展示されるようになります。

1997年にはロダンの「カレーに市民」「考える人」の屋外ブロンズ彫刻が設置されている本館前の前庭の地下に企画展示室がオープンします。以降大型の特別展の会場となり、新館も現在のような常設展示スペースになります。


本館1F 常設展示室入口「19世紀ホール」

ル・コルビュジエ建築は、外観では建物1Fにピロティがあり、正面のデザインはフラットでシンプルなことが特徴です。上階の建物を柱で支えて吹き抜け空間を造るピロティは、人が集まる”広場”のような効果があり、その建築を敷居が高いようには見せません。


展示室内空間こそコルビジェのマジックが楽しめる

室内は自然採光の取入れと自由な壁の配置が特徴です。常設展示室入口「19世紀ホール」は吹き抜けの大きな空間で、自然採光がとても温かい趣を醸し出しています。壁にそって設けられた2F展示室へ上がるスロープは、「19世紀ホール」の展示作品を立体的に鑑賞させるとともに、2F展示室にも非日常空間が広がっていることをワクワクさせます。

2F展示室も自然採光が美しい展示室になっています。空間を楽しむことを意図したのでしょうか、住宅のロストのような中3Fが設けられていますが、現在は使われていません。小作品の展示室として小さな空間にしましたが、現在では狭すぎて使いにくいととらえられています。

しかしこの中3Fがあることで、2F展示室は天井の低いところと高いところが混在し、とても非日常性を感じさせる空間なっています。天井が低いと言ってもル・コルビュジエは、平均的な西洋人男性が手を伸ばした高さである226cm設けてあり、圧迫感はありません。この人体を基準とした建築サイズの取り方をル・コルビュジエは「モデュロール」と呼び、西美本館でも随所に採用されています。

空間デザインに奇抜さを感じることがあっても、落ち着きを感じさせるのは、「モデュロール」には「黄金比」のような人間に美しいと感じさせる効果があると考えられているためです。


2019年は西美”本気”の展覧会が続々

2019年は、近年まれにみる西美らしい展覧会が目白押しだと私は感じています。2月からは開館60周年記念展第一弾として松方幸次郎と並ぶ館で最も尊敬すべき人物を取り上げた「ル・コルビュジエ 絵画から建築へ―ピュリスムの時代」が行われていました。同時並行で、西洋で初めて活躍した美術商「林忠正 ―ジャポニスムを支えたパリの美術商」も開催したことは、とても西美らしい企画です。

開館60周年記念展は9月上旬まで行われる現在の「松方コレクション展」で終了しますが、10月からは「ハプスブルク展」、2020年3月からは「ロンドン・ナショナル・ギャラリー展」が行われます。

【展覧会公式サイト】 ハプスブルク展

「ハプスブルク展」は欧州有数の美術館・ウィーン美術史美術館が所蔵するハプスブルグ家のコレクションが大挙来日します。プラド美術館に次ぐベラスケスのコレクションが最大の目玉です。

【展覧会公式サイト】 ロンドン・ナショナル・ギャラリー展

「ロンドン・ナショナル・ギャラリー展」は館外貸し出しをしないことで有名な大英帝国の美の殿堂から、ゴッホのヒマワリを始め教科書クラスの大作が続々来日します。これだけの規模の所蔵作品展は世界初です。

こうした”すごい”企画展を見に地下の企画展示室を訪れた後は、本館と新館の常設展示室も必ず行きましょう。もちろん企画展を見る”前”でもOKです。西美の企画展はほとんどが常設展示も一緒に鑑賞できます。

西洋絵画史を俯瞰できる西美の常設展示は、間もなく新装オープンする東京・京橋のアーティゾン(旧:ブリヂストン)美術館、倉敷の大原美術館とともに、何回訪れても素晴らしいと思える見事な常設展示なのです。


西洋美術鑑賞は怖くない

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<東京都台東区>
国立西洋美術館
【公式サイト】https://www.nmwa.go.jp/


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美の殿堂ものがたり「大覚寺」_京都の王朝文化は御所だけにあらず

2019年05月18日 | 美の殿堂ものがたり

京都・嵯峨野・大覚寺(だいかくじ)は、平安時代から風光明媚な地で知られた嵯峨野を代表する古刹で、皇室とのゆかりの深さも京都では有数です。平安貴族が愛した庭池が現存し、王朝文化が華やいだ建物空間に見事に調和しています。

  • 皇族が住職となる数ある京都の門跡寺院の中でも、歴史と格式はトップクラス
  • 月見で有名な大沢池と借景の山の風景は、高い建物がなく、平安時代からさほど変わっていない。
  • 狩野山楽の襖絵で飾られた室内空間は、桃山時代の王朝文化を直に伝える
  • 嵯峨天皇が始めた華道・嵯峨御流の発祥の地、随所で見かけるいけ花は大覚寺の品格そのもの


建物の内部に立ち入れない京都御所や桂離宮とは異なり、大覚寺は室内の鑑賞が常時可能です。京都の皇室の室内空間を最も身近に体感できるのが大覚寺です。今に至る大覚寺の美の蓄積の歴史から、美しい理由を探ってみたいと思います。


式台玄関 菊の御門

嵯峨野は平安貴族が目を付けた最初の別荘地

平安遷都から間もない810(弘仁元)年、桓武天皇の第二皇子の嵯峨天皇が、兄の先代天皇・平城(へいぜい)上皇が起こした薬子(くすこ)の変を鎮圧します。平安京に平和が訪れ、空海を重用し中国文化の導入に努めたことで、平安初期の天皇を中心とした政治体制の礎を築きます。

早くから嵯峨野に別荘・嵯峨院を造営していた嵯峨天皇は、833(天長10)年に嵯峨院を御所として移り住み、院政を行います。この嵯峨院が大覚寺の起源であり、大沢池は、中国の著名な景勝地として知られていた洞庭湖を模してこの際に造られた、日本最古の庭園の林泉(りんせん、森と池)です。

嵯峨天皇崩御後の876(貞観18)年、皇女の淳和天皇皇后が離宮を寺に改めたのが大覚寺の始まりです。


鎌倉時代は、大覚寺にとって古きよき時代だった

しばらく衰退していましたが、鎌倉時代半ばの1268(文永5)年、後嵯峨上皇が出家して大覚寺の門跡(もんぜき)となり、寺運が再び上昇し始めます。後嵯峨法皇は、崩御の際に最高指導者である治天の君(ちてんのきみ)を定めなかったため、後の南北朝分裂の要因となります。

後嵯峨法皇に可愛がられた亀山上皇も大覚寺門跡になりますが、亀山上皇は禅宗を好んだため南禅寺の建立に力を注ぐことになります。次の後宇多法皇も1307(徳治2)年に大覚寺門跡になり、嵯峨御所として本格的に大覚寺の復興を進めます。南朝方である亀山上皇の系統は「大覚寺統」と呼ばれるようになり、南北朝の争乱の幕を切って落とした後醍醐天皇は、後宇多天皇の第二皇子です。


いけばな嵯峨御流

鎌倉時代の半ばは、京都で王朝文化が花開いた時代でもありました。鎌倉幕府が将軍を公家や皇族から出してもらい、幕府との関係が親密であることをアピールするために、潤沢な財源をあてがったためです。

大覚寺以外にも今に伝わるかけがえのない空間が多く造られています。後嵯峨天皇は2か所の離宮、嵐山の「亀山殿」、東山の「禅林寺殿」を造営します。後に、亀山殿は足利尊氏によって天龍寺に、禅林寺殿は亀山法皇によって南禅寺に改められます。鎌倉時代初期の最高権力者・九条道家は東福寺の巨大伽藍を造営します。


南北朝時代以降も皇室との関係は続く

大覚寺は南北朝の戦乱で焼失しますが、徐々に北朝方の門跡によって再興されていきます。1392(元中9)年には、大覚寺で南朝方の後亀山天皇が「三種の神器」を北朝方の後小松天皇に継承し、南北朝合一の歴史的舞台となります。

戦国時代には荒廃しますが、安土桃山時代になると後陽成天皇の弟が門跡となり、再興が始まります。境内に現存する最古の建造物・重文の正寝殿(しょうしんでん)と狩野山楽の襖絵はこの時の再興によるものです。続く後水尾天皇の時代にも大覚寺の再興はさらに進みます。江戸時代を通じて親王の入寺が続き、京都有数の門跡寺院としての地位を確立します。


大覚寺から見る小倉山


御所の趣を色濃く残す伽藍

大覚寺の伽藍の中心は、真言宗では珍しく本堂ではありません。境内中央に勅使門~御影堂(みえどう)~勅封心経殿(ちょくふうしんぎょょうでん)が直線で配置されています。大覚寺の御所としての特別な趣を象徴しています。

御影堂は、大正天皇即位式で使用された建物を下賜されたもので、勅封心経殿は御影堂移築時に建てられたものです。現在の御影堂の地にあった本堂の五大堂は、この時に現在地の大沢池の西側に移築されました。

御影堂には開基・嵯峨天皇、開祖・弘法大師、中興の祖・後宇多法皇、淳和天皇皇子の開山・恒寂法親王の像を安置しており、さらに奥にある勅封心経殿を参拝する場所にもなっています。勅封心経殿には、嵯峨天皇をはじめとする歴代6天皇の直筆の般若心経が収められています。

御影堂の西側、玄関から近い方には重文の宸殿(しんでん)があります。後水尾天皇中宮の東福門院の御殿を移築したものです。北に隣接する正寝殿と並んで法皇や歴代門跡の執務室であったと考えられています。宸殿の内部は、狩野山楽と渡辺始興(わたなべしこう)の襖絵があり、正寝殿と共に王朝文化を間近で体験できる稀有な空間です。渡辺始興は狩野山楽より100年ほど後の絵師です。


大沢池で平安時代にタイムスリップ

大覚寺にしかない特別な趣は、大沢池からも強く醸し出されています。中央の御影堂の東に本堂に相当する五大堂(ごだいどう)があり、本尊の五大明王を拝します。真言密教にふさわしい、とても荘厳な空間にしつらえられています。旧本尊で重文の五大明王は霊宝館に移されており、年2回の企画展開催時にお会いすることができます

五大堂から池に張り出すように舞台が造られており、大沢池の絶景を一望できます。大覚寺周辺は現在も田畑が多く、建物はかなり少なめです。いにしえの趣を色濃く残しており、池の借景に見える山々の風景は平安時代とさほど変わらないでしょう。人口150万人の大都市・京都で、こんな風景は他にはまずありません。

大覚寺は著名な9月の中秋の名月鑑賞会「観月の夕べ」以外にも、様々な行事が行われています。伝統行事以外にもプロジェクションマッピングなども行われます。撮影のロケ地に使われることも多く、寺の資産を生かした魅力の発信にとても積極的です。

【大覚寺公式サイト】 季節の行事


大沢池 観月の夕べ

大覚寺は、いつも不思議に思うのですが、世界遺産の構成資産にはなっていません。京都はあまりに候補が多くあるため、国宝建造物/特別名勝のいずれかがある資産だけに限定されたためです。空間の美しさと積み重ねた歴史からは、世界遺産にふさわしい寺です。嵯峨野エリアでは交通の便はよくないですが、外国人観光客の多さがその美しさを世界が認めているのだと感じます。

もし世界遺産になったら、観光客が押し寄せすぎて困ってしまうのではと心配になります。


南朝はなぜ生きながらえることができたのか?

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<京都市右京区>
大覚寺
【公式サイト】 https://www.daikakuji.or.jp/

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葵祭ものがたり_王朝文化の殿堂の祭、町衆文化の祇園祭と双璧

2019年05月02日 | 美の殿堂ものがたり

京都三大祭りの一つ・葵祭(あおいまつり)は、平安装束を身にまとったとても優美な行列で、日本を代表する祭りの一つです。毎年5月15日に行われる行列は路頭の儀(ろとうのぎ)と呼ばれ、新緑が美しい京都の春を一層彩ります。路頭の儀の前にも流鏑馬など、前儀(ぜんぎ)と呼ばれる著名な神事が目白押しです。

  • 町衆のための祇園祭と共に、貴族のための祭りとして日本の歴史と文化を代表する祭
  • 平安時代始めから朝廷の公式行事として定着、王朝文化が色濃く伝わる行列は格別
  • 祭のヒロイン・斎王代(さいおうだい)は、伊勢神宮と賀茂社にだけ皇族から派遣された巫女
  • 公家装束で行われる流鏑馬(やぶさめ)と競馬(くらべうま)は、迫力と同時に雅さも楽しめる


京都三大祭りの中では、祇園祭と時代祭に比べ地味なイメージは否定できませんが、積み重ねた歴史と文化は最高峰です。祇園祭以上に著名な関連神事が多い祭でもあります。神事の意味や魅力を一つ一つ紐解いてみたいと思います。


斎王代

葵祭は、上賀茂神社と下鴨神社の両社で、最も大切な祭りである例祭(れいさい)です。石清水八幡宮・石清水祭と春日大社・春日祭と並んで三勅祭と呼ばれ、天皇が祭に使者を派遣する祭りの中でも最高格です。


朝廷による最高格の祭は、徳川家と不思議な縁もある

上賀茂神社と下鴨神社は京都最古級の神社であり、総称して賀茂社と呼ばれます。平安遷都以前から朝廷の崇拝を受けてきました。祭の起源は飛鳥時代までさかのぼると考えられています。京都の古い豪族・賀茂氏の氏神に五穀豊穣を祈った祭が、平安遷都後に国家行事となって「賀茂祭」と呼ばれます。賀茂祭は現在も葵祭の正式名称です。

平安時代には祭と言えば賀茂祭を指しました。祭の中の祭りであり、現在も行われているように朝廷の使者が両賀茂社にお供えを届ける形式をとっています。室町時代の応仁の乱の後、約200年間は祭りが行われていませんでしたが、元禄時代に5代将軍・綱吉の援助で復活します。復活の際に仕立てた衣装や用具をことごとく摘みたての新鮮な”葵の葉”で飾ったことから、葵祭という通称が使われるようになりました。

葵と言えば徳川家の紋として”三葉”葵が非常に有名です。賀茂社の神紋も同じ葵で、賀茂社は”二葉”です。葵は賀茂氏の紋であるため、徳川家は賀茂氏の流れを汲むという説が根強くあります。徳川家の発祥の地・松平郷が所在する地名も、三河国加茂郡です。綱吉が先祖に恩返しをしたと考えると歴史のロマンは面白いものです。

京都人にとっては、好きではない徳川の象徴を前面に押し出したような祭の名称になりますが、賀茂社の象徴でもあるため文句は言えません。徳川にとっては絶妙の京都での人気挽回策だったでしょう。

葵祭はその後、明治維新直後の混乱期と第二次大戦時にも中断されますが、1953(昭和28)年から復活し、現在に至ります。


下鴨神社の流鏑馬

葵祭は毎年4月末から約3週間の間にすべての神事が行われます。主な神事とその魅力をピックアップします。開催日は毎年日付で固定されています。


流鏑馬/斎王代の禊/競馬、勇壮で雅な前儀が目白押し

5月3日 流鏑馬(やぶさめ)神事 @下鴨神社 13:00~

  • 葵祭の道中を清める神事、飛鳥時代から行われていた
  • 明治維新の混乱期から100年以上行われていなかったが、1973(昭和48)年に復活
  • 会場を囲む浅葱色の幕と公家装束の射手がいかにも京都的で雅
  • 葵祭では行列と並んで最も人気の行事、400mの馬場は見物客で埋め尽くされる


5月4日 斎王代御禊(さいおうだいみそぎ)神事 10:00~

  • 斎王代以下、女人列に参加する47人の女性が身を清める神事
  • 祭のヒロイン斎王代がみそぎを行う様子は、まるで平安時代にタイムスリップしたよう
  • 会場は上賀茂/下鴨神社で毎年交代、2019年は下鴨神社


5月5日 歩射神事(ぶしゃしんじ) @下鴨神社 11:00~

  • 流鏑馬と同じく葵祭の道中を清める神事、地上に立って矢を射る
  • 射手の装束と矢が境内に飛び交う光景がとても優雅
  • 同日午後から行われる上賀茂神社の競馬とのはしご見物がおすすめ


5月5日 賀茂競馬(かもくらべうま) @上賀茂神社 14:00~

  • ”けいば”ではなく”くらべうま”、二頭で勝敗を競う日本で最も著名な競馬神事
  • 赤と黒の舞楽の衣装の騎手・乗尻(のりじり)が馬を操る光景は、王朝文化そのもの
  • 5/1には馬の状態を見て競馬出走の組み合わせを決める競馬足汰式(あしぞろえしき)が行われる


5月12日 御蔭祭(みかげまつり) @八瀬~下鴨神社 「東游」16:00~

  • 下鴨神社の祭神を毎年、八瀬の御蔭神社から下鴨神社に迎える神事
  • ご神体が神幸(街を練り歩く)する行事として、日本最古級の姿を今に伝える
  • ご神体の下鴨神社到着時に奉納される舞楽「東游(あずまあそび)」が見事



上賀茂神社の競馬

前儀が終わると、葵祭にとって最も大切な日・5月15日を迎えます、行列として著名な路頭の儀と、天皇の使者である勅使が両賀茂社にお供えをささげる社頭(しゃとう)の儀が行われます。江戸時代までは路頭の儀に先立って「宮中の儀」が行われていましたが、明治の東京遷都後は天皇が京都御所にいないこともあり、行われていません。

路頭の儀は沿道で自由に見物できますが、社頭の儀は見物できません。遠くから様子をわずかにうかがえる程度です。


行列は今に伝わる中世の王朝美を集約

路頭の儀は、勅使が天皇の使者として御所から両賀茂社にお供えを届ける行列を儀式としたものです。現在ではヒロインとして注目される「斎王代」が祭の主役と思われがちですが、主役はあくまで「勅使」です。明治の復活後2000年まで、路頭の儀は宮内庁により主導されていました。

行列は総勢約500人、長さ約700m~1km、全列の通過に約1時間かかります。京都御所西側の宜秋門を10:30に出発し、丸太町通~河原町通を通って下鴨神社に至り、社頭の儀を行います。行列は14:20に下鴨神社を再出発、北大路通~加茂街道を通って15:30に上賀茂神社に到着し、再び社頭の儀を行ってすべての葵祭の行程が終了します。

華やかな装束の行列を見ると、誰もが平安時代にタイムスリップしたようにワクワクしますが、この装束が平安時代のものに忠実かは、実は誰にもわかりません。元禄時代に200年ぶりに復活させた際に、把握できていた記録や絵巻を元に考証した姿が基本です。その後新たな情報が加わると少しずつ改良しています。

京都は応仁の乱など戦国時代の戦乱で、それ以前の記録や記憶が相当に失われてしまっています。そのため、時代祭の装束や京都御所紫宸殿の意匠にしろ、幕末に把握できていた情報を最大限集めて考証したものです。こうした考証は戦災や火災の多い日本では珍しくありません。

大きな戦災や火災を免れ、記録や記憶が連綿と継続できているのは日本の歴史都市では奈良くらいしかありません。サスティナブルという意味では、奈良は京都より”すごい”のです。

とは言え、葵祭や時代祭の時代装束に異論を唱える人は誰もいません。誰をも魅了していることは間違いありません。


行列の目玉の一つ、藤の花で飾られた牛車

行列は5つの列(グループ)に大別されます。

第1列 警護の列

  • 先頭の乗尻(のりじり)を務めるのは5/5の賀茂競馬の騎手、6騎の馬にまたがる姿は凛々しい
  • 検非違使(けびいし、現在でいう警察)や山城使(やましろのつかい、現在でいう京都府の役人)が続く


第2列 天皇からのお供え物の列

  • 御幣櫃(ごへいびつ、宮中から両賀茂社へのお供え物を入れた箱)は、小さいが注連縄がかけられ神々しい
  • 平安時代に勅使が乗っていた牛車(ぎっしゃ)は、藤の花で飾られ王朝文化を彷彿とさせる


第3列 勅使の列

  • 宮内庁職員が務める勅使は、現在は社頭の儀のみ参加する
  • 代わって行列には近衛使代(このえつかいだい)が参加する、勅使と同じ黒の束帯姿がとても高貴
  • 赤い花で飾られた風流傘が続き、列を華やげる


第4列 勅使のお供の列

  • 社頭の儀で雅楽を奏でる陪従(べいじゅう)は楽器を従える
  • 内蔵使(くらつかい)は、勅使が神前で奏上する御祭文を運ぶ役人


第5列 女人列

  • 十二単をまとった斎王代が輿にのって進む姿は祭のヒロインにふさわしい、行列が一気に華やかになる
  • お供の47人の女人の衣装もとてもあでやか
  • すべての行列の最後は斎王が乗っていた牛車、桜で飾られとても優美



このカラフルな装束が何とも雅で美しい

行列は平安時代の祭礼に参加する貴族の様子がとてもよくわかる構成になっています。中世の祭礼の様子を今に伝える祭としては、奈良の春日若宮おん祭と並んで格別さは双璧です。


斎王代は、現代の京都人の誇り

祭のヒロイン・斎王代は、天皇の娘である内親王(ないしんのう)が、平安時代に巫女として賀茂社に派遣されていた斎王の”代わり”という意味です。斎王は平安時代初期に嵯峨天皇が伊勢神宮に倣って賀茂社にも派遣したのが始まりです。鎌倉時代初めまで続きますが、その後は斎王の派遣そのものが途絶えていました。葵祭の行列には、鎌倉時代から戦前までの700年以上、女人列はなかったのです。

斎王は平安時代の路頭の儀に参加していましたが、現在のように御所から同行するのではなく途中で合流していました。斎王の御所は内裏にはなかったためです。枕草子や源氏物語にも斎王の華やかな行列は描かれており、みやこびとにとても人気があったことがうかがえます。

葵祭が戦後に復活してから3年後の1956(昭和31)年、さらに祭を盛り上げるべく市民の熱意で斎王の行列が復活します。京都人が育んできた1,200年の王朝文化への誇りを象徴する存在になってほしいと願ったのでしょう。

斎王代は、平安時代に倣い、京都出身の未婚女性から選ばれます。ただし十二単の衣装代など数千万円の費用負担が必要なため、事実上京都の有力な資産家の令嬢に限定されます。祖母・母・娘と三代連続や三姉妹すべてが務めた例もあります。

十二単の衣装は重さ30kgあり、それをまとって6時間以上、路頭の儀と社頭の儀に参加します。大変な重労働ですが、斎王代という京都出身の女性としては最高の栄誉が彼女たちを奮い立たせます。行列の際、かすかに微笑しながらまっすぐに正面を見続けている姿は、まさに皇族の選ばれた女性を彷彿とさせます。

【京都新聞公式サイト】 歴代の斎王代

町衆が中心の祇園祭の熱気とは異なり、季節の違いもあって、葵祭の優雅な趣は際立ちます。葵祭は、京都1,200年の王朝文化を今に伝える、かけがえのない文化遺産です。



京都最古の賀茂社の全貌がこの一冊に

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葵祭
【京都市観光協会による行事公式サイト】
【京都新聞による行事情報サイト】


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清凉寺ものがたり_お二人の国宝の生き写し像は今も輝いている

2019年04月10日 | 美の殿堂ものがたり

全国に数多ある清凉寺式釈迦如来の”原本”と、光源氏がモデルとされるイケメン阿弥陀如来。個性が全く異なる”超”美仏が二人もいらっしゃる嵯峨・清凉寺は、敷居が全く高くありません。嵯峨大念仏狂言が現在も人気で、京都でも有数の親しみやすい寺です。

  • 国宝の清凉寺式釈迦如来は釈迦の生き写しとされ、まっすぐに直立する姿はとても神々しい
  • 国宝の阿弥陀三尊は光源氏のモデル・源融(みなもとのとおる)に生き写しとされ、妖艶な美男
  • 京都人には嵯峨の釈迦堂として親しまれ、壬生・千本と並んで大念仏狂言が人気


嵯峨嵐山エリアでは随一の、仏教美術と庶民信仰の歴史がつたわる名刹です。仏教を通じて発展した日本文化の奥深さを体感することができます。


本堂

現在の清凉寺の地は平安時代初め9c、嵯峨天皇の皇子・源融の別荘がありました。源融が生前に発願していたものの一周忌になってようやく造立された阿弥陀三尊像をまつる寺として、896(寛平8)年に別荘跡地に棲霞(せいか)寺が建立されました。この阿弥陀三尊が現存する国宝です。寺名は別荘名にちなんで名づけられ、この寺が現在の清凉寺の前身となります。

それから1cほど後、中国の普賢菩薩の聖地と呼ばれる霊山・五台山を訪れた東大寺の僧・奝然(ちょうねん)が、帰国の際に現地の仏師に彫らせた仏像を携えました。この仏像が国宝の釈迦如来です。古代インドの王が釈迦の生存中に彫らせ像を模刻したと伝わることから、”釈迦の生き写し”とされ、中国伝来の仏像の中でも清凉寺式として別格の扱いを受けます。

奝然は京都の愛宕山を五台山に見立て、麓にこの釈迦如来を安置する寺を建立しようとしますが、建立は存命中にはかないませんでした。南都・東大寺の息のかかった有力な寺ができることを警戒した延暦寺の横やりが入った、とする説があります。中世の宗教史によくある、歴史環境的に違和感がない説です。

奝然が1016(長和5)年にこの世を去った後、棲霞寺境内に弟子が建立したのが清凉寺です。清凉寺の寺名は、五台山の別名にちなんでいます。以降、次期は定かではありませんが、棲霞寺と言う寺名は廃れ、通称名:嵯峨の釈迦堂と正式名:清凉寺が定着していきます。


大方丈

現在も親しまれる「釈迦堂」という寺名の由来は、棲霞寺創建から半世紀ほど後に、皇族が建立した清凉寺式とは無関係の釈迦如来をまつる堂宇に由来するとする説があります。この釈迦如来は現存しないこともあり、中国からの請来当初から相当な知名度があったと考えられる清凉寺式釈迦如来をまつる堂宇として有名になったと考えることもできます。

どちらの説が有力かを断定することはできませんが、源融に生き写しの阿弥陀如来より、どちらかの釈迦如来が中世においては有名であったことだけは間違いないでしょう。清凉寺は鎌倉時代に融通念仏が盛んになり、その流れで戦国時代には現在の浄土宗になります。平安時代以来の釈迦如来信奉の根強さに、融通念仏や浄土宗が本尊とすることが一般的な阿弥陀如来が”遠慮”しているように見えます。清凉寺の奥の深さを感じます。


2017年4月に本堂で行われた嵯峨大念仏狂言

法然が開いた浄土宗の”先輩格”にあたる融通念仏(ゆうづうねんぶつ)は、鎌倉時代後期の13c末に、円覚(えんかく)が京都で布教し瞬く間に人気を博します。当初から布教のために何らかの芸能が行われていたと考えられています。円覚は壬生寺も再興します。現在のような芝居形式の大念仏狂言は、室町時代から続いている記録が残っています。

清凉寺は京都でも有数の融通念仏の道場として定着していきます。とても親しみやすい境内の趣は、大念仏狂言の人気に支えられていると感じられます。リズミカルな動きをするパントマイムで、現代人が見てもとても親しみやすい演劇です。

応仁の乱など、伽藍は幾度も火災に合っていますが、お二人の”超”美仏は常に大切に守られてきました。江戸時代初期には豊臣秀頼の寄進で伽藍は再興されますが、元禄時代に焼失します。現在の本堂(通称:釈迦堂)は元禄時代に、将軍・綱吉と母・桂昌院の寄進で再建されたものです。

江戸時代の清凉寺は、本尊・釈迦如来の出開帳(でかいちょう)で有名でした。1694(元禄7)年の火災以前の記録は残っていませんが、以降の約170年間で、江戸/大坂で10回ずつ、京都市中で19回も行っています。本尊・釈迦如来は鎌倉時代に摸刻が流行し、奈良・西大寺の本尊など全国に100体以上確認されています。

”釈迦の生き写し”とされる人気は、江戸時代でも絶大であったことがわかります。出開帳によって収入を確保するマネジメント意識も、清凉寺はきちんと持っていたのです。


宇治・平等院鳳凰堂

源融は、光源氏のモデルの一人とされていますが、源氏物語が執筆された頃から120年ほど前に没しています。紫式部が本当にモデルとしてイメージしていたなら、100年以上も語り継がれるような絶世の美男子だったということになります。

宇治の平等院や東本願寺の渉成園は、元は源融の別荘でした。左大臣まで上り詰めた有力な貴族としてだけでなく、風流もとても愛していたことがうかがえます。光源氏のモデルという話もあながち作り話のようには聞こえません。

境内には豊臣秀頼の首塚もあります。1980(昭和55)年の大阪城の発掘調査で頭蓋骨と首のない胴体骨が発見され、法医学調査から秀頼の遺体ではないかと推測されました。断定にまでは至りませんでしたが、清凉寺に埋葬され「秀頼公の首塚」として拝観することができます。

仏像、芸能、縁のある人物、清凉寺の文化の奥深さがとてもよくわかります。



瀬戸内寂聴が語る清凉寺の魅力

清凉寺(嵯峨釈迦堂)(京都市右京区)

http://seiryoji.or.jp


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銀閣寺ものがたり_足利義政がのこした現代日本文化の原点

2019年03月01日 | 美の殿堂ものがたり

京都・銀閣寺と言えば”わび・さび”を連想する人が少なくないでしょう。日本独自の美意識をまさに具現化したような美しい寺であり、建物と庭園が織りなす空間には中世の美意識の痕跡が数多くのこされています。

  • 世界遺産から国宝/特別名勝まで、空間の文化財指定としてこれ以上ない最高評価を受ける稀有の寺
  • 何といっても室町時代の国宝建造物2棟が現存していることが、庭園空間の趣に磨きをかけている
  • 書院や床の間、茶道といった現在に続く日本文化の原点は国宝の東求堂
  • 政治的には評価の厳しい足利義政も、現在の日本文化の礎を築いた功績は計り知れない


銀閣寺は建物や庭園はトップクラスの文化財指定を受けていますが、絵画・陶芸などの美術品は意外に多くありません。空間美の美しさが際立つ銀閣寺が歩んできた時間から、美しい理由を私なりに紐解いてみたいと思います。


銀閣(観音堂)は裏から見ると意外な表情をしている

銀閣寺が通称であることはよく知られており、正式名称は8代将軍・足利義政の法号に因んだ慈照寺(じしょうじ)です。義政は銀閣寺の前身となった別荘・東山殿を心血を注いで造成し、政治から逃避して悠々自適の生活をしていたようなイメージを持たれがちですが、そんなことはありません。

義政は1443(嘉吉3年)年、8歳で将軍に選出されます。しかし2年前には父の6代将軍・義教(よしのり)が家臣に暗殺されているように、実質的に戦乱の世は始まっていました。権力争いを繰り広げる側近たちの間にあって、義政は大人になっても政治権力を確立するのは並大抵ではなかったと想像できます。

正室・日野富子とは結婚当初から不仲で、男子ができなかったことから、1464(寛正5年)年に実弟の義視(よしみ)を還俗させて将軍職を譲れる環境を整えます。この頃すでに祖父・義満が築いたような別荘を築き、隠遁生活を送ることを考えていたようです。

しかし翌年、富子が男子・義尚(よしひさ)を生んだことで、次期将軍争いに側近たちの権力争いも加わって泥沼化します。この争いが応仁の乱の出発点になったことはよく知られています。


銀閣寺垣

義政は37歳の1473(文明5)年、東西両軍の大将が相次いで死去したことから応仁の乱の厭戦ムードが高まったタイミングで、将軍職を8歳の子の義尚(よしひさ)に譲って隠居します。実子・義尚を将軍に就けることで政治的影響力の拡大を図ろうとする正室の日野富子との仲が決定的に冷え込み、その状態から逃避したと、一般的には言われています。

1482(文明14)年、46歳の義政は悲願の別荘・東山殿の造営を現在の銀閣寺の地で始めます。翌年には早くも東山殿に居を移し、造営に心血を注ぎます。1486(文明18)年には自身の持仏堂として国宝・東求堂(とぐどう)を完成させますが、続いて着手した観音堂・銀閣の完成を見ることなく1490(延徳2)年にこの世を去ります。

鎌倉・室町時代はまだまだ中央集権や法律は確立されておらず、将軍が家来をコントロールすることは現代の感覚では考えられないほど大変でした。父の義教が強権政治の反感を買って暗殺されていることから、あいまいな態度を取り続け政治の前面に出ないことが第一と考えていたのかもしれません。

飢饉の際にも庶民を助けず花の御所の造営にいそしんだという批判もありますが、「君臨すれども統治せず」という立ち位置を貫いたとも解釈できます。応仁の乱の混迷の時代に、暗殺されることなく24年間の長きにわたって将軍職を続けたことは、ある意味世渡りに長けた人物だったように思えます。

日明貿易を通じて富と中国文化を吸収し、唐物(からもの)の陶磁器や絵画を多数所有します。東山御物(ひがしやまごもつ)です。現在そのほとんどが国宝・重要文化財に指定され、現存する室町時代の美術品の根幹をなしています。

東山御物は戦国時代に散逸しており銀閣寺にはほとんどのこされていません。銀閣寺には現在の日本文化の原点になったような空間が味わえる観音堂・銀閣と東求堂(とうぐどう)の二棟がのこりました。


銀沙灘と向月台の白砂が銀閣を引き立たせる

観音堂が銀閣と呼ばれるようになったのは江戸時代になってからのようです。見た目通りの金閣と対比させた呼び方ですが、銀箔が張られていた形跡はなく、なぜ”銀”のなかはよくわかっていません。

観音堂は、金閣が戦後すぐに焼失したため、現存する唯一の室町時代の庭園楼閣建築です。楼閣ですが四辺の大きさや形状が同じでなく、見る角度によって表情を変えます。これも義政の美意識でしょうか。祖父・義満が造った四辺同じの金閣とは異なり、建築や陶磁器など立体物の造形で対称や幾何学的な均整を好まなくなる以降の日本文化に通じる趣を感じます。

2Fの外壁は、現在は美しい木目で、屋根の板葺きと調和していますが、創建当初は黒漆塗りでした。これも義政が金閣とは異なる理想郷を目指したものでしょう。

観音堂の裏には創建当初の黒漆塗りの外壁の一部の復元模型が展示されています。観音様を祀る仏堂らしい華やかな彩色を施した部分もあり、より荘厳な浄土世界を感じる趣だったと想像されます。タイムマシンがあるならば、月に黒光りする観音堂の美しさを見てみたいものです。

東求堂は、和風建築の基本となる、畳敷きで床の間がある書院造の原型とみなされています。同仁斎(どうじんさい)は義政が書斎や茶室として使っており、現在に続く茶室の原点とも言える部屋です。日本文化の礎がまさにこの部屋に詰まっているように思えます。床の間は砂壁ではなく障子で、開けると掛軸のように庭園をのぞめるようになっています。500年以上前の意匠ですが、現在も洗練された美しさは全く色あせていません。


錦鏡池

東山殿は1490(延徳2)年に義政がこの世を去った直後に遺命で寺に改められました。これが現在の慈照寺の始まりです。相国寺の境内にある慈照院は、将軍が亡くなった際に位牌を安置する慣例に従って開かれた塔頭です。

東山殿は室町将軍が造営した最後の邸宅です。室町幕府は義政の死から、最後の将軍・義昭が信長から追放されるまで80年ほど続きます。この間は室町将軍の権勢が全くなかった時期であり、邸宅を造る余裕などなかったのが実情です。

有力な庇護者がいなくなった慈照寺は1550(天文19)年に戦災で焼失しますが、観音堂と東求堂だけは奇跡的に焼失を免れました。夢窓礎石による西芳寺庭園を参考に、義政自ら造営の指揮を執った庭園も荒廃し、江戸時代の初期1615(慶長20)年の大改修がなされたのが現在の庭園です。

庭園は義政時代からはかなり趣が異なっていると思われますが、山の斜面を上下しながら様々な角度から池や庭を見下ろす趣は、西芳寺庭園との共通点を感じます。山の斜面を含んだ立体的な空間と、観音堂・銀閣や東求堂との調和は、日本の数ある美しい庭園の中でも格別です。

波紋を表す銀沙灘(ぎんしゃだん)と富士山のような向月台(こうげつだい)の白砂も、禅寺らしい謎めいた造形が人々を惹きつけます。いずれも2つの国宝建築を見事に引き立たせています。

銀閣寺は庭園/境内の文化財指定として最高峰の特別史跡/特別名勝のダブル指定です。加えて世界遺産にも指定されており、いわばトリプル指定とも言えます。日本で他のトリプル指定の例は、平泉の毛越寺、京都の金閣寺/醍醐寺三宝院、奈良の平城宮東院庭園、広島の厳島神社の5か所だけです。さらにその中でも国宝建造物があるのは銀閣寺/醍醐寺三宝院/厳島神社に限られます。


これほど落花が似合う庭はない

銀閣寺の周辺は浄土寺(じょうどじ)という地名です。東山の緑に囲まれたとても閑静な住宅街になっています。この地名、京都によくある「昔あった施設に因んだ名前」で、慈照寺の敷地には浄土寺がありました。浄土寺が応仁の乱で焼失した跡地に、義政が東山殿を造営したのです。

現在の銀閣寺の入口に寄り添うようにある浄土院(じょうどいん)は、浄土寺の法灯を引き継いだ浄土宗の寺です。五山送り火の大文字の管理を檀家が担当していることで知られます。

五山送り火がいつから行われているかは全く不明で、大文字の起源も諸説あります。義政が先立たれた義尚を弔うために始めたという説もあるようです。もし史実なら義政は日本を代表する年中行事の一つの起源にも関わっていたことになります。

義政はやはり、現在の日本文化の礎を築いた偉人というかけがえのない側面を持つ人物なのです。大阪の東洋陶磁美術館にある世界有数の陶磁器コレクションを築き上げたものの、会社を倒産させた安宅英一の人生と重なるものを感じます。



日本人の美意識の原点を銀閣寺に見出す

銀閣寺
【公式サイト】 http://www.shokoku-ji.jp/g_about.html


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春日若宮おん祭 ものがたり|美の五色 ~日本の古典芸能が凝縮

2018年12月03日 | 美の殿堂ものがたり

師走の奈良には、これが終わらないと年の瀬気分になれない一大イベントがあります。春日若宮おん祭(かすがわかみやおんまつり)です。

  • 華やかな行列だけでなく、舞楽や田楽と言った日本の古典芸能の趣を色濃く味わえる
  • 900年間途絶えることなく続けられており、京都の祭り以上に古式を伝える
  • 祭の主役の神の姿を徹底的に表さない、日本の原始の宗教観が色濃くのこる
  • 芸能の披露は「芝居」の語源になった


春日大社の摂社・若宮神社の祭礼で、毎年12月17日に中心神事であるお渡り式(おわたりしき)とお旅所祭(おたびしょさい)が行われます。お旅所に鎮座する若宮様に芸能を奉納するために行われるという日本の神社の祭礼では稀有な特徴があります。

お渡り式は、芸能集団や祭礼に参加する貴族・巫女・大名があでやかな古式にのっとった衣装をまとい行列します。行列の途中には競馬や流鏑馬も行われます。お旅所祭はお渡り式終了後に若宮様の前で古典芸能を奉納します。目にすることができる古典芸能は、今に伝わる最古の姿と考えられています。

悠久の古都・奈良が積み重ねた時間が凝縮された祭について、探求してみたいと思います。


お渡り式行列の先頭

春日大社で最も重要な例祭(れいさい)は若宮おん祭ではなく、毎年3月13日に行われる春日祭(かすがさい)です。天皇の使者が派遣されて行われる勅祭(ちょくさい)の中でも最高格式の三勅祭の一つとして、賀茂神社の葵祭と石清水八幡宮の石清水祭とともに数えられています。しかし春日祭はほとんどが非公開であるため、多くの見物客を集める若宮おん祭の方が春日大社では最も著名な祭りになっています。

若宮は、江戸時代までは現在の春日大社本殿と同格の社でした。本殿が”親”、若宮が”子”という位置づけです。こうした経緯から、春日大社を代表する祭礼として若宮おん祭が認識されることに違和感をおぼえる人はいません。

若宮おん祭は、平安時代末期1136(保延2)年に藤原氏によって始められて以降、一度も途絶えることなく続けられていることに、かけがえのない価値があります。葵祭・石清水祭は応仁の乱の後、約200年間の中断を余儀なくされています。そのため現在見ることができる姿は、復興した元禄時代に入手することができた情報に依存していることが現状です。

だからと言って葵祭・石清水祭の文化的価値を否定するものではないですが、継続している若宮おん祭にはやはり格別なものを感じます。葵祭の行列に比べ、さらに古式を感じさせるのはこうした背景があるように思えます。


お渡り式行列の主役・日使(ひのつかい)

若宮おん祭の行事は厳密には7月から始まりますが、奈良の街に祭りムードが盛り上がるのは12月15日の大宿所祭(おおしゅくしょさい)からです。近鉄奈良駅から続くもちいどの商店街の中にある大宿所で、祭を信仰する大和士(やまとざむらい)らの身を清める儀式です。大宿所には祭の装束や行列で披露される太刀などが展示され、参拝者にはのっぺ汁がふるまわれます。

翌16日には翌日の祭典の無事を祈る神事・宵宮祭(よいみやさい)が行われますが、京都・祇園祭のように夜に多くの人手はありません。

中心神事の行われる17日は日付が変わった直後の0:00から若宮様をお旅所にお連れする遷幸の儀(せんこうのぎ)が行われます。若宮様はお渡り式とお旅所祭を見届けた後、17日の23:00に御旅所を発って本宮に戻る還幸の儀(かんこうのぎ)が行われます。日付をまたいではならないのが若宮おん祭のルールです。

若宮おん祭は、お旅所への神の遷幸/還幸を披露しない点が大きく異なります。お旅所への神の遷幸/還幸は、深夜に一切の灯りを許さない中で行われます。神の姿を徹底的に表さないという日本古来の価値観が忠実に継続されています。

遷幸の儀の直後の午前1:00から、神に食事を供える暁祭(あかつきさい)が行われます。奉納される神楽の音色が闇夜に響く光景はとても幻想的です。



お旅所祭・田楽

神社の祭りは一般的に、神が短期間だけ”現世に近いお旅所に降臨する”する行為を華やげます。神輿(みこし)は、お旅所に降臨する神をのせた乗り物を披露するものです。祇園祭のような山鉾は、お旅所への降臨の前に道中を清める意味があります。

若宮おん祭はこうした一般的な性格とは異なります。”お渡り”とは一般的に神をお旅所にお連れする行為を指しますが、若宮おん祭では祭りの参加者がお旅所に社参する行為をさします。若宮おん祭は、神の降臨そのものを華やげることが主目的ではないことも、一般的な祭りとは異なります。降臨してきた神に芸能を奉納することが主目的なのです。

お旅所祭では、お渡り式が終わった後14:30頃から22:30頃まで延々と古典的な芸能が若宮様に奉納されます。師走の寒空の中、最初から最後まで通しで見物する客はまずいないと思えるほどの長さですが、昔はこの長さは普通でした。江戸時代の歌舞伎も朝から夜まで鑑賞していました。

春日大社への表参道に面するお旅所は、普段は何もない空き地にしか見えず、誰も気づきません。そこに若宮おん祭の時だけ祭殿が築かれます。見物客が芝生に座って芸能を鑑賞したことが「芝居」の語源と考えられています。

お旅所祭はまさに日本の古典芸能のオンパレードです。長時間にわたりますが一度に鑑賞できる機会はここにしかありません。椅子席は有料ですが、立見なら無料です。

還幸の儀を終えた翌日が若宮おん祭の最終日です。若宮様がいなくなったお旅所で13:00から相撲、14:00から能と狂言による後宴能が奉納され、全日程を終了します。


お渡り式。稚児の流鏑馬

若宮おん祭は、日本の古典芸能が凝縮されていることが最大の魅力です。庶民が長期に渡って支えた祭礼ではなく、貴族階級が格式を最重視して続けてきた祭礼です。政治権力の変遷があったにもかかわらず、一度も絶えることなく続けられてきたことは、まさに奈良らしさを感じます。

奈良は平安遷都以降、政治の舞台から遠ざかり、戦乱に巻き込まれることなく現在に至ります。そのため平城宮跡ないにしえの姿が温存されたのです。応仁の乱を境にいにしえの文化財の多くが失われた京都とは、決定的に持続性が異なります。

奈良の奥深さの象徴が、若宮おん祭なのです。



日本の古典芸能はおん祭に集約されている

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春日大社
若宮おん祭 お渡り式
【神社による祭公式サイト】

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奈良・元興寺ものがたり ~日本最古の寺は庶民が支え続けた

2018年09月20日 | 美の殿堂ものがたり

奈良の中心にある猿沢の池から南に広がる古い町並は「ならまち」と呼ばれています。江戸時代の建物も少なからず残る町並の大半は、平城京遷都時に飛鳥から移転してきた元興寺(がんごうじ)の境内でした。

元興寺は飛鳥時代に起源をもつ日本最古の本格的な仏教寺院です。1,400年にも及ぶ長い歴史の荒波の中で、現在は小規模な3つの寺院に分かれて存続しています。奈良時代の面影を今に伝える国宝・五重小塔(ごじゅうのしょうとう)ほか、多数の国宝・重要文化財がのこされています。地域の住民にとても愛されている寺院でもあります。

平城京には興福寺を始めいくつかの官寺が飛鳥から移転していますが、それぞれ数奇な運命をたどっています。今日は最も歴史が長い、元興寺のものがたりを紐解いてみたいと思います。


国宝・元興寺極楽堂(本堂)

元興寺は、飛鳥の地で588(崇峻天皇元)年から建設が始まり、596(推古天皇4)年に最初の堂宇が完成したと考えられている法興寺(ほうこうじ)が始まりです。仏教推進派だった蘇我馬子により建立されました。609(推古天皇17)年には、飛鳥大仏の一部として現存する本尊が完成しています。仏師は法隆寺・釈迦三尊像も造立した鞍作止利(くらつくりのとり)です。

大化の改新で蘇我氏がほぼ滅亡して以降も天皇の崇拝を受け、官寺並みの待遇で大官大寺(現:大安寺)・薬師寺・興福寺と共に平城京に移転します。平城京移転後に元興寺と名前を変えています。一方、法興寺も平城京移転後も飛鳥にしばらく存続し、現在は後身寺院の飛鳥寺になっています。飛鳥大仏は飛鳥寺の本尊です。

元興寺は奈良時代には隆盛を誇りますが、平安時代になると興福寺や東大寺に比べ寺勢は衰えていきます。火災・落雷・戦乱などで徐々に堂宇を失っていき、金堂も室町時代に失われます。しかし皮肉なことに寺域が縮小すると様々な商工業者が住み着くようになります。興福寺や東大寺の御用の需要が大きかったと考えられます。現在に続くならまちの形成の始まりです。


現在のならまち

元興寺は金堂が失われた室町時代以降に、現在の3つの寺院に分かれたと考えられています。世界遺産に登録されている中院町に所在する真言律宗の元興寺は僧房があったエリアでした。国宝の極楽堂と禅室も、鎌倉時代に僧房を改築したものです。国宝・五重小塔はここにあります。

五重小塔は高さは5mほどですが、内部構造が建造物のように忠実に造られています。奈良時代で唯一残された五重塔でもあります。奈良時代の塔は薬師寺・當麻寺にもありますがいずれも三重塔です。


禅室(左)と極楽堂(奥)

芝新屋町に所在する華厳宗の元興寺は五重塔があったエリアです。近隣の興福寺や、現在高さ日本一の東寺より高い五重塔でしたが、幕末の火災で焼失します。興福寺の五重塔とツインタワーのように並ぶ町並の風景はとても壮観だったでしょう。

もう一つ、西新屋町に所在する真言律宗の小塔院(しょうとういん)は、永らく国宝・五重小塔を収めた堂宇があった場所です。この3つの寺院は直線距離で互いに100mも離れていない近距離に固まっています。外側から縮小を始めた元興寺の境内が最後まで残ったエリアです。

江戸時代は発展する現ならまちに住む庶民の信仰の場として細々と法灯を保っていました。明治以降は荒れ放題の状況が長く続きます。戦後の1950年代になってようやく住職・辻村泰圓により境内の再興が始まり、現在の美しい姿を取り戻しました。

ほとんどの伽藍が失われる中で、建造物である国宝の極楽堂・禅室・五重小塔がのこされたことは奇跡に近いと言えます。平安~鎌倉時代の仏像も中院町・真言律宗・元興寺に3体、芝新屋町・華厳宗・元興寺に2体、西新屋町・真言律宗・小塔院に1体がそれぞれのこされています。すべて重要文化財で、うち芝新屋町・華厳宗・元興寺の薬師如来立像は国宝です。地域の住民も加わって大切に護られてきたのでしょう。


現在も人々に愛されている元興寺(節分の様子)

元興寺は常に権力者との距離が近かった興福寺や東大寺とは異なり、現在のならまちに自然発生的に芽生えた庶民信仰によって支えられてきました。日本最古のお寺は庶民の手によって守られ続けてきたのです。伽藍の縮小が結果的に寺の永続につながったように思えてなりません。

なお元興寺にほど近い十輪院(じゅうりんいん)は、元興寺の子院だった寺です。鎌倉時代の住宅の色合いを残す国宝の本堂が美しい寺です。いにしえの元興寺の面影を確かめることができます。こちらもぜひどうぞ。



歴史と仏教美術の全貌を紹介する公式ガイドブック


元興寺(真言律宗、奈良市中院町)
【公式サイト】https://gangoji-tera.or.jp/


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法隆寺ものがたり ~なぜこれだけの文化財が守り続けられてきたのか

2018年08月23日 | 美の殿堂ものがたり

法隆寺は1,400年以上の歴史を持つ寺で、荒廃・戦乱・火災といった逆風に大きく遭遇することなく現在まで脈々と宗教活動を続けています。世界最古の木造建築を始め、圧倒的な質と量の文化財が今に伝えられています。

なぜこれほどたくさんの文化財がのこされてきたのでしょうか。単に歴史があるからだけでは説明が付きません。なぜなら文化財が失われる(手放される)大きな要因は世界共通で、放棄・困窮・災害・争乱の4つだからです。しっかり造っていても、こうした外的要因には対応できません。

法隆寺はこの4つを1,300年もの間、巧みに回避してきたのです。法隆寺の持続の歴史について、あらためて紐解いてみたいと思います。


南大門

法隆寺は飛鳥時代の初め607(推古天皇15)年、聖徳太子が自らの宮殿のあった地に、亡父・用明天皇の菩提を弔うために建立しました。日本の大規模な仏教寺院としては、587(用明天皇2)年に建立が発願された法興寺(現:飛鳥寺の前身)、593(推古天皇元)年に建立が始まった四天王寺、603(推古天皇11)年に建立された広隆寺、に次いで四番目に古い寺と考えられています。

明治時代に「670(天智天皇9)年に焼失」との日本書記の記述を根拠に現伽藍の再建説があげられ、長らく非再建説との論争が続いてきました。1939(昭和14)年の現伽藍より古い若草伽藍の発掘により、693(持統天皇7)年から711(和銅4)年頃にかけて現在の西院伽藍が再建されたものと認定されました。

奈良時代には国家の保護を受ける南都七大寺の一つだった可能性が指摘されています。また平城京と都の外港である難波津(現在の大阪市)を結ぶ街道沿いにも位置していたことから、往来は多く寺勢を保っていたことは間違いないでしょう。

しかし平安京に都が移ると、他の南都の大寺以上にその存在感をなくしていきます。興福寺のように有力な貴族の保護はなく、大和国を牛耳るような広大な荘園は持っていません。東大寺のように人々の信奉を集める大仏もありません。

何よりまして斑鳩(いかるが)という立地が中世日本の主要な交通路からはずれたことが、結果的にこれだけの文化財をのこした最大の要因でしょう。中山道が明治の鉄道開通後に使われなくなり、妻籠・馬籠宿が手つかずのままのこされたのと同様の環境です。

人々の往来が少なくなると生活の活動も活発でなくなり、おのずと火災の可能性も低くなります。全伽藍を焼失するような大火はなく、平安時代の大講堂・鐘楼、西室、室町時代の南大門といった局所的な焼失にとどまっています。防火・消火の努力を日頃から怠っていなかった結果と言えるでしょう。地震・暴風雨といった自然災害による損失も、平安時代の西円堂などにすぎません。法隆寺には幸運の女神がほほ笑み続けていたのです。

大きな戦乱にも巻き込まれずに済みました。戦国時代に城をめぐる攻防戦が大和国でも幾度となく行われましたが、斑鳩はいずれの城とも距離がありました。城から近かった東大寺や朝護孫子寺は焼失の憂き目にあいます。寺も戦乱に巻き込まれないよう中立を貫いたのでしょう。法隆寺は無傷でした。

豊臣秀頼や桂昌院(5代将軍・綱吉の母)による伽藍の修造も行われており、江戸時代においても伝統と格式が認められていたと考えられます。こうした地道な修繕は、建物の寿命の延長には言うまでもなくきわめて影響します。


東院伽藍

江戸時代までは細々と寺勢を保ってきた法隆寺に、過去最大級と言える危機が訪れます。廃仏毀釈による”困窮”です。明治新政府によって寺領は没収され、収入がなくなります。これは全国の寺にあてはまり、奈良でも内山永久寺などの大寺が廃寺になっています。

この困窮の危機を救ったのは寺が持つ”文化財”でした。1878(明治11)年に時の管長の決断で約300件の宝物を皇室に献納し、一万円を下賜されます。皇室献納で危機をしのいだのは、伊藤若冲の最高傑作「動植彩絵」を献納した京都・相国寺と同様です。

この際の献納物には、聖徳太子の肖像画として現在もっともよく知られる「唐本御影(とうほんみえい)」もありました。旧一万円札に使われたのはこの肖像で、現在も皇室が所有する御物(ぎょぶつ)です。

他のほとんどの宝物は戦後に東京国立博物館の所蔵となり、専用の施設である法隆寺宝物館で保管・展示されています。正倉院よりも一時代古いものが多く含まれ、正倉院展とは異なる古代の工芸技術の高さを学ぶことができます。

1884(明治17)年には、かの有名なフェノロサと岡倉天心による夢殿の救世観音の開扉が行われます。永年の秘仏が一級の美仏であることを”発見した”という話です。しかしこの話はなぜか、HPや出版物など法隆寺の公式見解には一切出てきません。

フェノロサより前に明治新政府により開扉調査が行われていた、救世観音は秘仏ではなかった、など様々な異論もあるようです。日本美術の救世主として神格化されているフェノロサのイメージに合った伝説なのかもしれません。

1934(昭和9)年からは昭和の大修理が始まり、近代的な調査と修造が行われます。大修理が終了したのは、半世紀後の1985(昭和60)年です。

寺だけでなく世界的にも痛恨の金堂壁画の焼損は、この大修理中に起こりました。1949(昭和24)年1月26日、解体修理と戦時中の空襲疎開のため、金堂は上層部と内部の仏像がない状態でした。出火原因はよくわかっていません。内部に燃えやすいものがなかったためか、壁画や柱が完全に焼失したわけではありません。壁画は損傷が甚大ですが、劣化しないよう処置を施され現在も法隆寺の収蔵庫で保管されています。

焼け残った壁画は非公開ですが、焼損前に京都の美術印刷会社・便利堂が原寸大でモノクロ撮影した写真が焼損前の姿を伝えています。

焼け残った柱に補強を加え、火災を免れた部材を組み直して修理を完了したのが現在の金堂です。安田靫彦・前田青邨ら昭和を代表する画家たちによる壁画の模写が壁にはめ込まれています。

1月26日は文化庁と消防庁により「文化財保護デー」として制定されました。法隆寺でも法要と防火訓練が毎年行われています。9月1日の「防災の日」とともに、記憶にとどめてほしい日です。


伊丹空港へ向かう飛行機が伽藍からよく見える



法隆寺・薬師寺の修理・再建を手掛けた昭和の名宮大工・西岡常一が語る法隆寺の奥深さ


法隆寺
【公式サイト】http://www.horyuji.or.jp/


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京都・本願寺、東西対決 ~御影堂の大きさは東に軍配

2018年08月05日 | 美の殿堂ものがたり

戦国時代に織田信長が10年かかっても軍事力で屈服させることができなかった宗教集団・本願寺(浄土真宗)。江戸時代初期に東西分裂したことはよく知られています。以降、東西両派はあたかも暗黙のルールを守るように、同じ都市内では競いながらも棲み分けています。

京都の本拠地では、伽藍焼失が長らくなかった西本願寺だけが世界遺産に指定されていることもあり、東本願寺は観光的な視点ではやや地味に見られていることは否定できません。しかし江戸時代に4回の伽藍消失の憂き目にあった東本願寺は、その都度門徒(=檀家)の不屈の精神によって再興されているのです。

浄土真宗で最も大切な建物である御影堂(ごえいどう)阿弥陀堂(あみだどう)を中心に、東西両本願寺の文化財の比較をしながら、両寺の魅力を探ってみたいと思います。


木造建築面積で世界最大の東本願寺・御影堂(左は阿弥陀堂)


東西の名称の区別はとても深い

東/西本願寺は、京都で近接する東西両派の本山寺院を区別するために、地理的な位置にちなんで自然と呼ばれるようになった通称です。この同じ都市内で両寺を区別する「東西」という表現は、全国的に両寺が争うことなく棲み分けるキーワードになっています。偶然もあると思われますが、興味深い視点で見ることができます。

  • 浄土真宗は全国の多くの主要都市に拠点となる「別院」を設けているが、ほとんどの都市で京都と同じ名称で区別している。東本願寺系は「東別院」、西本願寺系は「西別院」。地図上の位置も東西で矛盾しない。地下鉄の駅名にもなっている名古屋が代表例。
  • 東は北陸や東海地方、西は中国地方に門徒が多い。京都の本山境内の位置はこの東西関係に沿っている。
  • 分裂の経緯から、東は徳川、西は豊臣に親近感がある。京都の本山境内の位置は両氏本拠地の位置の東西関係にも沿っている。
  • ほとんどの都市で中心的な建造物である城に向かって、東本願寺は右側、西本願寺は左側に境内を設けている。京都では二条城や御所が両寺から向かって北側にあるため右が東で左が西、大坂では城が向かって東側にあるため、右の南御堂が東で左の北御堂が西。この位置関係は江戸でも該当する。


豊臣政権以降、宗教勢力による武力抗争が禁じられたこともあり、東西両派の門徒はこのような暗黙のルールを守ることで、境内地の確保や名称でもめないようにしていたと思えてなりません。


京都タワーから見下ろす東本願寺境内

そもそも東/西本願寺のどちらが正統かは、第三者の視点で見ても断定できません。石山本願寺退去前から宗主で穏健派(現在の西本願寺)の顕如と、顕如の長男で強硬派(現在の東本願寺)の教如の対立は深刻化していました。世襲に基づき一度は本願寺の宗主になった教如は、秀吉の命で宗主を弟に譲らざるをえませんでした。両派の対立に収集の兆しはなく、秀吉の死後に家康に近づいた教如が東本願寺の境内を与えられることになります。


東/西両本願寺の主な特徴の比較

  京都での通称 お東さん(東本願寺) お西さん(西本願寺)
名称 正式 宗派 真宗大谷派 浄土真宗本願寺派
本山寺院 真宗本廟 龍谷山本願寺
ローマ字表記 honganji hongwanji
歴史 <現>伽藍創建 1602(慶長7) 1591(天正19)
伽藍消失 1788 天明の大火が延焼
1823 自らの失火
1858 近隣火災が延焼
1864 禁門の変の延焼
1596 地震で倒壊
1617自らの失火


<現>堂宇
再建
御影堂 1895(明治28) 1636(寛永13)
阿弥陀堂 1618(元和4)→
1760(宝暦10)建替
<現>堂宇
幅×奥×高
(m)
御影堂 76×58×38 62×48×29
阿弥陀堂 52×47×29 45×42×25
(参考)東大寺大仏殿 <現>57×50×49 <創建時>85×50×47
境内 本山(東西×南北) 400×200m 330×290m
宗祖墓地 大谷祖廟(円山) 大谷本廟(五条坂)
  京都での通称 お東さん(東本願寺) お西さん(西本願寺)
文化財 開祖像 鏡御影 × 正本(国宝)
安城御影 副本(重文) 正本・副本(国宝)
開祖真筆 教行信証坂東本(国宝) 観無量寿経註(国宝)
阿弥陀経註(国宝)
建造物(国宝) × 御影堂・阿弥陀堂・
書院・飛雲閣・唐門
庭園 渉成園(名勝) 虎渓の庭(特別名勝)
滴翠園(名勝)
主な
地方別院
大坂 難波別院(南御堂) 津村別院(北御堂)
江戸 旧・浅草本願寺 築地本願寺
名古屋 東別院 西別院(大須)
主要行事 報恩講(開祖年忌法要) 11月21〜28日(旧暦) 1月9〜16日(新暦)
系列 高校・大学 大谷など 龍谷・京都女子・相愛
・武蔵野・筑紫女学園など
美術館 大谷大学博物館 龍谷大学 龍谷ミュージアム
  京都での通称 お東さん(東本願寺) お西さん(西本願寺)



文化財では西、大きさでは東

世界遺産に指定されている西本願寺は、所有する文化財の質と量で東本願寺を圧倒していることは否めません。これには東本願寺にとっては不利となる2つの大きな理由があります。

  • 東本願寺は江戸時代に4度も火災で伽藍を焼失しているが、西本願寺は江戸時代初期以降に伽藍の焼失がない。御影堂や書院が現存していることが何といっても大きい。
  • 東西分裂の際に宗主だったのは穏健派の西本願寺側、そのため美術品のほとんどが西本願寺にのこる。



西本願寺・唐門

文化財では東本願寺が不利ですが、江戸時代の寺勢は東の方が大きかったように思えてなりません。東は徳川に近く様々な援助を受けやすい立場にあります。江戸時代の4度の火災で伽藍をすぐに再建できたのも、政権との近さに加え、経済力のある有力な門徒を多数抱えていたとことが背景にあると思われます。

現在の伽藍はほぼ明治になってからの再建で、廃仏毀釈の時代にこれだけの再建を行えた団結力には驚愕します。御影堂は建築面積では現在も世界最大の木造建造物です。高さは東大寺大仏殿より低いですが、幅(間口)が20mほど長いため、屋根の大きさが特に目立ちます。明治はじめに全国の門徒たちが協力し、16年の歳月をかけて工事を行った様子が、御影堂や阿弥陀堂の外周廊下でパネル解説されています。

畳は927枚もあります。ゆとりをもって1枚に2人が座っても1,800人ほどが座れます。宗祖・親鸞の年忌法要である報恩講(ほうおんこう)のような重要な行事の際に、全国の門徒で埋め尽くされる圧巻の光景は、東本願寺のアイデンティティの強さを象徴するようです。

【東本願寺公式サイトの画像】 報恩講の法要

一方西本願寺は、石山本願寺への籠城を毛利の水軍が密かに助けていたことから伝統的に毛利氏に近く、分裂前の相続争いで世話になった豊臣とも関係が親密でした。このため江戸時代を通じて、幕府とは一定の距離があったと考えられます。

幕末の禁門の変では、変後に長州藩士をかくまったことから会津藩から攻撃されそうになりますが、直前に回避します。しかし壬生(みぶ)周辺に収容しきれないほどの大部隊となった新選組の屯所として敷地の提供を余儀なくされます。東本願寺のように火災には遭わなかったものの、運営面では苦労が絶えなかったのでしょう。

なお東西両本願寺とも、御影堂と阿弥陀堂は常時公開されており、内部も拝観できます。柱の形や畳の敷方などに違いが見られます。じっくりと両者の個性を楽しんでください。

西本願寺の唐門も、常時すぐ近くで鑑賞することができますが、2018年8発現在、阿弥陀堂内陣・飛雲閣とともに修復工事中で、通常の内外観とは異なります。
【公式サイトの案内】 文化財指定建造物修復工事について

西本願寺の書院・庭園・飛雲閣は、法要に合わせて公開されることがあります。西本願寺は伝統的に、文化財の公開は門徒に対するサービスという考えがあります。そのため門徒でなくても拝観はできますが、法要への参加を求められることもあります。
【公式サイトの案内】 イベント


京都駅から最も近くいつでも楽しめる庭園


渉成園・傍花閣

東本願寺にはもう一つ常時公開されている文化財があります。東本願寺の御影堂門から東に徒歩3分の庭園・渉成園(しょうせいえん)です。

江戸時代初期に三代将軍・家光から土地を寄進され、京都・詩仙堂に隠遁していた文人・石川丈山(いしかわじょうざん)が作庭したと伝えられています。歴代の門主の隠居や賓客の接遇に使われていました。幕末には最後の将軍・徳川慶喜のお気に入りの庭園でした。

池泉回遊式の庭園で情景が変化に富んでいることが特徴です。明治の再建ですが、傍花閣(ぼうかかく)などデザインが興味深い建築も楽しめます。手入れが行き届いた庭では、四季折々の花が人々を迎えてくれます。

ここは関西でも案外知られていません。京都駅のすぐ近くでとても静かな空間を満喫できます。

【公式サイトの案内】 渉成園



京都の精進料理の隠れた魅力を大原千鶴がテンポよく紹介


東本願寺(真宗本廟)
【公式サイト】http://www.higashihonganji.or.jp/

西本願寺(龍谷山本願寺)
【公式サイト】https://www.hongwanji.kyoto/




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京都・祇園祭 ~The 祭り of Japan

2018年06月30日 | 美の殿堂ものがたり

京都の祇園祭(ぎおんまつり)は、日本を代表する最も有名な祭りであることに、ほとんどの人は異論ないでしょう。1,200年前から行われ、その時代の最高級の絵画や絨毯などの美術工芸品で装飾された山鉾は、日本文化の美しさを凝縮したようなオーラを発しています。

7月のほぼ1か月間にわたって行われる様々な関連行事は、京都の街をとても華やかにします。酷暑の中で、たくさんの浴衣姿の男女が見物を楽しむ姿は、まさに日本の夏を代表する光景です。

そんな祇園祭の奥深さを紐解いてみたいと思います。





祇園祭のラインナップはとても豊富

祇園祭の山鉾巡行は、正確には祭りの主役ではありません。八坂神社から街の中心にある四条寺町の御旅所(おたびしょ)に出張鎮座する祭神をのせた神輿が主役であり、神輿が通る道中をあらかじめ清める儀式として山鉾巡行が始まったものです。前祭(さきまつり)・後祭(あとまつり)と2回行われるのは、神輿の往復それぞれの道中を清める意味があります。

山鉾巡行とその前夜祭である宵山(よいやま)の賑わいが、祇園祭では際立って有名ですが、たくさんの行事があってこそ宵山と山鉾巡行が引き立てられていることも事実です。主な行事とその魅力をピックアップします。開催日は毎年日付で固定されています。

7月2日 くじ取り式

  • 京都市議会本会議場で、巡行順が固定されていない山鉾がくじを引いて巡行順を決める
  • 一番くじをどこが引き当てるかで毎年盛り上がり、お祭りムードが実質的にスタートする

7月10日 お迎え提灯 17時頃

  • 八坂神社と四条寺町の御旅所の間を子供中心に提灯行列、神輿洗に向かう神輿を迎える

7月10日 神輿洗(みこしあらい) 20時頃

  • 四条大橋で鴨川の水を振りかけ神輿を清める、その後神輿は八坂神社に戻る
  • 見物人にかかった飛沫は厄除けになると信じられている

7月10~14日 前祭の鉾建て・山建て・曳き初め 

  • 分解収納していた山鉾を各町内で縄だけで組み立てる
  • 山鉾が組み立てられる室町通や新町通などが歩行者天国になる
  • テスト運行の曳き初めは周囲の見物人が老若男女誰でも参加できるため人気

7月14日 前祭の宵々々山(よいよいよいやま)

  • この日から3日間が山鉾巡行の「前夜祭」を意味する宵山期間
  • 提灯などの飾り付け・祇園囃の演奏・町内の屏風などの宝物展示やお守り・朱印の販売が行われる
  • 山鉾搭乗は特に人気、ごく一部の女人禁制の山鉾以外は誰でも搭乗できる

7月15日 前祭の宵々山(よいよいやま)

  • この日と翌日の18~23時に付近の四条通と烏丸通が歩行者天国になり、露店が出る

7月16日 前祭の宵山:よいやま

  • 酷暑の中、例年30万人ほどの人手でごったがえす、祭りムードが最も盛り上がる

7月17日 前祭の山鉾巡行

  • 町衆としての祇園祭の中心的な行事(主催者は祇園祭山鉾連合会)
  • 9:00に先頭の長刀鉾が四条烏丸交差点をスタート
  • 13:30頃にしんがり(最後尾)の船鉾が新町御池交差点に到着し、すべての巡行が終了
  • 狭い新町通りを巨大な鉾が町内に戻っていく姿は勇壮で隠れた人気
  • 各町内に戻った山鉾はすぐに解体される

7月17日 神幸祭:しんこうさい

  • 八坂神社としての祇園祭の中心的な行事(主催者は八坂神社)
  • 18:30時頃、八坂神社から3基の神輿がスタートし、町内を練り歩く
  • 21:30頃までに、四条寺町の御旅所に鎮座する
  • 神輿は7/24の後祭山鉾巡行後に行われる還幸祭までここに鎮座する
  • 御旅所に神輿が鎮座する間に毎晩無言で夜間参拝を行うと、どんな願いも叶うと信じられている
  • 四条寺町の御旅所は、祇園祭期間中以外はお土産ショップとして営業している



神幸祭~還幸祭の間、神輿が鎮座中の御旅所


普段の御旅所はお土産ショップ

7月18~21日 後祭の鉾建て・山建て・曳き初め

7月21~23日 後祭の宵山

  • 歩行者天国にならず、露店も出ない

7月24日 後祭の山鉾巡行

  • 9:30に先頭の橋弁慶山が烏丸御池交差点をスタート、前祭とは逆方向に進む
  • 13:00頃にしんがり(最後尾)の大船鉾が四条烏丸交差点に到着し、すべての巡行が終了

7月24日 花傘巡行(はながさじゅんこう)

  • 10:00八坂神社をスタート、寺町通を経由し河原町通りを後祭山鉾巡行に続いて行列、12:00頃に八坂神社に戻る
  • 1966(昭和44)年に後祭の山鉾巡行が前祭に統合された際に代替として始められた行事、2014年の後祭復活後も継続
  • 山鉾の起源を再現したとされる花傘を中心に、獅子舞・田楽等の古典芸能や子供太鼓・稚児が行列する
  • 最も人気が高いのは祇園近辺の花街の舞妓・芸妓の行列

7月24日 還幸祭(かんこうさい)

  • 17:00時頃、御旅所から3基の神輿がスタートし、町内を練り歩く
  • 22:00頃までに、八坂神社に戻る

7月28日 神輿洗(みこしあらい) 20時頃

  • 四条大橋で鴨川の水を振りかけ神輿を清める、その後神輿は八坂神社に戻る



祇園祭には京都の街の歴史が凝縮されている

祇園祭の起源は、平安京遷都後まもなくのことであり、京都の街の歴史と共に歩んできた祭と言えます。

天変地異を怨霊の祟りと恐れた朝廷は、神泉苑において怨霊を鎮魂する御霊会(ごりょうえ)を行うようになります。869(貞観11)年に行われた御霊会では、諸国の怨霊を鎮めるために全国の国の数を表す66本の矛を立て、疫病からの守護神である牛頭天王(ごずてんのう)を神輿にのせて祀りました。これが祇園祭の起源であり原型であると考えられています。

牛頭天王はまもなく現在の八坂神社の地に祭神として鎮座し、祇園社と呼ばれるようになります。山鉾巡行の始まりはよくわかっていませんが、鎌倉時代末期の記録には登場します。

祭り自体は毎年行われていた時代もあったようですが、祇園社を支配していた延暦寺の都合や、保元の乱や応仁の乱などの戦乱に際しては中断を余儀なくされていました。

室町時代には四条室町(現在の地下鉄四条駅付近)の町衆が経済力を付けます。延暦寺の意向にかかわらず、山鉾を各町内で所有し巡行を自らの手で行うようになります。安土桃山時代から江戸初期にかけては、貿易によって外国からの工芸品が多くもたらされます。現在の山鉾にイスラムや西洋風のデザインの絨毯をはじめとした豪華な飾り付けが見られるのは、町内対抗で富の力と文化のセンスを競った名残です。

現在でも山鉾巡行や宵山など祇園祭のほとんどの行事の主催者は、山鉾を所有する町内会とその連合体である祇園祭山鉾連合会です。八坂神社の主催は、神輿洗・神幸祭・還幸祭など神事に関する一部の行事に限られます。町衆あっての祇園祭であることは、室町時代から変わっていません。


ペルシャ絨毯が鉾ととても調和している

江戸時代に幾度となく起こった大火で、少なからずの山鉾が被害にあい、長期間巡行に参加できない山鉾も相次ぎます。明治維新・第二次大戦などの苦難に際しても町衆たちの熱意により、長期間の中断を回避してきました。

戦後の自動車交通の激化により、巡行ルート変更や前祭・後祭統合を余儀なくされますが、2014年になって再び後祭が行われるようになります。中断していた山鉾の復活も相次ぎ、華やかさを維持・再現しようとする町衆の熱意は今も変わっていません。


祇園祭のトリビア

山と鉾はどう違う?

山鉾を形状や特徴で分類すると以下の5通りになります。長い時間をかけて様々なタイプに進化したため、山と鉾の違いを説明するのは難しくなっています。最も区別がつきにくい曳山(ひきやま)と鉾(ほこ)との外見上の違いは、屋根の上に伸びる真木の高さだけです。


(左)真木が高い、先端に何もつかず中間に榊が付く鉾、鶏鉾
(右)真木が低い、先端は葉の付いた松、岩戸山

大きさや形状の違いに関わらず、山鉾には様々な魅力があふれています。装飾やディスプレイの個性を楽しめるのが本質的な山鉾の魅力でしょう。

  • 曳山と鉾の形状は山鉾として最も著名でもあり、巨体であることから胴体の装飾が存分に楽しめます。また交差点で、竹板に車輪をのせて滑らせて人力で山鉾の向きを変える辻回しの迫力は圧巻です。
  • 屋根がなくコンパクトな舁山(かきやま)は、故事や謡曲の一場面を人形などで再現した屋上のディスプレイに趣向が凝らされています。囃子がないため、見て楽しむ山と言えます。
  • 傘鉾(かさほこ)は前祭に2つだけ行列しますが、囃子方と踊り子が行列するため盛り上がります。従来は傘を持ち歩いていました。


【祇園祭山鉾連合会公式サイトの画像】 舁山の代表例:橋弁慶山(はしべんけいやま)
【祇園祭山鉾連合会公式サイトの画像】 曳山の代表例:岩戸山(いわとやま)
【祇園祭山鉾連合会公式サイトの画像】 鉾の代表例:函谷鉾(かんこほこ)
【祇園祭山鉾連合会公式サイトの画像】 船鉾の代表例:大船鉾(おおふねほこ)
【祇園祭山鉾連合会公式サイトの画像】 傘鉾の代表例:四条傘鉾(しじょうかさほこ)

2018年時点の山鉾のタイプと特徴

  舁山 曳山 船鉾 傘鉾
読み方 かきやま ひきやま ほこ ふねほこ かさほこ
特徴 屋上の多様なディスプレイが見もの 高い真木と大勢の搭乗者
巨体の向きを変える辻回しが圧巻
巨大な船の形 大きな傘と
踊り子
屋根 × 破風付の屋根(地上からの高さ7~8m) ×
重量 1.2~0.5t 10~8t 12~10t 12~9t 0.4t
車輪 見えない 外から見える(直径2m) 見えない
真木 葉付き松(高5m) 葉付き松(高15m) 榊付き(高25m) × ×
最前列 御神体人形 御神体人形 稚児・稚児人形 御神体人形 ×
囃子方 × 約50名が搭乗 歩く
屋根方 × 4名が屋根に搭乗し衝突を監視 × ×
音頭方 × 2名が前方に搭乗し扇子で運行を指揮 ×
曳き方 約20名 40~50名 約10名
該当 前)山伏山ほか12山
後)橋弁慶山ほか6山
前)岩戸山
後)北観音山,南観音山
前)長刀鉾,函谷鉾,菊水鉾,月鉾,鶏鉾,放下鉾 前)船鉾
後)大船鉾
前)綾傘鉾,四条傘鉾

例外:

  • 舁山の中で郭巨山のみ屋根がついています
  • 鉾の最前列に搭乗する稚児は、先頭の長刀鉾以外は人形です
  • 音頭方は、交差点で方向を変える「辻回し」時には4名搭乗します
  • 舁山は曳き方ではなく舁き方と呼ぶ、辻回しなど要所のみ担ぐ、従来はすべて担いで運行していた



くじ改め

くじ引きであらかじめ決められた順番で巡行しているかをスタート直後にチェックする古式にのっとった儀式で、見どころの一つです。烏帽子をかぶった奉行役の京都市長がくじをチェックします。前祭では四条堺町交差点、後祭では京都市役所前で行われます。

なお「くじ取らず」と呼ばれる、毎回巡行順が決まっている山鉾があります。

  • 前祭)先頭1番:長刀鉾、5番:函谷鉾、21番:放下鉾、22番:岩戸山、最後尾23番:船鉾
  • 後祭)先頭1番:橋弁慶山、2番:北観音山、6番:南観音山、最後尾10番:大船鉾
  • 後祭で2022年からの復活が決まっている鷹山は、古来に合わせて最後尾の大船鉾の直前に、くじ取らずで巡行する予定です。



稚児(ちご)


長刀鉾に搭乗している稚児

稚児は祭に際しての神の使いです。10歳前後の少年が務めます。以前は前祭のすべての鉾に搭乗していましたが、現在は先頭の長刀鉾にだけ登場し、他の鉾は代わりの人形をのせます。後祭は鉾がないため稚児は祭りに参加しません。前祭の綾傘鉾にも6人の稚児が参加しますが、こちらは歩きます。

長刀鉾に搭乗する稚児は、保護者に数千万円の費用負担が必要なため、事実上有力な資産家の子息に限定されます。このあたりの事情は、葵祭の斎王代の場合と同じです。

長刀鉾の稚児は、古来町内の子息から選ばれていたため、現在も祭の開始前に町内の代表と形式的に養子縁組します。7月の祭りの開始以降、様々な神事に白塗り化粧で出席します。山鉾巡行に際しては地上を歩くことを禁じられているため、送迎のハイヤーから降りると肩車されて長刀鉾に搭乗します。

巡行スタート直後の四条麩屋町交差点で稚児は注連縄切りを行います。こちらも巡行の見どころで、付近は見物客で全く身動きが取れなくなります。神の使いである稚児が注連縄を切って神の世界への山鉾の進入を許可する儀式です。切る際は本物の太刀を使うため、大人が介添えします。

【Wikipediaへのリンク】 祇園祭




バレエ研究者の目線で見た祇園祭の真髄


祇園祭
https://www.kyokanko.or.jp/gion/(京都市観光協会)
http://www.yasaka-jinja.or.jp/event/gion.html(八坂神社)
http://www.gionmatsuri.or.jp/(祇園祭山鉾連合会)


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明治宮殿と御文庫と迎賓館、それぞれの運命:皇居ものがたり

2018年04月24日 | 美の殿堂ものがたり


二重橋は日本人にとって特別な場所

現在の皇居は、明治になってから天皇の住居になったもので150年ほどしかたっておらず、京都御所の1,000年には時間の積み重ねではまだまだ及びません。しかし今の日本という国を形成した明治以降の激動の歴史が皇居には詰まっています。

第二次大戦中までは宮城(きゅうじょう)と呼ばれていた皇居の歴史の足音を追ってみたいと思います。

皇居は、徳川幕府が明け渡した江戸城に京都から行幸してきた明治天皇の御在所となったことから、天皇の住居としての新たな人生が始まります。当初は西の丸(二重橋を渡った宮殿のあるエリア)に残された江戸城の御殿を使用していましたが、1873(明治6)年に焼失します。

1888年(明治21年)に明治宮殿が完成するまでの間は赤坂離宮の敷地を仮皇居としていました。西の丸に完成した明治宮殿は、終戦直前まで私的な生活の場と公務を行うオフィスとして使用されます。大日本帝国憲法の発布式もこの明治宮殿で行われました。

日米開戦が現実味を帯びてきた1941年4月に防空機能を高めた天皇の住居として「御文庫(おぶんこ)」が着工されます。目立たないよう広大な森だった吹上庭園内(皇居の西半分の半蔵門側のエリア)に建設したもので、1942年7月に完成しています。昭和天皇は徐々に御文庫で過ごす時間が長くなっていきます。

1945年5月、空襲で炎上していた堀を挟んだ対岸の国会前にあった参謀本部からの火の粉を受け明治宮殿が全焼します。木造建築だったこと災いしました。和洋折衷で明治文化の粋を集めた建物でした。現存していれば超一級の文化遺産であったことを疑う余地はありません。

1945年7月には地下防空壕としてすでにあった「御文庫付属室」の防空性能を強化するとともに、御文庫と地下トンネルで接続します。空襲警報が出るたびに昭和天皇はトンネルを通って付属室に避難していました。昭和天皇が終戦を決断した御前会議は、付属室内の会議室で行われています。

戦後、付属室は昭和天皇の意向で放置されてきました。存在をあまり知られていませんでしたが、2015年に宮内庁が朽ち果てた御文庫付属室の現状の写真・映像を公開したことで話題になりました。

【公式サイト】 宮内庁 御文庫附属庫

【読売新聞】2015/8/1 朽ちた「終戦聖断の場」…皇居「御文庫付属室」公開

御文庫の建物は1961年に昭和天皇の住居として建設された「吹上御所」に組み込まれます。宮内庁は皇族の住居を「御所」と呼びます。昭和天皇崩御後も、昭和天皇の皇后であった皇太后の住居「吹上大宮御所」として使用されていました。2000年の皇太后の崩御以降は使用されていません。

現在の今上天皇の御所は吹上大宮御所の南に1993年に新設されました。新宮殿は明治宮殿の跡地に1969年に新設されますが、住居機能を分離し、公務を行う専用施設となりました。皇居内には自由に立ち入ることはできませんが、二重橋から新宮殿の区間のみ見学することができます。


石造りの迎賓館は100年たっても色あせていない

現在の赤坂御用地と迎賓館のある赤坂離宮は、江戸時代は紀州徳川家の中屋敷でした。1873(明治6)年の西の丸御殿焼失の危機に際して皇室に献上され、以来皇族の重要な施設が置かれてきました。

明治天皇は皇太子(大正天皇)のために、赤坂離宮に1909(明治42)年に旧東宮御所を造営します。この際の建物が現存する「迎賓館」です。昭和天皇も皇太子時代に旧東宮御所を住居としていました。

2009年には明治時代製作の文化財として初めて国宝に指定されています。鹿鳴館を設計したお雇い外国人建築家のジョサイア・コンドルの弟子で明治を代表する宮廷建築家の片山東熊(かたやまとうくま)が設計しました。片山は東京・京都・奈良の国立博物館の設計でも知られています。

大正天皇や昭和天皇はこの建物をあまり好まなかったようです。いかにもヨーロッパの宮殿を思わせるようなきらびやかさは、明らかに和の落ち着いた雰囲気とはかけ離れているとお感じになったのでしょうか。石造りのため、高温多湿の日本の夏は大変だったとも思われます。

内部を見学できますが、確かに日本にいるとは思えない空間です。迎賓館は太平洋戦争末期の空襲の被害を受けず生き残りました。明治宮殿は空襲のあおりで焼失しています。迎賓館の中の空間では、運命というものを強く感じさせます。

現在の皇太子の住居は1960年に造営された赤坂御用地内にある「赤坂東宮御所」です。皇太子時代の今上天皇に引き続き、現皇太子が使用しています。2019年の今上天皇の退位後は、現皇太子の住居である東宮御所を仙洞御所として使用する予定になっています。

【Wikipediaへのリンク】 皇居
【Wikipediaへのリンク】 迎賓館

こんなところがあったのか。
日本にも世界にも、唯一無二の「美」はたくさん。



少しずつ国民にオープンになっていった皇居の歴史を紐解く


皇居 参観案内(宮内庁)
http://sankan.kunaicho.go.jp/guide/koukyo.html
迎賓館 赤坂離宮(内閣府)
https://www.geihinkan.go.jp/akasaka/

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日本の歴史を映し出す鏡のような場所:京都御所ものがたり

2018年04月23日 | 美の殿堂ものがたり


1200年の間にはいろいろありました

日本の首都だった京都に天皇が住んでいた期間は1,000年を超えます。そのため現存する京都御所もさぞかし古いのでは?と連想してしまいますが、実は幕末に再建された建物で150年ほどしかたっていません。平安京への遷都後、火災や政治権力争いのあおりで都の中を転々としており、御所が現在の場所に落ち着いたのは南北朝時代です。

1200年の間の京都御所の数奇な運命をたどってみたいと思います。

平安京時代の御所(大内裏)は、現在の京都御所から1.7kmほど西に在りました。現在の千本通が平安京のメインストリート・朱雀大路の位置にほぼ相当します。現在の市街地のメインストリートである烏丸通や河原町通りが平安時代よりもかなり東にずれていることがわかります。

政治の中心として平安京の大内裏が輝いていたのは短い間に過ぎませんでした。平安時代のほぼ中間の960(天徳4)年、内裏が初めて火災で全焼します。この頃は摂関政治を牛耳った藤原氏に権力移行が進み、天皇に政治権力がわずかに残された最後の時代でした。摂関政治の後は上皇が権力を握る院政の時代となり、その後は江戸時代まで武家政権が続くことになります。

内裏の火災は天皇の権力の落日を象徴するような出来事となり、その後も火災は頻発します。

960年の内裏の火災は平安遷都から160年以上たって初めて起きており、その後も火災が頻発します。実に不思議です。この要因として960年頃から儀式が夜間に行われるようになり蝋燭の明かりが火災の原因になったとする説があり、結構納得できます。

天皇は一時的な里内裏を転々とすることが常態化していきます。重要な儀式も、大内裏の大極殿ではなく、里内裏に設けられた紫宸殿で行われるようになっていきます。

平安京の大内裏は平安時代末の院政期には使われなくなっていました。在位中の天皇が政治権力を握れず天皇の住居の近くに政庁を構える必要がなくなったこと、火災で使えない状態が頻発したこと、がその原因と考えられています。

鎌倉時代初期の火災で内裏と大内裏はついに再建されなくなり、内野(うちの)と呼ばれる農村になっていきます。豊臣秀吉の聚楽第が一時的に造営されますが、明治以降に宅地化されます。

平城宮と異なり、宅地化されて発掘調査ができないため、平安京の大内裏の様子は文献に頼らざるを得なくなっています。千本丸太町交差点付近が大極殿の跡地で、児童公園に建てられた石碑でわずかに往時をしのぶばかりです。平安京の大極殿は明治時代に、規模を5/8に縮小して平安神宮・外拝殿として復元されています。

【京都市観光公式サイトの画像】 大極殿跡

現在の京都御所は、南北朝時代の北朝側の光厳天皇が里内裏としていた邸宅が原型です。足利義満や信長といった時の権力者が自らの威光を示すべく整備を進め、秀吉の時代に京都御所の周りに公家の屋敷が集約され、現在の京都御苑のエリアがほぼできあがります。


京都御所はいつでも見学できるようになりました

江戸時代だけで6回も火災にあっていますが、幕府がすぐに再建していました。現在の京都御所の建物は、幕末の1855(安政2)年に建てられたものです。紫宸殿と清涼殿は古式にのっとって寝殿造で再建されています。明治・大正・昭和天皇の即位の礼が紫宸殿で行われました。

御所内の建物は、明治の初めと太平洋戦争中に解体されており、現在は幕末再建時の半分程度にとどまっています。

京都御所周辺の公家屋敷は、東京遷都に伴い公家も東京に移住したため、荒れ放題になっていました。それを嘆いた明治天皇が保存を命じ、巨大な公園として整備され、現在の京都御苑に至ります。

御苑内では、九条邸の茶室と庭園、閑院宮邸跡地がわずかに江戸時代の面影をとどめています。御苑外の喧騒から隔離されたとても静かな空間です。いずれも見学できます。

京都御所の東側にある現在の仙洞御所は、1627(寛永4)年に後水尾上皇の邸宅として幕府が造営したものです。1867(慶応3)年の火災で建物は焼失し、庭園だけが現存しています。

仙洞御所に隣接する大宮御所は、仙洞御所とともに後水尾上皇の后・東福門院の邸宅として幕府が造営したものです。現存する御殿は1867(慶応3)年に孝明天皇の英照皇太后のために造営されました。この際に仙洞御所の庭園と一体化され、明治以降は皇室や国賓の宿舎として利用されていました。

現在、国賓の宿舎の機能は隣接する京都迎賓館に移りましたが、皇室の宿舎としては引き続き使用されています。


仙洞御所の大自然は江戸時代から変わらない

こんなところがあったのか。
日本にも世界にも、唯一無二の「美」はたくさん。



四季を通じた京都御所の「雅」を愚直に伝える写真集


参観案内(宮内庁)
http://sankan.kunaicho.go.jp/index.html
京都御苑(環境省)
http://www.env.go.jp/garden/kyotogyoen/index.html

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