美の五色 bino_gosiki ~ 美しい空間,モノ,コトをリスペクト

展覧会,美術,お寺,行事,遺産,観光スポット 美しい理由を背景,歴史,人間模様からブログします

旧:甲子園ホテル_100年前の夢の国、絶妙のモダニズム建築

2019年01月11日 | 城・屋敷・歴史遺産

兵庫県西宮市にある旧:甲子園ホテルを訪れました。現在明治村に移築されている、帝国ホテルの旧:ライト館と並び称される、戦前を代表するモダン建築です。現在は武庫川女子大学のキャンパス・甲子園会館として使用されています。

  • フランク・ロイド・ライトの愛弟子である遠藤新(えんどうあらた)の設計で、1930(昭和5)年に竣工
  • 戦前は日本屈指の高級リゾート・ホテルで、国内外の要人や名士が集うサロンだった
  • 和洋折衷のデザインは、20c初頭に花開いた日本のモダニズム文化を象徴


甲子園は、主に阪神電鉄が開発した高級住宅街であり、リゾート地でもありました。甲子園球場も甲子園ホテルと同じ頃、1924(大正13)年に竣工しています。阪神間モダニズムと呼ばれ、日本でも屈指の高級住宅地として急成長していたエリアの遺構がそのままのこされているのです。



甲子園ホテルは当初、現在の甲子園球場の近くに建設が予定されていました。甲子園球場の南側には遊園地・動物園・テニスコート・ゴルフ場に加え、現在の阪神競馬場の前身の鳴尾競馬場がありました。日本屈指の一大レジャー集積地だったのです。

ホテル支配人になる林愛作(はやしあいさく)と設計者の遠藤新が球場付近に難色を示し、球場より2kmほど北、武庫川沿いの風光明媚な高台の現在地に建設されることになりました。

林愛作は帝国ホテルの経営を軌道に乗せたホテルマンのプロで、欧米に日本美術を売りさばいた美術商・山中商会のニューヨークの店で活躍した美術のプロでもありました。林が帝国ホテル新館(ライト館)の設計をライトに依頼したのは、ライトが山中商会の顧客だったという縁があります。しかし新館の竣工直前に帝国ホテル創業時の本館が焼失し、林は責任を取って支配人を辞任します。

林は帝国ホテルで果たせなかった新館のお披露目を、甲子園ホテルに重ね合わせたと思われます。大衆が集まる球場付近からの建設地変更を主張したのも、ホテルの高級感を保ちたかったような気がしてなりません。


明治村:旧帝国ホテル・ライト館(中央玄関)

遠藤新は、予算オーバーと工期遅れで建設中に辞任したライトを引き継ぎ、帝国ホテルの新館を完成させます。遠藤の作品として重要文化財に指定されている2棟の内、芦屋市にある灘の酒造会社・櫻正宗の社長・山邑家の別邸(現:ヨドコウ迎賓館)はライトからの引き継ぎ、池袋にある自由学園の明日館はライトとの共同設計です。

帝国ホテルのライト館と旧:甲子園ホテルは趣が似ています。遠藤は生涯を通じてライトに心酔していたと考えられています。趣が似るのは自然の成り行きでしょう。

【公式サイト】 建物の室内外の画像が掲載されています

建物は立体が複雑に組み合わされ、空間を舞っているような美しさがあります。ライト設計の特徴である、随所で空に大きく突き出た庇(ひさし)は、この印象をさらに強くしています。一方違いがほとんど気付かれないほどシンメトリー(左右対称)に配置された建物が、外観に落ち着いた印象を与えます。モダニズムの斬新さを、突飛感を与えずに表現しているデザインは本当に見事です。

この設計思想は室内空間においても同様です。旧甲子園ホテルは高台の傾斜地に造らており、北の正面玄関と南の庭園では高低差が3mあります。いわゆる中2階やロフトのような、基本階層から少しずれた空間を多用しており、初めて訪れる人は夢の国へ誘われるような印象を与えます。

逆説的に言うと、現代では常識のバリアフリーの概念には全く反することになります。高低差のある部屋をつなぐ階段がとてもたくさん作られているからです。



打出の小槌や水玉の意匠が随所に施されており、空間に上質な印象を与えています。打出の小槌は旧・甲子園ホテルのシンボルで、縁起や経営の安定を願ったのでしょうか。水玉は林にとって痛恨となった火災を防ぐ思いが込められたのでしょうか。関係者の様々な思いを感じます。

庇や壁には欄間のように穴があけられ、特定の時期だけ光が当たるよう緻密に設計されています。1Fにある防火水槽と茶室の蹲(つくばい、手水鉢)の役割を担った泉水(せんすい)には、冬至の日の午前中だけ、中央にデザインされた打出の小槌に太陽光が差し込むよう仕掛けられています。泉水に落ちる水音は、水琴窟のように神秘的に聞こえるようにも設計されています。

武庫川女子大学では近年、冬至の日の午前中に見学ツアーを設定しています。泉水のある部屋に線香をたいて、差し込む光が幻想的に写真撮影できるよう、粋な計らいもしています。天候に左右されますが、この日のツアーは大人気のようです。

旧:甲子園ホテルは、戦前の華やかな時代を上流階級が楽しめるよう、まさに贅の限りを尽くした空間です。しかしホテルとして営業していたのはたった14年間でした。1944(昭和19)年に海軍に接収された後は、進駐軍に使用されます。その後は1965(昭和40)年に武庫川女子大学の所有になり、現在に至ります。1995年の阪神淡路大震災でも建物は無事でした。

短命だったホテルとしての空間からは、はかなさのようなものも感じます。そんな”ここにしかない”空間は、近年はロケ地としても注目されています。映画「ALWAYS・続三丁目の夕日」「日本のいちばん長い日」に続き、現在放送中のNHK朝の連続テレビ小説「まんぷく」でも、ヒロインの独身時代の勤務先や結婚式の会場として使用されました。

【NHK「まんぷく」公式Instagram】 福ちゃん、萬平さん、ご結婚おめでとうございます

100年前の夢の国です。よくぞのこっていてくれた、と言いたいものです。

こんなところがあります。
ここにしかない「空間」があります。



戦前に阪神間は輝かしいライフスタイルを提案していた

________________________________

武庫川女子大学
甲子園会館(旧:甲子園ホテル)
【武庫川女子大学公式サイト】

※大学のキャンパスとして建物は現在も使用されています。
※月4~5回程度、日時を設定された見学日のみ、事前に申し込んだ上で見学できます。

【武庫川女子大学公式サイト】 甲子園会館の見学について



◆おすすめ交通機関◆

JR神戸線「甲子園口」駅下車、南口から徒歩10分
※阪神電車「甲子園」駅からは徒歩30分かかります。
JR大阪駅から一般的なルートを利用した平常時の所要時間の目安:30分
大阪駅→JR神戸線・普通→甲子園口駅

【公式サイト】 アクセス案内

※この施設には駐車場はありません。


________________________________

→ 「美の五色」とは ~特徴と主催者について
→ 「美の五色」 サイトポリシー
→ 「美の五色」ジャンル別ページ 索引 Portal

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸時代の三井の本拠地は京都だった_三井越後屋京本店記念庭園

2018年12月22日 | 城・屋敷・歴史遺産

京都の現代のメインストリート・烏丸通のすぐ西側の室町通りは、江戸時代以来の繊維問屋街です。その一角に、江戸時代に日本最大級の豪商だった三井家の本店の跡地が、ひっそりと佇んでいます。

  • 三井家の本拠は明治になるまでは京都であり、江戸・日本橋は出先に過ぎなかった
  • 三井家の商売の原点をしのべる場所として、三井不動産によって現在も大切に守られている


江戸時代に高級呉服の生産で繁栄していた京都の輝かしい時代をしのべる場所でもあります。歴史の重みを感じさせる一角です。


室町通に建つ門

三井家興隆の礎を築いた四代・高利(たかとし)は、1673(延宝元)年に京都に呉服の仕入れ店を開業し、三井家の本拠を定めました。この仕入れ店は記念庭園のある室町二条ではなく、少し南の室町蛸薬師にありました。

高利は当時の商人たちが理想とした江戸店持京商人(えどだなもちきょうあきんど)を軌道にのせます。京都を本拠にして出先の江戸で商売するやり方です。江戸時代の高級呉服の生産地は京都の西陣であり、京都で仕入れた呉服を大消費地である江戸や大阪で売りさばき、成功したのです。

高利は死に際して、子たちが力を合わせて商いを行うよう遺言します。高利の長男が相続した北家(ほっけ)を惣領家とし、他の10家とあわせた三井十一家で共同経営を行いました。この共同経営のシステムは、戦後に財閥解体されるまで続いていました。

現在の記念庭園は、室町蛸薬師の本店が手狭になったため、1704(宝永元)年に室町二条に移転した敷地の一部です。明治になって三井家が本拠を東京に移して以降も、三越京都支店として1983(昭和58)年まで営業を続けていました。閉店後敷地は売却されますが、1/10以下のわずかな土地だけを残し、三井不動産が三井家の商売の原点の地として守り続けていくことになったのです。



記念庭園は公開されていませんが、門の横の欄間からわずかに内部をうかがうことができます。シンプルな庭園と朱い鳥居が見えます。鳥居は三国稲荷大明神で、江戸時代に本店があった頃から祀られています。白壁で囲まれた記念庭園の敷地は、オフィスの多い周囲の町並の中では異彩を放っています。ここが特別な空間であることをうかがわせます。

室町通は現在も呉服を扱う会社が多く立ち並んでいます。祇園祭で豪勢な飾りつけを競った富裕な町衆の多くは呉服で財を成しており、室町通は京都でも有数のお金持ちが住むエリアでした。祇園祭の山鉾を出す町が現在も室町通周辺に集中しているのは、この江戸時代の名残です。記念庭園の一角は、そんな華やかな時代を今に伝える生き証人です。


記念庭園の門に刻まれた家紋

三井北家にとって京都にはあと二つ思い出の地があります。一つは、二条城の向かい、現在のANAクラウンプラザホテル京都と京都国際ホテル跡地にあった屋敷です。明治以降の京都における邸宅として使用していましたが、1958(昭和33)年にこの敷地を手放していました。

2014年に営業を終了した京都国際ホテルの跡地は、現在三井不動産が取得しており、高級ホテルの建設が進められています。半世紀の時間を経て、三井グループの中核企業が思い出の地を買い戻した形になります。特別な地に建設されるホテルがどのような姿になるか、今から楽しみです。

もう一つは2016年から一般公開されている旧三井家下鴨別邸です。現存する三井北家が使用していた建物はほとんどないため、三井北家の財力と趣味がうかがえる貴重な建物です。明治から大正にかけての趣を色濃く残し、重要文化財に指定されています。こちらは常時公開されています。

こんなところがあります。
ここにしかない「空間」があります。



三井家は知っていても三井高利は知らない

________________________________

三井越後屋 京本店 記念庭園
【三井広報委員会 公式サイト】 三井越後屋 京本店 記念庭園

※庭園は常時公開されておらず、敷地内に立ち入ることはできません。次の公開時期は未定です。
※外観はいつでも無料で見学できます。



◆おすすめ交通機関◆

地下鉄烏丸線「丸太町」駅下車、6番出口から徒歩3分

JR京都駅から一般的なルートを利用した平常時の所要時間の目安:15分
京都駅→地下鉄烏丸線→丸太町駅

※この施設には駐車場はありません。
※道路の狭さ、渋滞と駐車場不足により、健常者のクルマによる訪問は非現実的です。


________________________________

→ 「美の五色」とは ~特徴と主催者について
→ 「美の五色」 サイトポリシー
→ 「美の五色」ジャンル別ページ 索引 Portal

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大連 現代博物館|美の五色 ~歴史の展示が素晴らしい博物館

2018年12月07日 | 城・屋敷・歴史遺産

中国・大連の現代博物館はとても興味深い博物館でした。日本による侵略や共産党のプロパガンダばかりを強調する展示ではなく。ロシアと日本の統治時代を「多元文化的交流与融合」の時代として紹介していることがとても印象に残ります。正直、意外でした。

  • 大連の街がロシア人と日本人によって造られたという歴史を忠実に伝えている
  • 戦前の街のジオラマから活気がよく伝わってくる
  • 古い写真や地図など史料がきちんとのこされている


展示に工夫が見られ、どの部屋も興味深く見ることができます。大連と日本の関係の深さがとてもよくわかる博物館です。


展示室の入口

大連現代博物館は市の中心部から少し南にありますが、地下鉄の駅が近く訪れるには便利です。黄海に面した海辺の巨大な星海公園の北端に、2002年に設けられた比較的新しい博物館です。

星海公園は、戦後にゴミ捨て場として使われていた海を埋め立てて造った世界最大級の広場で、付近は超高級マンションが立ち並んでいます。正面の海には長大な道路橋が架けられており、夜景の人気スポットにもなっています。中国の経済発展の勢いを象徴するような場所でもあります。

解説は中国語しかありませんが、漢字なので固有名詞を中心に何となくわかります。港や中山広場、鉄道が建設されていく様子が、写真や古地図を用いて丁寧に解説されています。日露戦争での旅順港と203高地の激戦の様子にも、日本人は目が止まります。


203高地の激戦

江戸東京博物館や大阪歴史博物館の常設展示のように、日本の博物館でも昔の町並をジオラマ再現した展示は人気があります。何といってもわかりやすいですし、その精巧さによくぞ作ったと感心することもたびたびです。

大連現代博物館のジオラマも実によくできています。浪速町と呼ばれた戦前の繁華街はとても活気があり、整然とした街並みは美しくもあります。満州への玄関口として繁栄した当時はさぞかし楽しかった時代だったと想像できます。タイムスリップしてみたくなるほど興味深い展示が目白押しです。


昔の町並をバックに記念撮影

大連現代博物館の展示を見終わると、ロシアや日本の文化を多様性としてとらえ、客観的に史実を紹介しているという印象がのこります。ジオラマなど鑑賞者を楽しませる工夫もきちんとしています。中国の博物館はまだまだこうした工夫は少ないのが現状です。大連を訪れた際は、ぜひ足を運んでほしいと思います。


旧:満鉄本社


満鉄調査部が入居していたビル

大連現代博物館でも膨大な昔の資料がのこされていることを感じますが、市内には中山広場以外にも歴史的建造物がとても多く残されています。

中山広場の近くには、満鉄(南満洲鉄道株式会社)の本社と、優秀なシンクタンクとして名を馳せた調査部の建物がのこされています。満鉄といえば、中国の人にとっては日本による東北部侵略を象徴するような会社に思えてなりません。憎悪の対象となっても不思議ではないように思えますが、破壊することなく使用し続けています。

大連には日本の現代史の足跡がとてもたくさんのこっています。日本国内にはこのようなところはもはやのこっていません。

こんなところがあります。
ここにしかない「空間」があります。



大連は20c東アジア帝国主義の最前線都市だった

________________________________

大連現代博物館
(中華人民共和国遼寧省大連市)
【公式サイト(中国語)】http://www.dlmodernmuseum.com/
【JTB観光情報サイト】 大連現代博物館

原則休館日:なし月曜日
入館(拝観)受付時間:9:00~15:30(春夏は~16:00)



◆おすすめ交通機関◆

大連地下鉄1号線「会展中心」駅下車、徒歩5分
大連周水子国際空港から一般的なルートを利用した平常時の所要時間の目安:45分
大連周水子国際空港(大连周水子国际机场)→機場駅(机场站)→大連地下鉄2号線(大连地铁2号线)→西安路駅(西安路站)→大連地下鉄1号線(大连地铁1号线)→会展中心駅(会展中心站)


________________________________

→ 「美の五色」とは ~特徴と主催者について
→ 「美の五色」 サイトポリシー
→ 「美の五色」ジャンル別ページ 索引 Portal

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本現代史の象徴 大連 中山広場|美の五色 ~近代建築群は歴史の生き証人

2018年12月06日 | 城・屋敷・歴史遺産

中国・大連を訪れました。大連は、戦前に租借地として日本が統治し、旧:満州国経営の一大拠点としていた都市です。市内の中心にある中山広場(ちゅうざんひろば)を取り囲む近代建築群には、そんな歴史の重みを感じさせる美しい景観がのこされています。

  • 数多くのこされた近代建築が、街並のエキゾチックな趣を形成している
  • 上海のバンド(外灘)と並ぶ中国有数の美しい近代建築群
  • 日本の現代史を物語るこのような稀有な空間は、日本にない


大連には現在も多数の日系企業が進出しており、日本との関係の強さは今も昔も変わっていません。そんな歴史の生き証人でもある中山広場をゆっくり歩いてみました。


旧:大連ヤマトホテル

大連は意外なことに、中国ではかなり歴史が浅い都市です。1898年にロシアが旅順と大連を租借し、街の建設を始める以前は歴史にもほとんど登場しないような一寒村でした。ロシアは極東経営の拠点として、冬にも凍らず水深が深い天然の良港に目を付けたのです。大連市街から西へ50kmほど離れた遼東半島の先端にある旅順は軍港として、大連は貿易港として、ロシアによって街づくりが進んで行きます。

日露戦争を講和するポーツマス条約により、1905(明治38)年に旅順と大連の租借権はロシアから日本に譲渡されます。1945(昭和20)年の終戦までの40年間は、日本によって街づくりが進められました。


レトロな市電

大連の中心部は、中山広場のように広場から放射状に広がる道路と街割りが目立ちます。ロシアがパリをモデルに街割りを形成した名残です。市街戦や空襲を免れたことで歴史的建造物が多く残され、独特のエキゾチックな街の趣を醸し出しています。


中山広場から見る大連の摩天楼

中山広場は直径200mもある巨大な円形で、外周はロータリー交差点として膨大な数の自動車が行き交っています。広場の周囲には、日本一高いビルである大阪のあべのハルカスの高さ300mを優に超す超高層ビルが林立しています。低層の近代建築群の借景となるようにそびえたつ光景は、中国の経済成長のすさまじさを象徴しているように感じられます。

【Wikipediaの画像】 大連中山広場近代建築群

中山広場からは10本の道路が放射状に広がっており、各道路の間に10棟の歴史的建造物が建っています。最も古い建物は、大連のメインストリート・中山路の南側にある旧:大連民政署(現:遼寧省対外貿易経済合作庁)です。日本による大連統治の行政機関で、1908(明治41)年に建てられました。中山広場の近代建築群の中では唯一の赤レンガの建物で、オランダ風のデザインが印象的です。

中山路をはさんで旧:大連民政署の北側にある旧:朝鮮銀行大連支店(現:中国工商銀行中山広場支行)は、正面玄関の石柱が凛々しい1920年のルネサンス様式の建築です。

朝鮮銀行は、日本による旧朝鮮植民地の中央銀行で、現在のあおぞら銀行(旧:日本債券信用銀行)の前身です。中山広場近くに本社のあった満鉄(南満洲鉄道株式会社)、中山広場にある旧:東洋拓殖株式会社大連支店(現:交通銀行大連市分行)と旧:横浜正金銀行大連支店(現:中国銀行遼寧省分行)とともに、日本の中国東北部経営をリードした国策会社の中心オフィスでした。


旧横浜正金銀行大連支店

中山広場の北側には、ガラス張りの巨大ビルを借景にした旧:横浜正金銀行大連支店があります。ガラス張りの巨大ビルは、この建物のオーナーである中国銀行のオフィスです。日本統治時代の中心的な銀行オフィスを見下ろすように建てられていることに、現代の中国の存在感を如実に感じます。

建物はロシア風ですが、横浜の旧:正金銀行本店(現:神奈川県立歴史博物館)や旧:横浜新港埠頭倉庫(現:赤レンガ倉庫)を設計した妻木頼黄(つまきよりなか)による設計です。

中山広場の南側には、日本人にとって最も郷愁をそそられる重厚な石造りの旧:大連ヤマトホテル(現:大連賓館ホテル)があります。満鉄が欧米の最高級ホテルに伍するよう威信をかけて作り上げたホテルで、1914(大正3)年に竣工しました。

当時の日本人にとっては、満州という新天地へのゲートウエイとなる宿泊施設で、日本による満州国経営の象徴的な存在でした。100年に渡ってホテルとしての営業し、内部の見学ツアーも行ってきましたが、2017年に休業しています。2019年に修復工事を経て営業が再開されるという報道があります。大連の歴史的建造物の象徴でもあり、ホテルと内部見学ツアーの営業再開を待ちたいものです。



中山広場を歩いてみて、近代の日本と中国の関係を物語る遺跡が如実にのこされていることに、あらためて気持ちを深くしました。中山広場の近代建築群は、現在も現役のオフィスとして使われており、観光目的で室内の見学はできません。外観だけから往時をしのぶことになりますが、室内を見られないだけにかえってノスタルジック感を強めます。

日本が”一等国”であることを世界に強烈に主張していた戦前の面影は、日本国内にはここまでのこっていません。歴史の足跡を国外に求めなければならないのは、世界でもよくある宿命です。

こんなところがあります。
ここにしかない「空間」があります。



戦前の日本政治を生き写した中国の三都市の物語

________________________________

中山広場
(中華人民共和国遼寧省大連市)
【日本人観光客向け大連観光情報サイト】大連PRESSによる観光案内
【大連市観光極公式日本語サイト】 中山広場

※見学に条件はありません。いつでも無料で拝観・見学できます。



◆おすすめ交通機関◆

大連地下鉄2号線「中山広場」駅下車、徒歩1分
大連周水子国際空港から一般的なルートを利用した平常時の所要時間の目安:45分
大連周水子国際空港(大连周水子国际机场)→機場駅(机场站)→大連地下鉄2号線(大连地铁2号线)→中山広場駅(中山广场站)


________________________________

→ 「美の五色」とは ~特徴と主催者について
→ 「美の五色」 サイトポリシー
→ 「美の五色」ジャンル別ページ 索引 Portal

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

横浜 三溪園 古建築に紅葉が映える ~原三溪は理想郷をのこした

2018年12月02日 | 城・屋敷・歴史遺産

横浜・本牧(ほんもく)にある三溪園(さんけいえん)は、庭園と古建築が調和した風景を四季折々に楽しめる名園として、首都圏ではすっかりおなじみです。明治時代に横浜の生糸貿易で財を成した原三溪の邸宅の跡で、荒廃や取り壊しの危機にあった12棟もの重要文化財の古建築が全国から移築されています。

原は三井家の大番頭・益田孝と並んで明治を代表する美術コレクターでもありました。原は三溪園に美術館を造る構想を練っていましたが実現せず、戦後に美術品の多くを手放すことになります。三溪園は原の愛した美術品や空間の中で唯一、往時のままにほぼのこされたものです。

紅葉期には古建築の一部を間近で鑑賞できるようになります。秋の木々の鮮やかな色使いと古建築のシックな趣は、実に贅沢に調和しています。日本を代表する名園の一つです。



三溪は原の茶人としての号で本名は富太郎です。1868(慶応4)年に岐阜で生まれ、横浜の生糸の豪商だった原家の入り婿となります。原家の事業を近代化して大きく拡大し、現在の横浜銀行の初代頭取になるなど、横浜の財界を代表する名経営者となっていきます。

原は事業家としても蒐集家としても”公共の利益”を重視した人物でした。横浜銀行は経営破綻した銀行を立て直すために設立されており、関東大震災の際にも私財を投げ打って横浜の復興を進めていました。

自らのコレクションや庭園を一般公開するという発想はほぼ皆無だった1906(明治39)年に、庭園を一般に無料公開しています。小林古径や前田青邨ら若手画家の支援も行っており、同時代のアメリカの大コレクターのようなフィランソロピーの考え方を持っていました。

【三溪園公式サイトの画像】 鶴翔閣

原は1902(明治35)年に鶴翔閣(かくしょうかく)を建て、野毛山から本宅を移します。野毛山の本宅跡地は現在の野毛山公園の一部になっています。鶴翔閣は、多くの芸術家が集って原と語り合い、原の収集品を鑑賞するサロンでもありました。また若手画家の制作の場ともなり。日本の近代美術の発展の上でとても意義のある空間でした。


三溪記念館と内苑への入口

三溪園は大きく内苑と外苑に分かれており、内苑がプライベートなエリアで、外苑は一般公開していたエリアでした。茶道を楽しめるような美的価値のある古建築の多くは内苑にあります。

内苑の入口には1989年に造られた三溪記念館があります。三溪の活躍の足跡や三溪園にのこされた蒐集美術品の展示を行っています。三溪の器の大きさがよくわかる展示がなされています。

【三溪園公式サイトの画像】 臨春閣

臨春閣(りんしゅんかく)は、三溪園の美しさを代表する建築です。和歌山にあった紀州徳川家の別荘で、重要文化財です。桂離宮を思わせるような静かで凛とした数寄屋風の外観を随所から見ることができます。

【三溪園公式サイトの画像】 聴秋閣

2018年紅葉期に公開されている聴秋閣(ちょうしゅうかく)の美しさは、臨春閣と並んで三溪園の双璧と言えるでしょう。家光が二条城内に造らせた茶室で、軽妙な楼閣のデザインがとても印象的です。重要文化財です。



ゆっくり見て回ると半日は過ぎてしまうほど広大な庭園は、山・谷・川・池とあらゆる大地の造形を活かし、とても多様な表情を見せてくれます。一つの庭園でこれだけ多様な表情を楽しめるところは日本で随一と言えます。

園内には17棟の建物があり、内14棟が移築されたものです。重要文化財も12棟にのぼります。そのすべてが完璧なまでに庭と調和しています。移築した建物をどこに配置するか、建物に合わせて庭の雰囲気をどう変えるか、原の美意識の高さには驚愕します。

三溪園で惜しむらくは、原の存命中は園から海が見えたことです。戦後に埠頭として埋め立てられたため、現在は人工物が見えないよう植生で目隠しをしています。第二次大戦の空襲では庭園は大きな被害を受けましたが、古建築は多くが難を免れました。

日本の木造建築は分解できるため移築は珍しくありません。茶室のように小さい建物はなおさら頻繁で、例えば国宝の茶室・如庵は3回も移築されています。原のような”白馬の天使”が登場してこそ、場所は変わっても建物の美しさは延命されます。原のように見事に庭と調和させてもらえれば、元あった場所よりさらに美しくなっているかもしれません。

三溪園は、原が目指した美の理想郷を今に伝える稀有な空間なのです。



こんなところがあります。
ここにしかない「空間」があります。



三溪園に移築された建物をきちんと理解する

________________________________

三溪園
紅葉の古建築公開 ―重要文化財2棟 聴秋閣と春草廬、遊歩道の公開
【三溪園による公開案内】

会期:2018年11月17日(土)~12月9日(日)
原則休館日:公開期間中無休
入館(拝観)受付時間:9:00~16:30

※古建築の公開は毎年、ゴールデンウジークと秋(紅葉期)に、公開対象を入れ替えながら行われています。
 室内には立ち入れませんが、襖や障子が開けられ、間近から室内を鑑賞することができます。
※古建築の内、鶴翔閣は毎年正月と盆に室内が公開されています。

三溪園
【公式サイト】 https://www.sankeien.or.jp/

原則休館日:12/29-31
入館(拝観)受付時間:9:00~16:30

※立入禁止エリア以外にある古建築は常時、少し離れた位置から外観を見学することができます。



◆おすすめ交通機関◆

横浜駅東口2番のりばから横浜市営バス8/148系統で「三溪園入口」下車、徒歩5分
JR東京駅から一般的なルートを利用した平常時の所目安:1時間20分
東京駅→JR東海道線→横浜駅→東口2番のりば→横浜市営バス8/148系統→三溪園入口

【公式サイト】 アクセス案内

※この施設には有料の駐車場があります。
※道路の狭さ、渋滞と駐車場不足により、健常者のクルマによる訪問は非現実的です。


________________________________

→ 「美の五色」とは ~特徴と主催者について
→ 「美の五色」 サイトポリシー
→ 「美の五色」ジャンル別ページ 索引 Portal

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

百段階段で戦前にタイムスリップ ~東京 目黒 雅叙園で12/24まで

2018年12月01日 | 城・屋敷・歴史遺産

東京・目黒の雅叙園(がじょえん)と言えば、今年2018年に創業90周年を迎え、結婚式場の老舗としてすっかり定着しています。その老舗イメージを象徴する空間であり、創業当時の面影を見事にのこす木造建築・百段階段の空間美を純粋に楽しめる展覧会が行われています。

1935(昭和10)年に建てられた百段階段は、「昭和の竜宮城」と呼ばれていた雅叙園創業時の建物の中で唯一現存します。鏑木清方(かぶらききよかた)ら当代一流の芸術家に託され造られた各部屋の個性のある装飾からは、戦争の足音が近づく中で非日常の空間を楽しんだ当時の人たちの笑い声が聞こえてくるかのようです。

保存状態が良く、とても大切に保存されていることが分かります。ジブリ映画「千と千尋の神隠し」の湯屋の内装のモデルにもなった空間です。戦前へのタイムスリップ気分をぜひお楽しみください。



雅叙園は当初、1928(昭和3)年に芝浦で料亭として開業し、1931(昭和6)年に現在地に移転しています。日本最古の結婚式場と考えられており、結婚式という特別な瞬間を華やげるよう、豪華な空間美の造形に徹底的にこだわっていたようです。百段階段が建てられた1935(昭和10)年は2・26事件の前年です。軍部の締め付けが厳しくなる中で、どうやってこんな”贅沢”を造れたのかが不思議でなりません。

百段階段は、目黒川の段丘の斜面にそって少しずつ斜面をあがるよう建てられた建物を、一直線につなぐ階段にその名を由来しています。現在も目黒駅から雅叙園のある目黒川沿いに向かうと急な坂を下ります。坂の多い東京でもかなりの急な坂で、階段にした方がよいと思えるほどです。


ホテル雅叙園東京の正面玄関

雅叙園の正面玄関の起り(むくり)屋根は、大きな瓦葺きの屋根の中間が通常のカーブとは逆に膨らんでおり、借景となったビルのガラス壁面にもよく調和しています。この玄関を入った左側に百段階段への入口があります。


百段階段のスタート地点

百段階段のスタート地点から上に続く階段を眺めると、遠近法で先端はほとんど見えなくなります。窓が少なく日中でも暗い階段を、上質なライトの光が足元だけを照らしています。まさに竜宮城へとあがって行くように高揚感を最初から盛上げてくれます。階段の壁に装飾はありませんが、窓の組子のデザインはとてもモダンです。天井絵にもこだわりを感じます。和風建築は天井絵でその空間の格式や豪勢さをさりげなくアピールします。

【ホテル雅叙園東京公式サイト】 百段階段と室内の画像が掲載されています

7つの部屋は個性が異なり、上に行くほど趣がよりシンプルで洗練されていくような印象を受けます。しかし障子の組子のデザインや、大きめの天井画を描ける格(ごう)天井の枠の大きさには共通性も感じます。客の格式や好みに応じて趣向を変えながらも、雅叙園としての共通のアイデンティを伝える工夫をしたのでしょう。

3つ目の草丘(そうきゅう)の間は、障子に覆われ光を取り込むことができる部屋です。外の風景と調和するような欄干の松原や天井の草花の絵が目を引きます。

6つ目の清方(きよかた)の間には作者の日本画家・鏑木清方の名が冠されています。装飾はシンプルですが、床柱のほか、部材の上質さが目立ちます。そんな上質な空間の中に、清方らしい清楚な美人画が実に品よく配されています。

最上部の頂上(ちょうじょう)の間は、華族の邸宅のような空間です。天井画を除いて側面には絵は描かれずとてもシンプルです。この部屋も障子に囲まれ外光を取り入れることができます。

展覧会期間中、この部屋でショートムービー「In the Still Night」が上映されています。11月にパリで行われた日本政府主催の日本文化をPRするイベントで、ミュージアムホテルとしてホテル雅叙園東京を紹介したものです。映像の美しさにはとにかく息をのみます。

戦前の人々に愛された非日常空間が現存していることは驚きです。企画展開催時に公開される百段階段は、空間に展示物があります。今回のように空間美そのものを体験できる機会は貴重です。

こんなところがあります。
ここにしかない「空間」があります。



明治~戦前、東京レトロ建築ガイドの決定版

________________________________

ホテル雅叙園東京
創業90周年特別企画 百段階段展
【展覧会公式サイト】

会期:2018年11月29日(木)~12月24日(月)
原則休館日:会期中は無休
入館(拝観)受付時間:10:00~16:15(金土曜~19:15)

※この展覧会は、非営利かつ私的使用目的でのみ、撮影禁止作品以外の会場内の写真撮影とWeb上への公開が可能です。ただしフラッシュ/三脚/自撮り棒/シャッター音は禁止です。
※百段階段は一般公開されていません。企画展開催時もしくは食事つきツアーへの参加時に公開されます。



◆おすすめ交通機関◆

JR山手線「目黒」駅下車、西口から徒歩5分
東急目黒線・東京メトロ南北線・都営地下鉄三田線「目黒」駅下車、正面口から徒歩5分

JR東京駅から一般的なルートを利用した平常時の所要時間の目安:30分
東京駅→JR山手線→目黒駅

【公式サイト】 アクセス案内

※この施設には有料の駐車場があります。


________________________________

→ 「美の五色」とは ~特徴と主催者について
→ 「美の五色」 サイトポリシー
→ 「美の五色」ジャンル別ページ 索引 Portal

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

橋本関雪が庭園に美意識を表現 ~京都 白沙村荘

2018年11月26日 | 城・屋敷・歴史遺産

銀閣寺へ向かう参道に、橋本関雪(はしもとかんせつ)が愛した邸宅・白沙村荘(はくさそんそう)がのこされています。橋本関雪は大正から戦前にかけて京都画壇をリードした画家で、四条派らしい繊細な表現で動物や文人画を描き、明るいタッチが魅力的です。

関雪はアトリエとして用いたこの邸宅を、美意識を表現するかのように自ら設計し、30年に渡って少しずつ造営していきます。庭園・建築とも非常に洗練されており、実業家や政治家の邸宅にはないセンスが感じられます。

併設された美術館では関雪作品と共に企画展を楽しむことができます。美術館2Fから間近に見える東山の眺めは極上です。京都の庭園は寺にあるイメージが強いため、白沙村荘は案外知られていません。穴場とも言えますが、その美しさの水準は間違いなく一級です。


アトリエだった存古楼

関雪は1883(明治16)年に神戸で生まれ、20歳の時に竹内栖鳳に弟子入りします。1907(明治40)年から始まった政府主催の展覧会・文展に積極的に出品し、頭角を現していきます。大正に入ると文展のトップ評価を席巻するようになり、京都画壇をリードする画家としての地位を確立します。

関雪は儒学者だった父から中国の古典を学び、若い頃から文人画を描くようになります。関雪の文人画は日本画と中国画を融合したような画風が特徴で、四条派の画風の明るさの中に、文人画的な深い精神性を表現した作品が多く見られます。

【白沙村荘公式サイトの画像】 木蘭
【白沙村荘公式サイトの画像】 秋桜老猿

「木蘭」は1918(大正7)年の文展特選受賞作で、関雪の画家としての地位を確立したいえる記念碑的名作です。関雪の文人画の特徴がとてもよく表れており、幽玄な森の中に群青色の衣装の女性と白い馬が鮮やかに描かれています。

この作品は特選受賞後すぐに関雪の下を離れていましたが、所蔵していたDIC川村記念美術館が2018年に日本画をすべて売却した際に白沙村荘が入手しました。同時に「琵琶行」「秋桜老猿」も入手しており、いずれも白沙村荘の目玉作品になっています。



美術館では所蔵関雪作品を入れ替えながら、常設展と企画展の双方で展示を行っています。美術館1Fは関雪の作品や資料が展示され、画家としての人となりを理解することができます。2Fは企画展の会場で、関雪との関連にこだわらず柔軟なテーマや作家で企画展を行っています。

【白沙村荘公式サイト】 企画展

2Fの展望テラスからの眺めが絶景です。公開施設で東山がこれほど間近にのぞめるところはなかなかありません。カメラをお忘れなく。

美術館も関雪自ら構想していたもので、2014年にようやく実現しました。関雪も東山の絶景を楽しみにしていたことでしょう。


庭園への入口

白沙村荘は入口が庭園で、美術館が出口になっています。敷地全体が名勝に指定されています。この庭園は池の占める面積が大きく、植生が濃密なことが特徴です。建物はいずれも池のそばにあり、木々と共に水面に映える光景の美しさは京都でも随一です。回遊しながら間近で四季の植物を楽しめることも大きな魅力です。写真映えするスポットも随所にあります。


池に映える存古楼

庭園の中心にある存古楼(ぞんころう)はアトリエだった建物です。濃密な植生が屋根の楼閣を取り囲むように見え、とても上質な空間美を表しています。建物と植生の近さに何とも言えないセンスを感じます。1Fの障子のデザインも抜群です。関雪の美意識のレベルに圧倒されます。室内は通常非公開ですが、外観だけでも充分にうっとりできます。それだけの美しい空間になっています。

他に持仏堂や茶室、東屋と主家の瑞米山(ずいべいさん)もあります。すべて絵になる写真撮影スポットです。

【白沙村荘公式サイトの画像】 茶室

関雪は絵を描くのも庭を造るのも同じことだと考えていました。そんな考えは、一流の画家が自ら設計した庭の個性から体感することができます。

今出川通り沿いの庭園入口に隣接する「はしもと」では御膳や麺類をいただけます。しかしこの店の注目は、予約が必要ですが白沙村荘の庭園をのぞむ座敷で会席料理がいただけることです。私も近いうちに体験してみたいと思います。

【白沙村荘公式サイト】 お食事どころ はしもと

こんなところがあります。
ここにしかない「空間」があります。



関雪はなぜ中国の大地を愛したのか?

________________________________

白沙村荘 橋本関雪記念館
http://www.hakusasonso.jp/

原則休館日:なし
入館(拝観)受付時間:10:00~16:30

※この美術館は、常時公開している常設展示があります。
※美術館以外の建物は、不定期の特別公開時以外は室内を見学できません。



◆おすすめ交通機関◆

地下鉄「今出川」駅下車、3番出口から市バスに乗換「銀閣寺道」バス停下車、徒歩3分
JR京都駅から一般的なルートを利用した平常時の所要時間の目安:30分
京都駅→地下鉄烏丸線→今出川駅→市バス59/102/203系統→銀閣寺道

【公式サイト】 アクセス案内

※京都駅から直行するバスもありますが、地下鉄とバスを乗り継ぐ方が、時間が早くて正確です。
※この施設には駐車場はありません。
※道路の狭さ、渋滞と駐車場不足により、健常者のクルマによる訪問は非現実的です。


________________________________

→ 「美の五色」とは ~特徴と主催者について
→ 「美の五色」 サイトポリシー
→ 「美の五色」ジャンル別ページ 索引 Portal

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

都心で植物園と大名庭園を一緒に楽しめる ~東京 小石川植物園

2018年11月19日 | 城・屋敷・歴史遺産

小石川植物園は、東京・文京区の「文教地区」としてのイメージの原点のような場所です。江戸幕府による薬草園が起源で、同じく文教地区イメージの原点となる湯島聖堂とほぼ同時期に創設されました。明治以降は東京大学の付属植物園となりますが、日本庭園などに江戸時代の面影を残しています。

四季を通じて多様な植物を楽しめるのはもちろん、高低差のある園内からは東京の街並みを見下ろすことができます。大名庭園らしい雄大な日本庭園では、東京では珍しく台地の斜面を借景として楽しめます。日本庭園の池に映る、重要文化財・旧東京医学校本館の赤レンガは明治の香りをふんだんに伝えています。

大名庭園が多く残る文京区の中でも、とても多様な表情を見せることが特徴です。幼稚園の遠足だけではありません。大人の遠足としても充分に楽しめます。


正門

文京区は、東京大学が加賀藩邸だったことがよく知られているように、大名屋敷が多いエリアでした。大名屋敷は千代田区や港区にも多くありましたが、大半は官庁や大使館、ホテルに姿を変えています。江戸時代の面影を残すところは多くありません。一方文京区は小石川後楽園や六義園がほぼ江戸時代の姿でのこされています。政治の中心とならなかったことが結果的に、稀有な文化遺産を今に伝えています。

小石川植物園も1684(貞享元)年に薬草園になるまでは、5代将軍・綱吉の将軍就任前、舘林藩主時代の屋敷でした。日本庭園は綱吉の屋敷時代の名残があると考えられています。薬草園内には1722(享保7)年、8代将軍・吉宗が大岡忠助に命じ、診療所である小石川養生所を設けています。東京大学がなかった江戸時代から、文京区は江戸随一の文教地区だったのです。

東京医学校は東大医学部の前身で、本館は1876(明治9)年に加賀藩邸の一角に建てられました。現在の東大本郷キャンパスの始まりです。関東大震災でも大きな被害のなかった本館は、東大最古の建築をのこすために、1969(昭和44)年に現在地に移築されます。小石川植物園の風景の魅力をより高めるとともに、東京大学総合研究博物館小石川分館として建築に関する展示を行っています。


播磨坂

最寄り駅の一つ・メトロ丸の内線の茗荷谷駅から植物園に向かって歩くと、文京区の桜の名所・播磨坂を通ります。文京区のイメージを象徴するような閑静な並木道です。

植物園の出入口は敷地の南東角の正門一か所だけです。木~日曜の東大総合研究博物館小石川分館の開館日のみ、敷地南西にある小石川分館への出口のみが設けられます。広大な敷地には網の目のように園路が張り巡らされ、じっくり回ると一日がかりになるほどです。正門のある南側が北側の台地より一段低い段丘のような構造になっています。


本館

正門から続く坂をのぼると本館が現れます。内部公開はされていませんが、1939(昭和14)年建築の美しい外観です。戦前の昭和らしいアールデコ調の優美なデザインが写真映えします。

私が訪れたのは11月の平日の午前中だったこともあり、園内は遠足の幼稚園児、ママ友、シニア、写真愛好家が目立ちました。しかし休日にはきっと、老若男女多様な来園者が訪れていると感じました。園内の植物はとにかく種類が多く、季節に応じて多様な表情が楽しめるからです。

サイエンスファンにはたまらない「ニュートンのリンゴ」の木が園内にあります。ニュートンの家にあった万有引力の法則の発見で名高いリンゴの木が接ぎ木によって移植され、子孫が現代に伝わっているものです。世界中のサイエンス機関に移植されている中で、日本に初めて伝わったニュートンのリンゴです。


シマサルスベリ

秋らしい表情をふんだんに楽しめた中では特に、沖縄から中国にかけて分布するシマサルスベリの森が印象的でした。白い木肌が黄色い落葉の海の中に映える姿には、映画のシーンに使えるような深い趣がありました。


高台から見下ろす日本庭園と文京シビックセンター(区役所)

北側の高台からは日本庭園と東京の遠景を見下ろすことができます。紅葉の時期でしたので実に見事な風景でした。小石川植物園は近くの椿山荘とともに、高低差を回遊しながら楽しめることが大きな魅力です。京都の庭園にはほとんどない魅力です。

台地から降りた日本庭園からは逆に台地の斜面が借景になります。池を回遊しながら随所で目に入る赤レンガはとても写真映えします。池の周囲にはベンチがたくさん設けられています。座っていると、東京とは思えない静けさの中で、実に多様な庭園の表情を楽しめます。とても贅沢な空間です。


日本庭園と総合研究博物館小石川分館

特別名勝に指定された小石川後楽園と六義園もある文京区はやはり、江戸の面影の宝庫です。

こんなところがあります。
ここにしかない「空間」があります。



著者は日本の植物学の父

________________________________

小石川植物園
正式名称:東京大学大学院理学系研究科附属植物園
【公式サイト】https://www.bg.s.u-tokyo.ac.jp/koishikawa/

原則休館日:月曜日、12/29-1/3
入館(拝観)受付時間:9:00~16:00



◆おすすめ交通機関◆

都営地下鉄三田線「白山」駅下車 A1出口から徒歩10分
東京メトロ丸ノ内線「茗荷谷」駅下車 1番出口から徒歩15分
JR東京駅から一般的なルートを利用した平常時の所要時間の目安:30分
東京駅→東京メトロ丸ノ内線→茗荷谷駅

【公式サイト】 アクセス案内

※この施設には駐車場はありません。


________________________________

→ 「美の五色」とは ~特徴と主催者について
→ 「美の五色」 サイトポリシー
→ 「美の五色」ジャンル別ページ 索引 Portal

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本人なら大和ミュージアムを見るべき ~軍港の街 呉が伝える歴史

2018年11月12日 | 城・屋敷・歴史遺産

てつのくじら館に続いて大和ミュージアムをレポートします。戦艦大和の26mもの巨大レプリカが訪問者をまずはあっと言わせます。ゼロ戦や魚雷などの実物展示や数多くの空母などの模型も交え、明治以降の日本海軍と軍港・呉の歴史をとても丁寧に解説しています。大和を造った高度な造船技術が、戦後の高度成長に大きく貢献したことも学べます。

戦艦大和の生涯の解説には目を熱くします。大和は実戦で活躍することはほとんどありませんでした。そんな大和が撃沈され海底で眠っている姿は、まるで殉教した聖人のようです。

広島市の原爆ドームや平和祈念資料館と並ぶ、戦争という人類の犯した過ちと向き合えるかけがえのない展示施設です。なぜ戦艦大和が最後の出撃を行わなければならなかったのか、深く考えるよい機会になります。


大和の巨大レプリカ

大和ミュージアムは、正式には呉市海事歴史科学館と言います。大和ミュージアムという通称が有名すぎて、地元の人でも正式名を知らないのではと思えます。2005年にオープンした初年度は、その年大ヒットした映画「男たちの大和」の効果もあって160万人の来館者を集めます。160万人というのは同年の広島市の平和記念資料館の1.5倍です。地方のミュージアムとしてはいかに多かったかがわかります。

人気の秘密はやはり戦艦大和の1/10サイズの巨大レプリカです。入館直後に目にすることもあり、入館者の目は釘付けになります。大きさはさておき、とても精巧に作られている印象を受けます。現在のこされたあらゆる資料を踏まえて再現されており、新たな史実がわかるとそれにあわせて改造するほど徹底しています。

大きいだけに細部のごまかしがきかないようで、本当にリアルです。戦争するために造った船のレプリカですが、金属や木の甲板の質感を目にすると、美しいと感じるほどです。


空母赤城も呉で建造された

続いて軍港・呉の歴史の展示を見ます。呉は村上水軍の頃から天然の良港として知られ、明治になって政府が全国に4か所設けた海軍の根拠地の一つとして発展してきました。海軍工廠と呼ばれた艦艇を造る軍需工場は横須賀をはるかに上回る規模で、世界最大級でした。また近隣の江田島には海軍の将校を養成する兵学校も設けられます。まさに日本海軍の母港のような街になっていきます。

呉海軍工廠で建造された軍艦の模型も多く展示されています。真珠湾攻撃で主力の空母として活躍した赤城と蒼龍も呉で建造されました。軍艦ファンの方にとっても聖地のようなミュージアムでしょう。



大和の生涯の展示には多くのスペースが割かれています。史上最大の巨体と主砲を生んだ高度な技術や、建造を隠すための途方もない労力から、大和が日本海軍にとって虎の子のような存在だったことが分かります。

真珠湾攻撃によって海戦は航空戦が中心になり、日本海軍は大和の出番を結果的に自ら奪ってしまうことになります。アメリカ海軍のように陸上への艦砲射撃に使うこともなく温存され、他艦の乗員からは「大和ホテル」と揶揄されていました。

1945年4月6日夕刻、大和は瀬戸内海から沖縄へ向けて出撃します。大和を囮にしてアメリカ海軍の航空戦力をおびき出し、そのすきにアメリカ空母への航空機による特攻攻撃を目論んだのです。米軍の攻撃にさらされる沖縄の負担を下げる意図もあったようですが、成功する可能性はほぼない作戦でした。翌日、米軍機の2時間の攻撃の後、大爆発を起こして沈没します。


潜水調査で確認された大和の残骸の模型

大和は、屋久島の西方200kmほどの東シナ海の水深345mの海底に静かに眠っています。特攻という死に方を命じられた史上最大の戦艦は真っ二つに折れています。名誉ある死を選んで切腹した武士のよう、疲れ果てた姿をさらしている、いずれにも見えます。

大和の存在は、戦時中はほとんど国民に知られていませんでした。最後についても報道されず、現在のように有名になったのは戦後に小説化された後です。大和は、戦争の実情が国民に正しく伝えられなかった典型例の一つなのです。

【公式サイトの画像】 特攻兵器「回天」

大型資料展示室では、高さ2mの大和の主砲の砲弾やゼロ戦、潜水艦の特攻兵器「回天」が展示されています。回天も呉海軍工廠で製造され、約100名の若者が出撃しましたが戻ってきませんでした。

戦艦大和に象徴される、敗色濃厚の戦争末期の日本軍が選択した戦い方を、大和ミュージアムはきちんと伝えています。日本軍や戦争を美化しているような印象は受けません。


ミュージアム入口は出店も多くとても賑やか

観光客が少なかった呉市は、大和ミュージアム開館後にすっかり観光都市に変貌しています。呉→広島→宮島→岩国と広島湾を回遊する観光コースも定着しているようです。

今年7月の台風で大きな被害を受けたJR呉線は、呉市と広島市の間は9月に運転を再開しています。12月には三原までの全線で運転を再開します。災害地に旅行することは経済活動に貢献しますので、復興を早めます。ぜひ呉にお出かけください。

こんなところがあります。
ここでしか味わえない「空間」があります。



戦艦大和を紙で作れる!

________________________________

呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)
【公式サイト】https://yamato-museum.com/

原則休館日:火曜日
入館(拝観)受付時間:9:00~17:30



◆おすすめ交通機関◆

JR呉線「呉」駅下車、徒歩5分
JR広島駅から一般的なルートを利用した平常時の所要時間の目安:40~50分
広島駅→JR呉線→呉駅
広島駅まで新幹線で 新大阪駅から1時間20分、東京駅から4時間

【公式サイト】 アクセス案内

※鉄道やバスは本数が少ないため、事前にダイヤを確認の上、利用されることをおすすめします。
※この施設には有料の駐車場があります。


________________________________

→ 「美の五色」とは ~特徴と主催者について
→ 「美の五色」 サイトポリシー
→ 「美の五色」ジャンル別ページ 索引 Portal

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵐山 大河内山荘 庭園にワクワク ~回遊の楽しさと絶景は随一

2018年11月09日 | 城・屋敷・歴史遺産

京都・嵐山の大河内山荘(おおこうちさんそう)は、往年の映画俳優・大河内傳次郎(おおこうちでんじろう)の別荘だった庭園を公開している施設です。前回ご紹介した北隣の常寂光寺がある小倉山が大堰川に向かってくだる斜面に敷地が設けられています。東の比叡山と西の嵐山・保津川渓谷、逆の方向を敷地内で見渡せることが、この庭園でしか味わえない大きな魅力です。

木々に囲まれてあえて細くしたような園路は、次にどんな絶景が現れるのかとワクワクさせるような楽しみがあります。風景にしろ、木々の美しさにしろ、ワクワク感を裏切りません。木々や園路が空間と風景を楽しめるよう見事に配置されており、手入れも見事に行き届いています。

とても気持ちの良い空間です。常寂光寺は腰を落ち着けて空間を楽しむことに、大河内山荘は歩いて空間を楽しむことに、その特徴があるように思えます。京都の”はしっこ”で、ぜひ両者の魅力を見比べてみてください。秋の美しさはもちろんですが、四季いつでもOKです。


中門

大河内傳次郎は主に戦前に活躍した時代劇映画の大スターで、当たり役「丹下左膳」がよく知られています。とはいえ1962(昭和37)年に故人になっていますので、現在概ね80歳以上の方でないと活躍の記憶はないでしょう。

しかし大河内と同じ頃に活躍した「時代劇六大スタア」の中には、現代の大スターの系譜につながる人物もいます。市川右太衛門の次男が北大路欣也、阪東妻三郎の次男が田村正和です。両氏とも70歳を超えており、最近はテレビで目にすることも少なくなっています。時の流れを感じます。

テレビもなく、ラジオも普及していなかった時代に、動画で楽しめる映画は娯楽の王者でした。大河内がギャラで稼いだ巨万の富をつぎ込み、1931(昭和6)年から30年に渡って造成を続けたのが現在の大河内山荘庭園です。大河内は仏教にも傾倒しており、現存する持仏堂でよく経を唱えていました。


視界が開けない園路

この庭園は園路の周囲の木々の高さをあえて高くし、ビュースポットに到達するまで視界が開けないように設計されていることが目立ちます。修学院離宮の上御茶屋にもみられるテクニックです。なので歩いたほうが楽しいのです。

詫びを感じさせる弓型の屋根のラインが可愛い中門を抜けて、母屋の大乗閣(だいじょうかく)に至ると、視界が開け大きな空間と空が楽しめます。その空間の中心には、寝殿造りにも数寄屋造りにも見える大乗閣の姿が目に飛び込んできます。これも大乗閣の不思議な魅力を強調する演出なのでしょう。


正面が比叡山

さらに上に進むと最も高い位置にある茶室・月下亭(げっかてい)に至ります。このあたりからは東側の嵯峨野の町並と比叡山の雄大な姿が絶景です。比叡山の左下に仁和寺の五重塔も見えます。京都にいることをまさに実感できます。


左の山が嵐山、右下に保津川渓谷

点在する茶室を通り順路に沿って迷路のような園路を進むと、西側の展望台に出ます。こちらは幽玄な嵐山の山河が目に飛び込んできます。近距離で山が折り重なるように見えるところが、遠距離で借景になっている東側の比叡山とは対照的です。この絶景の変化の見せ方もとても上手です。

大河内の華やかな時代の写真が展示された資料館もあります。大河内を御存じの方は往年の思い出を確かめる、御存じない方は映画が娯楽の中心だった時代の文化や世相を確かめる、いずれの楽しみ方も可能です。



最後には無料の抹茶もいただけます。お茶の苦みと甘みのブレンドが、少し歩き疲れたボディに心地よい刺激を与えてくれます。

京都の”はしっこ”は、とても奥が深い魅力がたくさん詰まっています。

こんなところがあります。
ここにしかない「美」があります。



嵐山は歩いてこそ、美しさが堪能できます

________________________________

大河内山荘
【京都市観光協会サイト】

原則休館日:なし
入館(拝観)受付時間:9:00~17:00



◆おすすめ交通機関◆

JR嵯峨野線「嵯峨嵐山」駅下車、南口から徒歩15分
京福電鉄・嵐山本線(嵐電、らんでん)「嵐山」駅下車、徒歩15分
阪急電鉄・嵐山線「嵐山」駅下車、徒歩25分
JR京都駅から一般的なルートを利用した平常時の所要時間の目安:35分
京都駅→JR嵯峨野線→嵯峨嵐山

※この施設には駐車場はありません。
※道路の狭さ、渋滞と駐車場不足により、健常者のクルマによる訪問は非現実的です。


________________________________

→ 「美の五色」とは ~特徴と主催者について
→ 「美の五色」 サイトポリシー
→ 「美の五色」ジャンル別ページ 索引 Portal

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

滋賀・甲賀流忍術屋敷 ~本物のからくりが忍者の息吹を今に伝える

2018年10月11日 | 城・屋敷・歴史遺産

赤影、影の軍団、ハットリくん、NARUTO。こう聞くとほとんどの方がお判りかと思いますが、忍者が主人公の映像作品です。子供から大人まで、すっかり日本人の人気者になって久しく、Ninjaは国際共通語として世界的も有名です。

滋賀県の焼きものの里・信楽に行った際に、前から行きたかった甲賀流忍術屋敷に立ち寄りました。ここは江戸時代に忍者がからくりを施した建物が現存し、公開されている日本で唯一の忍者屋敷です。忍者が培ってきた情報収集や防御、攻撃の知恵と息吹が大切にのこされています。

忍者と言うと、とかく映画のスパイのヒーローのようにイメージしてしましますが、忍者も生身の人間です。妖術ではなく現実にできるやり方で忍び(しのび)の厳しい仕事をこなしていたことがとてもよくわかります。忍者の現実の姿を学ぶには、必見の施設です。


屋敷の全景

甲賀は”こうか”と濁らずに発音します。日本で著名なもう一つの忍者集団・伊賀は、濁って”いが”と発音します。ただし地元の人は誤って”こうが”と濁って発音されることに慣れてしまっているようです。

忍者は、敵地に忍び込んでの情報収集や破壊・暗殺、要人の護衛といった特殊な任務に就いた人のことです。中でも情報収集は人類が存在している限りは必要な任務であり、記録が残る時代以前から行われていたでしょう。

一方厳しい環境下で生きたり敵を欺いたりする忍術は、平安時代から日本各地で成立していったと考えられています。中世は何かトラブルがあれば武力抗争に発展するのは当たり前の時代です。そのため特殊な技術である忍術を身に着けた忍者は必要不可欠な人材でした。

忍者はこうした特殊任務へのニーズがとても大きかった戦国時代に最も活躍します。しかし任務の性格上、記録にはなかなか残りません。甲賀と伊賀は、天下統一した信長・秀吉・家康の三傑の本拠である尾張・三河と京都を結ぶ中間点にあります。三傑に仕えたことで後世に名を残すことができたのでしょう。

本能寺の変の際、堺にいた徳川家康による領国・三河への逃避行は、「伊賀越え」としてよく知られています。家康は堺から南山城を通って甲賀に入り、伊賀を通って鈴鹿付近から三河に船で渡ります。

この際、甲賀衆は伊賀衆と共に家康一行を鈴鹿で乗船するまで護衛しています。家康を助けたのは伊賀衆だけではなかったのです。家康を捕まえて光秀に差し出すよりも、家康を逃して恩を売った方が自らの生き残りには有利と判断したのでしょう。


入館受付

甲賀流忍術屋敷は、甲賀衆のリーダー格だった望月氏の屋敷として江戸時代の元禄年間(1688-1704)に建てられました。元禄の頃には武力衝突が起こる世の中ではなくなっていましたが、望月氏は防御の知恵をふんだんに盛り込んだからくり屋敷のようにしました。苦難の歴史を歩んできた甲賀衆の経験が、そうさせたのでしょう。

内部は忍者装束のスタッフによる熱のこもったガイドを聞いた後は自由に見学できます。他の忍者テーマパークに比べて、どんでん返しなど見学者が自由に体験できる”からくり”は少ない印象です。

この建物は300年前の本物です。文化財保護のため、体験できない/触れられない方が適切です。見るだけになることも多いですが、柱や建具の木目には屋敷の住人が300年間使い続けてきた艶(つや)を感じることができます。

【公式サイトの画像】 屋敷内の様々な仕掛け

数少ない体験としては、とても狭い中二階と三階に隠しはしごで上がることができます。上から客人を監視したり、敵に襲われた際の隠れ場所になる部屋です。中二階は敵が長い刀を振り回しにくいよう、天井の高さは1m強しかありません。戦国時代の忍者の息吹が聞こえてきそうなリアルな空間です。

資料室では戦国時代以降の甲賀衆の歴史を物語る史料や、手裏剣をはじめとする様々な忍者道具が展示されています。手裏剣は思ったより大きく、強い殺傷能力がありそうです。反面重いため数多くは持てなかったでしょう。TPOに応じて、どんな変装が最も怪しまれないかもパネル解説されています。サイエンスが普及していなかった時代の知恵の結晶が忍者だとまさに感じ取ることができます。

見学の最後には広間でお茶の無料サービスをいただけます。健保茶といい、蕎麦茶に近い風味がある薬草のお茶です。忍者は野外でのけがや病気の対処や毒殺などのために、薬草の知識は必須でした。健保茶は古くから忍者の間で親しまれてきており、このお茶を飲んで緊張を解きほぐし、水分や暖を取ったのでしょう。とても味わいのあるお茶です。土産としても販売されているので是非どうぞ。

こんなところがあります。
ここにしかない「美」があります。



忍術の秘伝書に書かれた内容から忍者の実態を解明


甲賀流忍術屋敷
【公式サイト】http://www.kouka-ninjya.com/

原則休館日:12/27-1/2
入館(拝観)受付時間:9:00~16:30



◆おすすめ交通機関◆

JR草津線「甲南」駅下車 徒歩20分、車で5分
新名神高速「甲南」ICから車で5分
JR京都駅から一般的なルートを利用した平常時の所要時間の目安:1時間20~40分
京都駅→JR琵琶湖線→草津駅→JR草津線→甲南駅

【公式サイト】 アクセス案内

※鉄道やバスは本数が少ないため、事前にダイヤを確認の上、利用されることを強くおすすめします。
※この施設には無料の駐車場があります。
※現地付近のタクシー利用は事前予約を強くおすすめします。


________________________________

→ 「美の五色」とは ~特徴と主催者について
→ 「美の五色」 サイトポリシー
→ 「美の五色」ジャンル別ページ 索引 Portal

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福井・吉崎御坊跡 ~本願寺はここから巨大になった

2018年09月29日 | 城・屋敷・歴史遺産

福井県(越前国)と石川県(加賀国)の県(国)境の海岸に、戦国時代に浄土真宗・本願寺が急速に発展する礎となった吉崎御坊(よしざきごぼう)がありました。京都を追われて吉崎にやってきた本願寺中興の祖・蓮如(れんにょ)がここで布教したのはわずか4年ほどにすぎませんが、瞬く間に門徒(信者)を増やしていった夢の国の跡をしのぶことができます。

浄土真宗にとってまさに聖地ですが、日本史においても戦国時代の潮流を大きく左右する地でもあります。蓮如や吉崎御坊の果たした役割を展示解説するミュージアムもあり、戦国時代を理解する上でとても意義深いスポットです。


吉崎御坊は丘の上にあった

吉崎御坊は1471(文明3)年、京都を追われた本願寺中興の祖・蓮如(れんにょ)が海を望む小高い丘の上に開きました。吉崎の地はもともと奈良・興福寺の荘園でした。興福寺の別当もつとめた高僧・経覚(きょうかく)は縁戚にあたる蓮如を宗派の違いを超えてかわいがっており、延暦寺によって京都を追われて困窮していた蓮如に、落ち着ける地として吉崎を紹介しました。

北陸はもともと浄土真宗の門徒が多く、蓮如にとって布教しやすいエリアでした。一方守護大名や土豪たちは抗争を繰り返しており、経覚が蓮如を吉崎に行かせたのは土豪による年貢の横領を防ぐためだった、と考えられています。

民衆にとっても、当時は困窮していたとはいえ親鸞聖人の嫡流の本願寺のトップがやってきたことで大いに盛り上がったと考えられます。土豪たちから自立するべく団結し、吉崎の寺内町は急速に発展します。戦国時代に北陸で強大な勢力を誇った一向一揆(本願寺)勢力の出発点にもなっていきます。

蓮如は吉崎御坊と周囲との軋轢が目建つようになると、吉崎を立ち去ります。各地を転々とした後、1478(文明10)年に京都に山科本願寺を開きます。吉崎御坊はその後越前の戦国大名・朝倉氏によって破却されます。御坊のあった丘の麓に江戸時代半ばに東西両派の寺院として再興され、現在に至ります。丘の上の御坊の跡地では石碑と蓮如の銅像で往時をしのぶことができます。


本願寺派吉崎別院(西別院)西本願寺系

御坊跡の麓では東西両派の寺院が隣接して並んでいます。両派寺院とも史料館が設けられており、拝観することができます。


真宗大谷派吉崎別院(東別院)東本願寺系

御坊跡や東西両寺院から歩いて2分ほどのところに「吉崎御坊 蓮如上人記念館」があります。1998年に開設されたミュージアムで、吉崎御坊と蓮如上人の足跡を、史料やジオラマ模型、シアターを通じて学ぶことができます。


吉崎御坊 蓮如上人記念館

近くには東尋坊、あわら温泉、石川県九谷焼美術館、片山津・山代・山中温泉があり、観光資源には恵まれたエリアです。ゆっくり周遊してみてください。

こんなところがあります。
ここにしかない「美」があります。



とても興味深いカリスマ二人の比較


吉崎御坊跡
【福井県観光連盟公式サイト】

※拝観・見学に条件はありません。いつでも無料で拝観・見学できます。

本願寺派吉崎別院(西別院) 【あわら市観光協会公式サイト】
真宗大谷派吉崎別院(東別院) 【公式サイト】

吉崎御坊 蓮如上人記念館
【公式サイト】

原則休館日:木曜日、12/28-1/2
入館(拝観)受付時間:9:00~17:00

◆マナー教室◆

◇写真撮影の前に確認! 撮影可能か、立入禁止でないか、三脚や一脚が使えるか?
◇カメラのシャッター音は出ないように、特にスマホは注意!
◇カメラのフラッシュがたかれないように設定、光や熱が美術品を傷つけます!
◇室内を見学する場合、持ち物が無意識に壁や置物に触れ傷つけてしまいます。
 手荷物は預ける、リュックは前に抱える、レンズの大きい一眼レフカメラは持ち込まない、など配慮しましょう。



◆おすすめ交通機関◆

JR加賀温泉駅・芦原温泉駅、えちぜん鉄道あわら湯のまち駅からそれぞれ車で15分
北陸道「加賀」ICから車で10分
JR北陸線「加賀温泉」駅下車、加賀周遊バス「キャン・バス」で「蓮如上人記念館」下車すぐ
JR福井駅から一般的なルートを利用した平常時の所要時間の目安:1時間20分~2時間
福井駅→JR北陸線→加賀温泉駅→キャン・バス→蓮如上人記念館

【蓮如上人記念館公式サイト】 アクセス案内

※鉄道やバスは本数が少ないため、事前にダイヤを確認の上、利用されることを強くおすすめします。
※この施設には無料の駐車場があります。
※現地付近のタクシー利用は事前予約を強くおすすめします。


________________________________

→ 「美の五色」とは ~特徴と主催者について
→ 「美の五色」 サイトポリシー
→ 「美の五色」ジャンル別ページ 索引 Portal

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金沢・長町武家屋敷・野村家 ~金沢の庭園は兼六園だけではない

2018年09月25日 | 城・屋敷・歴史遺産

金沢随一の繁華街・香林坊(こうりんぼう)のすぐそばに、加賀百万石を支えた金沢藩士の武家屋敷の面影を今に伝える町並があります。長町(ながまち)武家屋敷跡と呼ばれる一帯です。その中で唯一公開されている野村家(のむらけ)は、古き良き金沢の風情を伝える見事な邸宅と庭園が評判です。

ミシュラン格付けの二つ星になっており、外国人と日本人が一緒になって、庭を眺めて縁側で佇む姿が印象的です。長町武家屋敷跡は、茶屋街と並んで金沢で古い町並を体験できるかけがえのない空間です。上質な時間を過ごしてみてください。


入口

野村家は前田利家の金沢入城以来、明治まで従った家臣です。禄は1,200石です。正直、中級でしたが、江戸時代には現在よりはるかに大きい1,000坪以上の敷地を有する屋敷を有していました。

金沢藩は何といっても120万石の日本一の大藩でした。筆頭家老の本多(ほんだ)家の禄は5万石もあり、一般的に大名と称される1万石をはるかに超えていたほどです。金沢では中級藩士でも1,000坪以上の敷地を維持していたのです。

現在の野村家の屋敷は、昭和初期に豪商・久保家によって幕末建築の邸宅が移築されたものです。金沢は第二次大戦の戦災をほぼ免れた数少ない都市であり、長町武家屋敷跡にもいにしえの風情がのこったのです。


野村家 庭園

長町武家屋敷跡の魅力は、金沢城普請の際に引かれた、町並を流れる用水が原点でしょう。京都・上賀茂、高山・さんまちなど、和の町並を演出するには用水が不可欠です。用水は野村家の庭園にも引き込まれており、とても心地よい空間を演出しています。

野村家は建物も庭園も手入れが行き届いています。コンパクトな敷地の庭園は、建物からの距離が近いこともあって、圧迫感を印象付けないよう巧みにデザインされています。身近に木々や石の魅力を目にすることができます。この室内との近さが、この庭園の最大の魅力です。

【公式サイトの画像】 上段の間

庭園を眺めることができる「上段の間」は、藩主を招いた最高格式の部屋です。金沢文化の上質さを感じさせる室内の意匠は、庭園と絶妙に調和しています。日本人の目線で見ても、ミシュラン二つ星評価に納得できる空間です。


長町武家屋敷の界隈

金沢では江戸時代の”和”の空間が、現代も見事に表現されています。百万石と言われた豊かさを、現代まで綿々と引き継いできた賜です。兼六園のようなメジャーなスポットだけではありません。

長町武家屋敷跡の野村家のようなところにも、金沢文化はきちんとのこされています。

こんなところがあります。
ここにしかない「美」があります。



著者の金沢21世紀美術館特任館長は金沢のヨソ者


武家屋敷跡 野村家
【公式サイト】http://www.nomurake.com/

原則休館日:12/26-27
入館(拝観)受付時間:8:30~17:00(10-3月は~16:00)

◆マナー教室◆

◇写真撮影の前に確認! 撮影可能か、立入禁止でないか、三脚や一脚が使えるか?
◇カメラのシャッター音は出ないように、特にスマホは注意!
◇カメラのフラッシュがたかれないように設定、光や熱が美術品を傷つけます!
◇室内を見学する場合、持ち物が無意識に壁や置物に触れ傷つけてしまいます。
 手荷物は預ける、リュックは前に抱える、レンズの大きい一眼レフカメラは持ち込まない、など配慮しましょう。
◇靴を脱いで室内を見学する場合、床汚れ防止のため、裸足なら靴下を持参しましょう。





◆おすすめ交通機関◆

北鉄/周遊バス「香林坊」バス停下車、徒歩5分
JR金沢駅から一般的なルートを利用した平常時の所要時間の目安:20分
金沢駅 兼六園口 3,6番(北鉄バス)/7番(周遊バス)のりば→北鉄/周遊バス→香林坊

金沢駅まで
東京駅から北陸新幹線で2時間30分
大阪駅から在来線特急で2時間30分

※この施設には駐車場はありません。
※道路の狭さ、渋滞と駐車場不足により、健常者のクルマによる訪問は非現実的です。


________________________________

→ 「美の五色」とは ~特徴と主催者について
→ 「美の五色」 サイトポリシー
→ 「美の五色」ジャンル別ページ 索引 Portal

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岡山・閑谷学校 ~300年前の荘厳な空間には感服する

2018年09月22日 | 城・屋敷・歴史遺産

江戸時代はじめに造られた”キャンパス”がほぼ現存する旧閑谷学校(きゅうしずたにがっこう)は、姫路市と岡山市の中間に位置する、備前焼でも知られる備前市にあります。世界最古の庶民向けの学校として、国宝と特別史跡に指定されています。

山あいのわずかな平地に設けられた校舎は、明るい茶色を基調とした瓦屋根が、いかにも論語を教えるのにふさわしい中国の風情を醸し出しています。300年以上たった現在も、特別な空間であることを感じさせる見事な建築群です。

バス停や駐車場から進むと、明るい茶色の屋根が少しずつ見えてくる光景は感動的でもあります。わざわざ出かける価値のある偉大な歴史遺産です。


受付入口の門も実に美しい

閑谷学校は、岡山藩初代藩主・池田光政(いけだみつまさ)の命により、津田永忠(つだながただ)によって1670(寛文10)年から建設が始められ、1701(元禄14)年に全容が整ったのが現在の姿です。

光政は教育に力を注ぎ、1641(寛文18)年には全国初の藩士を教育する藩校を設けています。江戸幕府による学校、すなわち現在の国立大学に相当する湯島聖堂(ゆしませいどう)の創設は1690(元禄3)年ですので、いかに早かったかがわかります。津田は土木建築に手腕を発揮した岡山藩士で、日本三名園として知られる岡山城の後楽園も彼の手によるものです。

【公式サイトの画像】 講堂

中心的な建物である講堂が国宝です。講堂は1673(延宝元)年の創建時は茅葺(かやぶき)屋根でした。とても美しい屋根瓦は1701(元禄14)年に、現在の瓦葺にあらためられて以降ほぼ使い続けられています。備前焼による丈夫で高級な瓦で、一枚ごとに色合いが異なるのが特徴です。微妙な色違いが荘厳ともいえるような中国風の非日常感を醸し出しています。


講堂の室内

講堂の室内はとても広く、生徒はここに正座して講義を受けていました。火打窓(かとうまど)から入ってくる光がピカピカに磨かれた床に反射する光景は幻想的でもあります。座っていると自然と背筋を伸ばすような、威厳があって凛とするような空間です。


講堂の縁側

室内の広間には立ち入ることはできませんが、縁側に腰を掛けて室内や美しい芝生で覆われた校庭を眺めることができます。おだやかな凪を感じながら300年前と変わらない空間を体感する時間は極上です。


石塀

縁側からは校庭を取り囲む重要文化財の石塀がとても美しく見えます。形が異なる石がすき間なく組まれており、上端の角が丸く削られています。その丸みがキャンパスの空間をとても穏やかかつオープンに見せています。

閑谷学校は、希望する子供は身分にかかわらず誰でも教育を受けることができました。他藩の藩士の師弟にも門戸を開いていたほどです。そんな姿勢を象徴するような、日本有数の美しい石塀です。


孔子をまつった聖廟

キャンパスの奥のやや高台に、学校として最も尊敬する儒学の祖・孔子をまつる聖廟(せいびょう)と、校祖・光正をまつる閑谷神社があります。いずれも重要文化財です。こちらも講堂と同様に美しい荘厳さがあります。

【公式サイトの画像】 資料館

閑谷学校は明治になっていったん閉鎖されますが、市民たちの熱意もあり旧制中学校として復活します。1905(明治38)年建築の旧制中学校の校舎が、現在資料館として使われています。開校から明治時代までの閑谷学校の人物や教育に関する史料が展示されています。幕末の歴史学者・頼山陽が来校していたこと、明治初めに備中松山藩(現在の岡山県高梁市)の藩政改革で知られる山田方谷(やまだほうこく)が一時教鞭をとっていたことなど、興味深く知ることができます。


備前焼の瓦

本当に見事な空間がのこされています。地元では運動も始まっているようですが、世界遺産になってもおかしくはない荘厳さを今もたたえています。ぜひ訪れてみてください。

こんなところがあります。
ここにしかない「美」があります。



日本の伝統建築ってすごい。


特別史跡旧閑谷学校
【公式サイト】http://shizutani.jp/

原則休館日:12/29-31
入館(拝観)受付時間:9:00~17:00

◆マナー教室◆

◇写真撮影の前に確認! 撮影可能か、立入禁止でないか、三脚や一脚が使えるか?
◇カメラのシャッター音は出ないように、特にスマホは注意!
◇カメラのフラッシュがたかれないように設定、光や熱が美術品を傷つけます!
◇室内を見学する場合、持ち物が無意識に壁や置物に触れ傷つけてしまいます。
手荷物は預ける、リュックは前に抱える、レンズの大きい一眼レフカメラは持ち込まない、など配慮しましょう。
◇靴を脱いで室内を見学する場合、床汚れ防止のため、裸足なら靴下を持参しましょう。
◇庭を散策する場合、通路以外は立ち入り禁止!コケや芝生がふまれて死んでしまいます。



◆おすすめ交通機関◆

山陽道「和気」ICから車で5分、「備前」ICから車で15分
JR山陽線「吉永」駅下車、タクシーで10分、備前市営バスで15分
JR赤穂線「備前片上」駅下車、タクシーで13分、備前市営バスで15分
JR大阪駅から一般的なルートを利用した平常時の所要時間の目安:2時間30分
大阪駅→JR神戸線新快速→姫路駅→JR山陽線→吉永駅→備前市営バス→閑谷学校

【公式サイト】 アクセス案内

※鉄道やバスは本数が少ないため、事前にダイヤを確認の上、利用されることを強くおすすめします。
※この施設には無料の駐車場があります。
※現地付近のタクシー利用は事前予約を強くおすすめします。


________________________________

→ 「美の五色」とは ~特徴と主催者について
→ 「美の五色」 サイトポリシー
→ 「美の五色」ジャンル別ページ 索引 Portal

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高山陣屋 ~江戸時代の高山の武士の日常が見事にのこされている

2018年09月14日 | 城・屋敷・歴史遺産

高山陣屋(たかやまじんや)は、飛騨高山の中心的な観光スポットです。陣屋とは江戸時代に飛騨を統治した幕府の代官のオフィスのことですが、その建築がのこされている例はほとんどありません。江戸時代の武士の日常がとてもよくわかります。飛騨の豊かさもとてもよくわかります。

ミシュランガイドでも二つ星で、観光客でいつも賑わっています。高山観光には必見です。


陣屋入口には「三つ葉葵」

高山は、江戸時代初めに小堀遠州と並んで茶の湯をリードした金森宗和(かなもりそうわ)の祖父が豊臣秀吉から飛騨国を与えられ、城下町としての発展がはじまります。1692(元禄5)年に飛騨一国が幕府の天領となり、現在の高山陣屋が設置されました。”陣屋”とは、いわゆる”代官所”と同じ意味です。

飛騨国の木材と鉱物資源の豊かさに目を付けた幕府が、幕府財政の安定化をはかって天領にしたと考えられています。高山に駐在した代官(陣屋のトップ職)は、1777(安永6)年には、より格上の郡代(ぐんだい)に昇格します。他に3つしか設置されなかった郡代に飛騨を加えることで、幕府は高山と飛騨国を重視している姿勢を示しました。

高山を象徴する古い町並も、町人によるビジネスがとても活発だったことの賜です。幕府の姿勢が高山のビジネスにも好影響を与えたのでしょう。江戸時代の高山は現在の岐阜県では最大の人口の都市でした。



高山陣屋は県など公共施設のオフィスとして1969(昭和44)年まで使用されていたこともあり、江戸時代の建物群が多く現存していることに価値があります。陣屋建築がこれだけ多く現存するのは高山だけです。1996年に江戸時代後半の絵図を元に復元・改修され、現在の姿になりました。敷地は国の史跡に指定されています。



陣屋では様々な用途の部屋を見学することができます。代官・郡代が客人を迎えたり会議を行った広間は、武家屋敷らしくとてもシンプルな造りです。殿様ではないので豪勢な襖絵はありませんが、それが逆に江戸時代の現実の武士のオフィスの雰囲気をうまく醸し出しています。

代官・郡代の住宅だった建物もとてもシンプルです。現代の県知事のような役職にあたりますが、現実は安月給のサラリーマンでした。時代劇でよく登場する”悪代官”のイメージとはかけ離れた質素な部屋のしつらえです。代官・郡代が優越感を感じられるのは、使用人の使う部屋の畳には縁がないといった、身分差を示す形式的なルールだけでした。江戸時代の普通の武士の暮らしはとても大変だったのです。

陣屋の重要な仕事であった裁判の場であるお白州(しらす)は目を引きます。庶民は白州に座らされますが、武士や僧侶は一段高い縁側で吟味を受けました。三角の角材に囚人を座らせた拷問用具も展示されています。映画のようにとてもリアルです。

高山陣屋で最大かつ最古の建物が御蔵です。江戸時代初期の建築です。興味深いのは屋根で、土蔵にしては珍しい板葺きです。瓦は雪で損傷しやすいのですが交換が大変です。そのため交換しやすい板葺きにしているのです。

内部は江戸時代の様々な民具や史料が展示されています。「飛騨の匠」たちが使った木工道具はきちんと手入れがされており、現在見ても美しいと感じます。様々な鉱物資源が採掘されていたこともわかります。年貢米がうずたかく積み上げられた部屋は圧巻です。



陣屋前の広場では高山名物の「陣屋前朝市」が開かれています。もう一か所の「宮川朝市」と並ぶ賑わいです。雨の日は出店が少なくなりますが、いつも世界中の観光客であふれています。こちらもぜひお楽しみください。

【公式サイト】 陣屋前朝市
【公式サイト】 宮川朝市

こんなところがあるのです。
ここにしかない「美」があるのです。



飛騨の里山の味を自宅でも


高山陣屋
【岐阜県公式サイト】

原則休館日:12/29,12/31,1/1
入館(拝観)受付時間:8:45~17:00(8月は~18:00、11-2月は~16:30)

◆マナー教室◆

◇写真撮影の前に確認! 撮影可能か、立入禁止でないか、三脚や一脚が使えるか?
◇カメラのシャッター音は出ないように、特にスマホは注意!
◇カメラのフラッシュがたかれないように設定、光や熱が美術品を傷つけます!
◇室内を見学する場合、持ち物が無意識に壁や置物に触れ傷つけてしまいます。
 手荷物は預ける、リュックは前に抱える、レンズの大きい一眼レフカメラは持ち込まない、など配慮しましょう。
◇靴を脱いで室内を見学する場合、床汚れ防止のため、裸足なら靴下を持参しましょう。
◇庭を散策する場合、通路以外は立ち入り禁止!コケや芝生がふまれて死んでしまいます。



おすすめ交通機関:
JR高山駅下車、東口(乗鞍口)から徒歩10分
JR名古屋駅から在来線特急電車を利用した所要時間の目安:2時間20分

【高山市観光公式サイト】 高山市へのアクセス案内

※鉄道は本数が少ないため、事前にダイヤを確認の上、利用されることを強くおすすめします。
※この施設には駐車場はありません。


________________________________

→ 「美の五色」とは ~特徴と主催者について
→ 「美の五色」 サイトポリシー

→ 「美の五色」ジャンル別ページ 索引 Portal


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする