以後、アウン・サンらと共に、ビルマの独立を目指して行動することとなる鈴木敬司は、1897年2月6日、現在の静岡県浜松市南区恩地町生まれ。アウン・サンは1915年2月13日生まれであるから、ちょうど18歳年上である。鈴木敬司は、ビルマでの工作活動に関わる以前にも、民間人に扮してフィリピンに潜入、軍事作戦用地図の作成に必要な情報を収集するという特殊任務に従事していた。また、日中戦争勃発時当初、上海での戦いにおける膠着状態から抜け出すために、実施困難と考えられていた杭州湾上陸作戦を計画・指導し成功させるなど、諜報活動や作戦立案に長けた人物だったようである。
日本は、1937年7月の盧溝橋事件を発端として中国国民党・蒋介石政権と戦争状態に突入。前述の杭州湾上陸作戦の成功等もあり、同年11月に上海、翌12月には、早くも、その直前まで国民党政府の首都であった南京を占領した。しかし、戦線が拡大し、南京から重慶に首都を移した蒋介石政権が米英ソ等からの軍事援助を受けながら徹底抗戦を続けたために、日中戦争は次第に泥沼化する。そのため、日本軍は、蒋介石政権に対する援助物資の輸送路(援蒋ルート)を断ち切ることで、局面の打開を図ろうとした。その援蒋ルートの一つが、ラングーン(現ヤンゴン)港で陸揚げした物資を鉄道でビルマ北東部のラシオまで運び、そこからトラックで中国との国境を越え、雲南省昆明まで運ぶという「ビルマルート」であり、ビルマルート遮断のための方策を探る任務を参謀本部より受けたのが鈴木敬司だった。
まだ米英とは戦争状態にないこともあり、38年10月に香港とその周辺を占領することで援蒋ルートの一つであった香港ルート(香港と中国内陸部を結ぶ輸送路)を遮断したのと同様に、英領ビルマを攻撃し占領するという選択肢は、当時は有り得なかった。また、40年6月にフランスがドイツに降伏した後もイギリスはドイツとの戦いを続けていたことから、仏領インドシナ北部に軍を進駐させ(40年9月)、同じく援蒋ルートの一つであった仏印ルート(現ベトナム北部のハイフォンと昆明を結ぶ輸送路)を遮断したのと同様の手段をとることもできなかった。そこで鈴木敬司が注目したのが、激しさを増すビルマ国内の反英・民族運動である。つまり、民族運動が武装蜂起そしてイギリスからの独立にまで発展すれば、ビルマルートを遮断できると考えたのである。しかしながら、当時の日本は、ビルマに関してわずかな情報や知識しか持っていなかったために、参謀本部は、鈴木敬司を「新聞記者・南益世」としてビルマに潜入させ、情報収集にあたらせたのであった。
40年6月にビルマに入国した鈴木敬司は、ラングーンを拠点に活動する中で、民族運動の中心にあったタキン党の幹部らと接触する。そして、その中でも、外国からの軍事支援を模索していたタキン党のリアリストのグループを支援すべきと確信し、彼らを説得するために、日本が武器の提供や軍事訓練等の独立支援を行うことを約束した。こうした密約を結ぶ権限は鈴木敬司には与えられていなかったが、欧州では同年5月にはドイツ軍の攻勢にイギリス軍がフランス・ダンケルクから撤退し、翌月にはフランスがドイツに対して降伏するなど情勢が緊迫してきており、機を逸してはならないという思い等があったのだろう。支援を約束されたリアリストグループの幹部は、既にアモイに渡っていた同志のアウン・サンとラ・ミャインの写真を鈴木敬司に渡し、二人への協力を要請。その結果、鈴木敬司とアウン・サンは、同年11月に東京で出会うことになったのである。
(続く)※敬称略
お読み下さり、ありがとうございます。