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スーチー氏来日記念連載④「志士の失望と南機関の消滅」

2013-04-14 | スズキのおススメ+コラム

 年が明けると、第15軍は泰緬国境を越えビルマへの本格的な侵攻を開始した。BIAの部隊も第15軍と前後してビルマへ進撃。進軍する先々で住民の歓迎を受けただけでなく入隊希望者も続出した。そのため、戦闘で数を減らすどころか、むしろ日に日に兵を増やしながらBIAの主力部隊はラングーンを目指して進撃を続けた。しかし、テナセリウム地方の主要都市であるモールメンにBIAが到達したにもかかわらず、第15軍は臨時政府の樹立どころかその他の政治活動すら許さなかった。当然ながら、志士や他のビルマ兵側は日本に対して失望や不信の感情を抱くようになった。

 鈴木敬司らは、そうしたビルマ兵をなだめながらラングーンまでの進撃を続けさせる。そして42年3月9日にはラングーンが陥落、6月上旬にはビルマ北部も占領し、ビルマのほぼ全土を手中に収めた。鈴木敬司はラングーンに入城後もビルマの即時独立を認めるよう第15軍司令部に求めたが、第15軍はビルマの独立を認めず、6月4日にはビルマ全土に軍政を布告した。それから約2か月後の8月1日、イギリス軍の撤退により刑務所から出ることができたバー・モウを長官とするビルマ中央行政府を発足させた。しかし、それはあくまでも第15軍の命令の範囲内で行政事務を担当したに過ぎなかった。

 南機関の目的だった「ビルマルートの遮断」が達成されたにもかかわらず、何故、ビルマの独立は認められなかったのか。大きな理由は、南機関の目的や鈴木敬司らの意志が明確だったのに対し、その上部組織である第15軍、更に上部の南方軍そして参謀本部や大本営のビルマに関する方針や計画は、米英との戦争に突入する時点においても漠然としたものだった。しかし、緒戦における東南アジア地域での日本の快進撃を受けて、ビルマにおける作戦も間接的なものから直接的・積極的なものへと具体化されていったために、鈴木敬司や南機関、特に30人の志士の思いや計画を覆すものになっていったことが挙げられる。言い換えれば、とりわけ、鈴木敬司の独断専行的な指導のためとも言え、それは、前述したように、鈴木敬司が、タキン党幹部らに独立支援を約束し、アウン・サンらを日本に偽装入国させたころから既に始まっていた。また、米英との戦争開始により大幅な計画変更を余儀なくされた際にも、テナセリウム地方占領時の臨時政府樹立やラングーン占領時の独立宣言という工作計画について、事態が急展開したこともあり、第15軍や南方軍の十分な理解や承認を得ないままに、BIAはビルマ領内への進撃を開始したのだった。

 こうして、独立宣言が無いままに完了した日本軍によるビルマの占領は、志士を始めとするビルマの人たちに大きな失望をもたらすと共に、南機関の任務の完了も意味することとなった。鈴木敬司は、軍政布告後間もなく内地部隊への異動を命ぜられ、42年7月には、BIAの総指揮をアウン・サンに移譲し、ビルマを離れた。同7月末には、BIAは、その一部の選抜された兵士により構成されるBDA(ビルマ防衛軍)に改編され、その司令官には引き続き、アウン・サンが就任した。南機関の日本人士官達も新たな任務を受け、南機関は、正式な発足からおよそ1年5カ月の活動をもって名実共に消滅したのである。
(続く)※敬称略

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