しかし、独立運動への援助の約束は越権行為だったことから、アウン・サンらの来日は、参謀本部としては必ずしも歓迎できなかった。そのため、機密費も使えず、アウン・サンらの滞在場所やその費用は鈴木敬司が自ら確保しなければならなかった。また、秘密工作であるため、人目や噂を避けるように、アウン・サンらは鈴木敬司の東京の宿舎だけでなく、浜松の実家や浜松湖畔の旅館「小松屋」等を転々とする他なかった。その一方で、鈴木敬司は、アウン・サンらのビルマ独立運動における指導的立場や、日本が独立運動を支援することの重要性等を軍幹部に説明し続け、翌1941年2月1日、大本営直属の特務機関として「南機関」を正式に発足させることに成功した。
「南機関」の名は、機関長に就いた鈴木敬司の偽名である「南益代」から付けられたものであり、その正体を隠すべく、対外的には「南方企業調査会」と名乗った。南機関の目的はビルマルート遮断のためのビルマ独立援助におかれ、具体的な方法は、独立運動の中核となるべき青年をビルマから脱出させ、軍事訓練を実施した後、武器や資金等と共にビルマに潜入させ、各所にて独立運動・武装蜂起を組織・展開させることにより、イギリスからの独立と新日政権の誕生を目指すというものだった。その作戦第一号として、日本人船員に扮した「面田紋二」ことアウン・サンらをビルマに潜入させ、4名のビルマ青年の脱出に成功した。こうした作戦を繰り返した結果、南機関所属のビルマ青年は10代後半から30代前半までの計30名(アウン・サン、ラ・ミャインを含む)に達した。今なお伝説的に語られる「30人の志士」の誕生である。彼らは、日本が占領していた中国・海南島の秘密基地に送り込まれ、南機関の日本人教官による集中的な軍事訓練を受けながら、ビルマへの潜入の時を待った。訓練では、実際に武装蜂起を行った際に日本の関与が発覚しないよう、中国戦線で捕獲された多国籍の外国製兵器を使用するなど、細心の注意が払われた。
鈴木敬司らが当初目標として考えていたのは、1941年の6月頃を目途にビルマでの武装蜂起を実行させるというものだった。しかし、国際情勢の変化により、参謀本部はそうした計画の中止・変更を南機関に求めたために、鈴木敬司ら日本人の機関員のみならず、「30人の志士」の不満をも高めた。6月22日に独ソ戦が勃発。7月には日本が南部仏印に軍を進駐させるなど、資源確保のために東南アジアを攻撃するべきという南進論の高まりと共に、米英との開戦は不可避という状況に陥りつつあったのである。それでも、大本営や参謀本部の対ビルマ作戦に関する考え方は漠然としたものであったが、こうした情勢の変化は、ビルマ国内の独立運動を支援しビルマルートを遮断するという間接的な作戦の必要性を低下させる一方、日本軍が直接英領ビルマを攻撃・占領するという軍事作戦への転換を次第に促すようになった。
41年12月8日の米英に対する開戦は、南機関の全面的な作戦変更を決定付けた。また開戦後まもなく南機関は第15軍の指揮下に組み込まれたために、第15軍との作戦の調整も必要となった。鈴木敬司は、「30人の志士」たちの不満を抑えるためにも、彼らを中核にビルマ独立義勇軍(BIA)を結成、第15軍とともにビルマに進攻することを提案し認めさせた。そして、12月11日に日泰攻守同盟条約が仮調印された直後にバンコクに入った鈴木敬司らは、当地で、タイに逃れていたビルマ人らに対し募兵を行い、同月28日には、日本人の南機関員も加わった約300名のBIA結成宣誓式を行った。BIAは独自の階級制度を定め、また鈴木敬司はビルマ名「ボウ・モウ・ジョウ(「雷将軍」の意)」大将としてBIAの司令官に就任した。アウン・サンはビルマ兵の中では最も階級が高い「面田少将」として、BIAでは三番目の地位の高級参謀に就いた。そして、鈴木敬司は、BIAの兵士らに、ビルマ南部のテナセリウム地方を占領すればその地に臨時政府を樹立すること、BIAの勢力範囲に入った地域では南機関が軍政をおこなうこと、ラングーンを占領すれば独立政権を樹立すること等を今後の工作計画として示した。そのため、ビルマ進攻直前のBIA兵士の士気は相当高まっていたようである。
(続く)※敬称略
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