群馬県の南部、烏川と利根川が合流する埼玉県堺に位置する玉村の鎮守「玉村八幡宮」へ参拝。日光例幣使街道(にっこうれいへいしかいどう)から一の鳥居入ると随神門。周りが駐車場となっています。右折禁止ですね。
二の鳥居から神橋を渡ると中門が現れます。
拝殿正面には八幡さまの言葉。
「新しき年『絆』を大切に、皆様に『幸』多き佳き年でありますように。」との願いが掲げられています。
第一末社の厳島神社。
稲荷神社、猿田彦大神の石碑、古峯神社
人形供養の淡島神社(通称:人形神社)と猿田彦神社(通称:加恵瑠神社)の二間社。
御神木の夫婦楠木。
随神門の裏手には、神仏習合の時代を想わせる「放生楼」の額が掛けられています。
: 【放生会】ほうじょうえ 供養のため,捕らえられた生き物を放してやる儀式。陰暦8月15日(現在では石清水祭の名で9月15日)に石清水八幡宮の神事に行われるものが有名。(Resource:大辞林 app)
当社は、鎌倉初期の建久六年(1195)源頼朝公によって、玉村町角渕の地に創建奉斎された角渕八幡宮を本宮とする。口碑によれば、頼朝公が新田館より三原へ赴く途次この地に休息し、鳥川の地形が鎌倉の由比ヶ浜に似ていたために上野奉行安達藤九郎盛長に命じ、鶴岡八幡宮の御分霊を勧請奉安せしめたという。以来、関東管領畠山満家・白井城主長尾左衛門尉憲景等による再建修造がなされた。江戸時代の初めには、関東郡代伊奈備前守忠次が当地一帯の新田開発(天狗岩堰開削)に際して、一大事業の成就を神前に祈り、慶長十五年(1610)無事竣工をみるに及び、神助の報賽と玉村鎮守のため角渕八幡宮本殿を上・下新田境の此地に移築修造した。これが現在の玉村八幡宮である。慶安二年(1649)には幕府より朱印地三十石を寄進され、また歴代の前橋藩主の月詣を得ると共に、数次の修造がなされた。このように武門武将の崇敬を得たばかりでなく、正保三年(1646)日光例幣使街道開設後は、当地が第一の宿場町として栄えるにつれ、道中安全や開運招福を願う一般庶民の崇敬をも集めることとなり、以来「玉の里の八幡さま」として親しまれる。また、古来より特殊信仰として、いぬ・い年生まれの守り神という戌亥八幡信仰があり、その御神徳は今も尚おおいに発揚されるところである。
御朱印をいただきました。
【おまけ】十二支性格早見表
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