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自称“流川市民”の、鉄道橋梁&トンネルと北海道の国鉄(JR)廃線跡が好きな人間がブログに挑む。(最近は迷走の日々…)

北海道枝幸郡歌登町でのいただき物 その1

2012年02月22日 | 鉄道―宗谷本線・留萠本線周辺廃線調査
 唐突だが、2月5日に行われた鉄道マニアの集いで、パフェを食べながら発表を聞いているうちに、宗谷本線の美深駅からオホーツク海沿岸の枝幸町にあった興浜北線北見枝幸駅を結ぼうとして果たせなかった美幸線を調べた際に、現地でいただいたモノについての疑問点を思い出したので記事にする。
 例によってマニアックな内容なので、私が疑問点として発表した記事はそっちのけで、パフェの画像をご覧いただいてからマニアの集いのレポートをご覧いただくのが賢明かと思われる。





集え鉄道趣味者!オレ鉄ナイト2~鉄道をこうやって楽しんでます!~ライブレポート(2012.2/5開催)


 平成10年10月中旬に日本海沿岸の初山別で天気が荒れて羽幌線の調査が出来ない状況が続き、
ふと、10月初旬に、道道120号の上を跨いでいた美幸線未開通区間の架道橋を見上げながら雑談していた国鉄清算事業団と日本鉄道建設公団(※共に当時)の方から、まもなくこの架道橋を解体する事を教えてもらったのを思い出し、羽幌線調査を一旦打ち切って、当時の歌登町にやってきた。
 10月初旬に会った男性2名から、工事見学者として指定のヘルメット着用の条件で立入許可をいただき、何日か写真撮影を続けて、橋梁の施工銘鈑を記念にいただいた。
 ところが、道道志美宇丹美深線架道橋と道道乙忠部中頓別線架道橋の施工銘鈑は重量があり過ぎて、廃線跡調査の足にしていたホンダプレスカブ50では速度が著しく低下し、西尾峠の緩い坂を越えるのにも不便を来たしたので、以前にお世話になった美深町の諸岡様に美深交通ターミナルで一時預かってもらい、平成14年以来、自宅で保管している。
…はずだが、倉庫の奥にしまったのか見つからないので、以前フィルムカメラで撮影してスキャンした画像を掲載する。






 本題である疑問についてだが、現場監督からいただいた道道乙忠部中頓別線架道橋の桁の施工銘鈑の橋梁名が、道道乙忠部中頓別線ではなく、オフンタルマナイ川だった事にあり、現場で実際にいただいた時に気付いていれば良かったのだが、後の祭りである。

 道道乙忠部中頓別線架道橋の桁施工銘鈑の橋梁名が「オフンタルマナイ川橋梁」となっていた事について、工区と施工会社及び施工時期が違う事から、貼り間違いとは考えにくい。
 参考資料とした北海道大学鉄道研究会の「混合列車 No.24」によれば、オフンタルマナイ川は北10工区を請け負っていた株式会社中山組が担当し、架道橋は北9工区を請け負っていた札建工業株式会社が担当しており、北10工区施工時期は昭和45年11月~46年11月、北9工区施工時期は昭和46年4月~昭和48年7月となっている。
 実際、架道橋の先にあったオフンタルマナイ川に架けられたオフンタルマナイ川橋梁の橋台や、第1上徳志別トンネルにあった施工銘鈑の施工者は、株式会社中山組となっている事を確認した。
 うかつにも道道乙忠部中頓別線架道橋の施工者が記されている橋台の施工銘鈑は、10月初旬の段階で撮影しなかった為に、その後の撤去工事での作業の邪魔になりそうだったので撮影の機会を逃してしまった。

 この疑問について、資料を入手できる目処もなく解決の見込みがなくなって忘れかけていたのだが、こないだ出かけてきた集いで、当時の鉄道建設公団が手がけた鉄道路線について、資料と現物が異なっていた事例についての発表のおかげで、解決こそしないものの疑問が氷解したような気がする。

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2 コメント

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ねこさん、久しぶりです。 (ブログのヌシ)
2012-02-24 08:17:09
そういえば、縦断面図に後から修正を加えた痕跡がありましたが、設計変更があったのでしょうね。
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Unknown (ねこ)
2012-02-23 23:38:56
 ほぅ…。こんなこともあるのですね。
返信する

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