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自称“流川市民”の、鉄道橋梁&トンネルと北海道の国鉄(JR)廃線跡が好きな人間がブログに挑む。(最近は迷走の日々…)

JR深名線 第3雨竜川橋梁

2011年03月30日 | 鉄道―建築物・橋梁・踏切・トンネル他
 鉄道橋梁や廃線跡探索が好きと書いておきながら取り上げていなかったので、北海道の函館本線深川駅から雨竜郡幌加内町を経て宗谷本線名寄駅を結んでいたJR深名線の第3雨竜川橋梁について取り上げて、同時に私と第3雨竜川橋梁にまつわる話をしたいと思う。

 この路線は、森林資源の開発等を目的とし、1924(大正13)年10月25日に深川~多度志間が雨竜線(→後に幌加内線に改称)として開業し、1937(昭和12)年11月10日に名寄~天塩弥生(当時は初茶志内)間が名雨線という名称で開業した。
 1941(昭和16)年10月10日に名雨線が朱鞠内まで延長された時に、幌加内線・名雨線を深名線と改めている。

 大正から昭和初期の日本では、地方の拓殖を目的とした路線建設と明治期に開業した都市部での鉄道路線の改良工事が行われており、都市部では輸送量と速度の増加を目的として鉄道橋梁の桁は新型のものと取り替えらえた。
 桁交換工事で余剰となった桁は補強工事を行い、山間部に路線を延長する為に必然的に多くの河川を渡らざるを得なかった地方路線の橋梁架設工事に用いられて、いわゆるリサイクルが図られた。
 この深名線では、昭和04年から昭和06年に開業した鷹泊・添牛内間の複数の橋梁において、鉄道桁の転用が行われており、その最たる例が第3雨竜川橋梁であった。

 鉄道廃線跡の探索の過程で、第3雨竜川橋梁が単に北海道の土木史において初の吊足場式工法が採用され、記録がまとめられた貴重な橋梁である事に留まらず、都市部の鉄道工事と地方鉄道建設工事が密接にリンクしていた事を示す貴重な橋梁である事がわかって、これらの転用桁を用いた鉄道橋梁群を保存できないものかと、無謀にも士幌線コンクリートアーチ橋梁の保存に携わった大学教授にメールをしたためた。
 地域のシンボルとして、町の予算を使って橋梁を保存する事で得られるメリットについて考え、何度もやりとりしたが、町を納得させるだけの文章はまとまらず、純粋に橋梁の価値に的を絞って保存の要望をまとめるよう教えられてまとめたものの、北海道に行く機会を得られずに保存の要望に挙げていた橋梁は次々と解体されていった。

 転用鉄道桁が採用された深名線の橋梁…否、数年で橋梁が次々と解体されていく中で残っている深名線の橋梁が、第3雨竜川橋梁だけとなった頃、幌加内町在住の方から、第3雨竜川橋梁を地域のシンボルとしての観点から保存に向けて模索していた団体の代表者と面会する機会を得られて、都市と地方のつながりを示す貴重な存在である事を説明し、彼らなら要望書を活かしていただけると確信し、要望書を託した。
 そして、団体の皆様の保存活動に向けた努力の甲斐があって、土木学会選奨土木遺産として平成21年度選奨土木遺産に指定された事は、個人的な趣味が地域に還元できた稀な例であり、非常に喜ばしい。



 さて、転用された桁の製造プレートだが、文字が逆さになっており、一見すると写真の天地が間違っているのではないかと思われるかも知れないが、太陽の当たり具合からプレートの天地が逆になっている事がわかる。
 これは、かつてプレートの天側に線路が載せられ雨ざらしになっていて、部分的に腐食していた事から、転用の際に桁の天地を逆にした上で補強したものと推測される。
 桁の改造プレートが全て脱落してしまった為、桁の出自が不明となってしまった事が非常に惜しまれるが、その点を差し引いても、ポンカムイコタンの渓谷に架けられたこの橋梁は実に美しい。
 国道275号沿いの幌加内町政和にある道の駅「森と湖の里ほろかない」にお立ち寄りの際には、橋梁まで足を伸ばしていただけると幸いである。


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