はじめに、平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震で被災された皆様に、心からお見舞い申し上げます。
旧ホームページから移設したこの記事に掲載した写真は、平成21年6月に撮影したものです。
大学2年の後期試験が終わった平成8年の1月末、私が所属する旅行研究部で3月に旅行する事が決まり、資金を稼ぐべくアルバイトをする必要が生じた為、大学の掲示板のアルバイト募集を見てみた。すると、鉄道工事のアルバイトの広告が目にとまった。
内容としては、列車接近警報装置の取付工事を約一か月間、福島県で泊り込みで行うとの事で、広告によれば、非常に簡単な作業であるそうだ。
列車接近警報装置とは、駅の列車接近の自動放送や踏切と似たようなもので、列車がある区間に侵入すると、前方の区間に設置されている装置が光や音で列車の接近を作業員に知らせる装置である。ちなみに、今回取り付けた装置は、普段は照明が点灯しており、列車が接近すると点滅を始めるタイプで、おそらく、山手線等の列車待ちの際にホームの外れで見た事があるはずだ。
鉄道好きで、ファストフードを始めとする接客業が大嫌いな私にとって、鉄道工事はとても魅力に感じられ、すぐさま授業をおっぽりだして家に帰って問い合わせたところ、翌日に面接する事が決まった。
翌日、会社の事務所に面接に出かけると、即決で採用されたが、作業員の手配が済んでいないので、後日に出勤日について連絡すると言われた。わずか10分程で面接(実質的には面談)が終わった。後日、初出勤が2月8日と決定し、荷物の準備を始めた…。
2月8日の午前5時に家を出た私は、事務所に向かった。外はとても寒くて吐息は白く、星がまたたいており、朝焼けにはまだ遠い。社長の運転する車で事務所を出ると、途中で作業員を拾いながら、常磐自動車道に乗って福島県に向かった。
今回会社から派遣された作業員は、50代の社員と、同年代の2名のアルバイトの他に、社長を含めた4名である。名前を既に失念してしまったので、仮に50代の社員をS氏、がたいのいい方をA氏、田村正和のモノマネがうまい方をT氏とする。
常磐自動車道のいわきインターを降りると、いわきの市街地を抜けて常磐線の久ノ浜駅に向かった。そこで、今回の工事を受注した株式会社カネコの現場監督と列車見張員と合流した。
今回の作業地点は、日暮里起点224km020m地点にある久ノ浜駅の先(起点224km300m付近)から227km550m地点にある末続駅の先(228km500m付近)の間であると知らされた。
ここの区間は普通列車で北海道へ行く際にいつも通っていたので、そこの区間を担当することが出来ると知って、とてもうれしかった。それに、この区間はトンネルが多く、海がちらちらと見える美しい車窓であったので、海からの風はつらいかもしれないが、海を見ながらの作業はなかなか良いかも知れないと期待しつつ、現場に向かった。
初日の現場は、末続駅の先にある末続トンネル手前で、架線柱に装置の支柱を取り付ける作業を行った。作業前に末続補助き電区分所の建物脇でミーティングを行ったが、アルバイトが自分を含めて3名いたので、作業上の注意点を細かい所まで色々と言われた。
第1に、線路上に工具を落とさない事。特に、スコップ等の柄の長い金属製の工具を落として、2本のレールをショートさせない事。これをやると、前後の区間の自動信号が停止信号の赤を現示してしまい、列車を止めてしまう。
第2に、列車見張り員から列車接近の第1次報告を受けたら直ちに作業を中止して工具を持って退避し、列車に正対しながら片手を上げ、不審な挙動を行わない事。また、退避禁止区間には絶対に退避しない事。第2の項目のいずれかをやってしまうと列車は直ちに停止してしまい、多額の損害賠償金を払う必要が生じ、また、入札の際の指名停止処分といったペナルティが課せられる。
ちなみに損害賠償金の金額だが、一説によれば、個人が40年間会社で働いてやっと返済できるかどうかという金額になるそうである。また、列車への飛び込み自殺では、遺族に損害賠償金が請求されるらしい。従って、列車への飛び込み自殺は、巻き添えを食らった乗客だけでなく遺族や親族にも迷惑がかかり、死んでも恨まれる事になるので、自殺という行為は間違っても考えないようにしよう。
さて、常磐線のいわき駅から北の区間は、列車の間隔がほぼ一定しており、パターンが決まっている。北海道に行く際にいつも常磐線の普通列車に乗車していた関係で、そのパターンがだいたいわかっていたので、時計を見ながら仕事をした。
しばらくして、頭に入っていた列車の久ノ浜駅発車時刻を過ぎ、さらに下り列車用の信号機(閉塞信号機)が青に変わったので、そろそろ下り列車が通過する時間ではないかと社長に伺っていたところ、列車見張り員から下り列車接近の報告を受けて退避したが、退避の時間がとても長いように感じた。やっと列車が来て、軽く汽笛を鳴らして通過していった。
列車が通過した後、社長がどうして列車の通過時刻がわかったのか尋ねてきたので、閉塞信号機の事と列車の運行パターンを知っていた事を告げると、社長がえらく感心して、ついでに近くにあった距離標(起点からの位置を示すもの)や曲線標(曲線半径を示すもの)について知っているか尋ねてきた。即座に答えると、社長は目を丸くして、他の作業員もびっくりしていた。私はこのアルバイトを選んで改めて良かったなあと思った。
この日の作業は早めに終了し、しばらくの間お世話になる宿へと向かった。車は市街地へ入り、古い商店が並ぶ海のすぐ近くの細い路地を抜けると、淡い紫色の旅館の前で停車した。「高木屋旅館」と書いてある。これから、ここでしばらく過ごす事になるようだ。
荷を解いた社長らは、時代劇を見始めたので、同世代の3人で駅の近辺を探索した。その結果、駅の近辺には遊べるような場所はない事がわかった。
そこで、ナンパに行こうかと提案が挙がったが、私は参加を辞退した。その日の晩は、豪華な魚料理であった。これから、魚料理が毎朝と毎晩に出される事になるのであった…。
翌日は、末続トンネルを抜けた、海からの風が頬を撫でる場所で作業を行う事になった。穴を掘って支柱を立てて、コンクリートを流し込んで固定する作業である。
社長は、アメリカンスコップと呼ばれる、スコップをちょうつがいでつないだような変なスコップを持ち出し、これで穴を掘ってみろと指示を出した。ところが、この道具が使いづらい。それに、やたら地面が固い。かわるがわる交代し、普通のスコップとアルバイトの間で「棍棒」と称した金属製の棒を併用したものの、時間がやたらかかった。
とうとう、社長がしびれを切らして掘り始めたが、社長もてこずり、ちくしょうとぼやきながら掘った。それでも、我々より圧倒的に早く掘削作業が進んだ。
一通り掘り終えて、小休止する事にした。休憩中に、社長にこの使いづらいアメリカンスコップという道具について質問したところ、のこぎりを実例に日本と欧米の道具の比較、更には思想や風習の違いについてまで話し、物事に対しては自分たちの常識にとらわれる事無く、常に柔軟な発想で取り組むよう諭して下さった。ちなみに、日本ののこぎりは手前に引きながら切断するが、欧米ののこぎりは、押しながら切断するそうだ。
この日の仕事が終わって、社長らはミーティングに出かけ、他の仲間はナンパへ出かけてしまったので、部屋でテレビをつけたところ、世界名作劇場シリーズの「母をたずねて三千里」が放送中であった。とてもなつかしかったのでついつい見てしまう。おまけに、見終わったので別のチャンネルにしたところ、世界名作劇場シリーズの「不思議の島のフローネ」がちょうど始まったので、これも思わず見てしまう。
地方の番組は懐かしいアニメが放映されている事が往々にしてあるが、まさか、個人的にお気に入りの番組が立て続けに放送されているとは夢にも思わなかった。
ある日の作業の休憩中に、どのような流れか失念したが年齢の話になって、若き現場監督が何と、自分も含めた現場の作業員の中で一番若い事が判明した。たしか、20歳になったかどうかという年齢(※当時)であった。この日を境に、アルバイトの連中が現場監督に親近感を抱いたのであった。
この日は、各トンネル内部に警報装置の架台と本体を取付ける作業を行った。線路際にある保線用の専用道路を車で移動しながら、トンネル内部に取付けていくのである。
この道路は、以前は線路が敷かれていたのだが、色々な理由で放棄された。この辺りは、先に述べたようにトンネルが多く、専用道路と化した線路跡にも、煉瓦製のトンネルが未だに残っている。
その昔、この煉瓦製のトンネルを日本最大の旅客用蒸気機関車が通過したものだが、今では専用道路のトンネルとして転用され、余生を送っている。煉瓦のトンネルの上部には、蒸気機関車が疾走した時の煤が黒い染みとなって残っている。
(後日、JTB出版事務局から刊行された「鉄道廃線跡を歩く」でこの区間が取り上げられた時には、作業の日々を思い出した)
トンネル内部での列車退避の際には、通過の前に見張り員の合図でマンホールと称される待避所に駆け込んで、通過を待つのである。やがて、地響きが始まって風が進行方向に吹き始めるとまもなく、風と共に列車の轟音がトンネル内部にこだまして、けたたましい音と光の帯が駆け抜けていく…。列車の通過がとても怖くて嫌な作業であった。
この日の作業が終わって、アルバイト仲間に例によってナンパに誘われたので、今回は経験とばかりにでかけてみる事にした。最初は、駅の近くのコンビニエンスストアで、T氏が田村正和のモノマネで女子高生をナンパする。ところが、なかなか思うようにはいかない。それでも、1人ばかりひっかかったようだ。(これが、思わぬところで話題となる)
さて、私は、駅で色白の落ち着いた雰囲気の女性にナンパを試みようとしたが、ヘッドフォンをつけて音楽を聴いていた為、どのようにアプローチをしたら良いのかわからない。そんな様子を見かねて、T氏が口説き落とし、ひとまず名前と会社の電話番号を聞き出した。さすがだ。
これをきっかけに、仕事の後はコンビニエンスストアか駅でナンパするのが日課(?)となった。後に現場監督まで加わってナンパにいそしんだのだが、ほとんどは失敗に終わった。だが、現場監督はナンパした娘にえらく気に入られて、しつこくつきまとわれたり、アルバイト仲間の一人は旅館近くの宿泊施設で二人で一晩を明かす等、成功例も見受けられた。
そんなある日に、アルバイト仲間のT氏が社員と一緒にスナックに飲みに行った所、スナックのママが、駅前のコンビニエンスストアで田村正和のものまねでナンパしているT氏の顔を知っていたそうだ。
まあ、作業着姿をした男が、田村正和のモノマネで何週間もナンパしていれば、誰かに顔を覚えられるものだが、まさか、スナックのママが知っているとは思いもよらなかったそうだ。そのような訳で、彼がボトルキープをした際に、ボトルには「田村正和」様と書かれたそうだ。
警報装置の架台と本体の取付が完了してケーブルの敷設がほとんど完了したある日に、朝食・夕食と豪華な魚料理を出していた旅館が、豪華な肉料理を出して下さった。3週間もの間、朝と晩に魚料理を食し、昼には丼物かカレーかうどん類を食して、失礼ながらいささか食傷気味だった矢先の事である。とてもおいしいと感じると同時に、もうすぐここでの作業が終了する一抹の寂しさを感じた。
3月第1週の後半に、信号会社から応援が駆けつけ、信号機と制御装置との結線が行なわれ、いよいよ、作業の終了が目前に迫った。翌週の金曜日までに作業が全て終了して、土曜日には、列車接近警報装置の動作試験が行なわれた。
列車が通過する時刻が迫ってきた。固唾を飲んで作動する瞬間を待った。とても、長い時間であるように感じた。
そして…列車接近警報装置が、列車接近を告げる点滅を始めた。いつも駅の外れで見慣れていたはずだが、自分達が苦労を重ねながら手塩にかけて設置した装置が、きちんと作動する姿を見て、とても感動した。列車が何事も無く通過してしばらくすると、点滅していた警報装置は、通常の点灯状態に戻った。
列車接近警報装置の動作試験は成功した。その瞬間、この1か月間もの作業の日々が、走馬灯のようによぎった。これで、全てが終わった…。
後日、アルバイトの給料を受け取るべく会社の事務所に向かう前に、ある鉄道路線の工事図面を用意した。社長はいつだったか、会社を起こす前には国鉄で設計をしていて、東北新幹線の工事では、設計から施工まですべてやったと聞いていたので、社長だったら図面の読み方がわかるだろうと目論んでの事であった。
事務所に到着すると、アルバイト仲間のT氏がそこにいてくつろいでいた。久しぶりの再会を喜びながら社長から給料を受け取ると、さっそく、用意した図面を取り出し、図面の読み方を尋ねた。社長は、鉄道工事の図面に長らく接していなかったようで、しばらく考えていたが、やがて、図面の読み方を教えて下さった。
社長から給料を受けとって図面の読み方を教わり、用事がなくなった私は、お礼を述べて事務所を立ち去る事にした。この社長には、図面の読み方を始めとして廃線跡調査に役に立つ事を教わっただけでなく、私に土木に対する興味を与えて下さった。今でも、非常に感謝しております。
あれから13年経った平成9年の初夏、手塩にかけて設置した装置を見に来て、器具箱が錆付き、常時点灯しているはずの装置が消灯して列車が接近しても点滅しなかった事にがっかりしたものだったが、まさか、常磐線が長期に亘って不通になるとは想像すらできなかった。
今はただ、一日も早く復興する事を願っております。
旧ホームページから移設したこの記事に掲載した写真は、平成21年6月に撮影したものです。
大学2年の後期試験が終わった平成8年の1月末、私が所属する旅行研究部で3月に旅行する事が決まり、資金を稼ぐべくアルバイトをする必要が生じた為、大学の掲示板のアルバイト募集を見てみた。すると、鉄道工事のアルバイトの広告が目にとまった。
内容としては、列車接近警報装置の取付工事を約一か月間、福島県で泊り込みで行うとの事で、広告によれば、非常に簡単な作業であるそうだ。
列車接近警報装置とは、駅の列車接近の自動放送や踏切と似たようなもので、列車がある区間に侵入すると、前方の区間に設置されている装置が光や音で列車の接近を作業員に知らせる装置である。ちなみに、今回取り付けた装置は、普段は照明が点灯しており、列車が接近すると点滅を始めるタイプで、おそらく、山手線等の列車待ちの際にホームの外れで見た事があるはずだ。
鉄道好きで、ファストフードを始めとする接客業が大嫌いな私にとって、鉄道工事はとても魅力に感じられ、すぐさま授業をおっぽりだして家に帰って問い合わせたところ、翌日に面接する事が決まった。
翌日、会社の事務所に面接に出かけると、即決で採用されたが、作業員の手配が済んでいないので、後日に出勤日について連絡すると言われた。わずか10分程で面接(実質的には面談)が終わった。後日、初出勤が2月8日と決定し、荷物の準備を始めた…。
2月8日の午前5時に家を出た私は、事務所に向かった。外はとても寒くて吐息は白く、星がまたたいており、朝焼けにはまだ遠い。社長の運転する車で事務所を出ると、途中で作業員を拾いながら、常磐自動車道に乗って福島県に向かった。
今回会社から派遣された作業員は、50代の社員と、同年代の2名のアルバイトの他に、社長を含めた4名である。名前を既に失念してしまったので、仮に50代の社員をS氏、がたいのいい方をA氏、田村正和のモノマネがうまい方をT氏とする。
常磐自動車道のいわきインターを降りると、いわきの市街地を抜けて常磐線の久ノ浜駅に向かった。そこで、今回の工事を受注した株式会社カネコの現場監督と列車見張員と合流した。
今回の作業地点は、日暮里起点224km020m地点にある久ノ浜駅の先(起点224km300m付近)から227km550m地点にある末続駅の先(228km500m付近)の間であると知らされた。
ここの区間は普通列車で北海道へ行く際にいつも通っていたので、そこの区間を担当することが出来ると知って、とてもうれしかった。それに、この区間はトンネルが多く、海がちらちらと見える美しい車窓であったので、海からの風はつらいかもしれないが、海を見ながらの作業はなかなか良いかも知れないと期待しつつ、現場に向かった。
初日の現場は、末続駅の先にある末続トンネル手前で、架線柱に装置の支柱を取り付ける作業を行った。作業前に末続補助き電区分所の建物脇でミーティングを行ったが、アルバイトが自分を含めて3名いたので、作業上の注意点を細かい所まで色々と言われた。
第1に、線路上に工具を落とさない事。特に、スコップ等の柄の長い金属製の工具を落として、2本のレールをショートさせない事。これをやると、前後の区間の自動信号が停止信号の赤を現示してしまい、列車を止めてしまう。
第2に、列車見張り員から列車接近の第1次報告を受けたら直ちに作業を中止して工具を持って退避し、列車に正対しながら片手を上げ、不審な挙動を行わない事。また、退避禁止区間には絶対に退避しない事。第2の項目のいずれかをやってしまうと列車は直ちに停止してしまい、多額の損害賠償金を払う必要が生じ、また、入札の際の指名停止処分といったペナルティが課せられる。
ちなみに損害賠償金の金額だが、一説によれば、個人が40年間会社で働いてやっと返済できるかどうかという金額になるそうである。また、列車への飛び込み自殺では、遺族に損害賠償金が請求されるらしい。従って、列車への飛び込み自殺は、巻き添えを食らった乗客だけでなく遺族や親族にも迷惑がかかり、死んでも恨まれる事になるので、自殺という行為は間違っても考えないようにしよう。
さて、常磐線のいわき駅から北の区間は、列車の間隔がほぼ一定しており、パターンが決まっている。北海道に行く際にいつも常磐線の普通列車に乗車していた関係で、そのパターンがだいたいわかっていたので、時計を見ながら仕事をした。
しばらくして、頭に入っていた列車の久ノ浜駅発車時刻を過ぎ、さらに下り列車用の信号機(閉塞信号機)が青に変わったので、そろそろ下り列車が通過する時間ではないかと社長に伺っていたところ、列車見張り員から下り列車接近の報告を受けて退避したが、退避の時間がとても長いように感じた。やっと列車が来て、軽く汽笛を鳴らして通過していった。
列車が通過した後、社長がどうして列車の通過時刻がわかったのか尋ねてきたので、閉塞信号機の事と列車の運行パターンを知っていた事を告げると、社長がえらく感心して、ついでに近くにあった距離標(起点からの位置を示すもの)や曲線標(曲線半径を示すもの)について知っているか尋ねてきた。即座に答えると、社長は目を丸くして、他の作業員もびっくりしていた。私はこのアルバイトを選んで改めて良かったなあと思った。
この日の作業は早めに終了し、しばらくの間お世話になる宿へと向かった。車は市街地へ入り、古い商店が並ぶ海のすぐ近くの細い路地を抜けると、淡い紫色の旅館の前で停車した。「高木屋旅館」と書いてある。これから、ここでしばらく過ごす事になるようだ。
荷を解いた社長らは、時代劇を見始めたので、同世代の3人で駅の近辺を探索した。その結果、駅の近辺には遊べるような場所はない事がわかった。
そこで、ナンパに行こうかと提案が挙がったが、私は参加を辞退した。その日の晩は、豪華な魚料理であった。これから、魚料理が毎朝と毎晩に出される事になるのであった…。
翌日は、末続トンネルを抜けた、海からの風が頬を撫でる場所で作業を行う事になった。穴を掘って支柱を立てて、コンクリートを流し込んで固定する作業である。
社長は、アメリカンスコップと呼ばれる、スコップをちょうつがいでつないだような変なスコップを持ち出し、これで穴を掘ってみろと指示を出した。ところが、この道具が使いづらい。それに、やたら地面が固い。かわるがわる交代し、普通のスコップとアルバイトの間で「棍棒」と称した金属製の棒を併用したものの、時間がやたらかかった。
とうとう、社長がしびれを切らして掘り始めたが、社長もてこずり、ちくしょうとぼやきながら掘った。それでも、我々より圧倒的に早く掘削作業が進んだ。
一通り掘り終えて、小休止する事にした。休憩中に、社長にこの使いづらいアメリカンスコップという道具について質問したところ、のこぎりを実例に日本と欧米の道具の比較、更には思想や風習の違いについてまで話し、物事に対しては自分たちの常識にとらわれる事無く、常に柔軟な発想で取り組むよう諭して下さった。ちなみに、日本ののこぎりは手前に引きながら切断するが、欧米ののこぎりは、押しながら切断するそうだ。
この日の仕事が終わって、社長らはミーティングに出かけ、他の仲間はナンパへ出かけてしまったので、部屋でテレビをつけたところ、世界名作劇場シリーズの「母をたずねて三千里」が放送中であった。とてもなつかしかったのでついつい見てしまう。おまけに、見終わったので別のチャンネルにしたところ、世界名作劇場シリーズの「不思議の島のフローネ」がちょうど始まったので、これも思わず見てしまう。
地方の番組は懐かしいアニメが放映されている事が往々にしてあるが、まさか、個人的にお気に入りの番組が立て続けに放送されているとは夢にも思わなかった。
ある日の作業の休憩中に、どのような流れか失念したが年齢の話になって、若き現場監督が何と、自分も含めた現場の作業員の中で一番若い事が判明した。たしか、20歳になったかどうかという年齢(※当時)であった。この日を境に、アルバイトの連中が現場監督に親近感を抱いたのであった。
この日は、各トンネル内部に警報装置の架台と本体を取付ける作業を行った。線路際にある保線用の専用道路を車で移動しながら、トンネル内部に取付けていくのである。
この道路は、以前は線路が敷かれていたのだが、色々な理由で放棄された。この辺りは、先に述べたようにトンネルが多く、専用道路と化した線路跡にも、煉瓦製のトンネルが未だに残っている。
その昔、この煉瓦製のトンネルを日本最大の旅客用蒸気機関車が通過したものだが、今では専用道路のトンネルとして転用され、余生を送っている。煉瓦のトンネルの上部には、蒸気機関車が疾走した時の煤が黒い染みとなって残っている。
(後日、JTB出版事務局から刊行された「鉄道廃線跡を歩く」でこの区間が取り上げられた時には、作業の日々を思い出した)
トンネル内部での列車退避の際には、通過の前に見張り員の合図でマンホールと称される待避所に駆け込んで、通過を待つのである。やがて、地響きが始まって風が進行方向に吹き始めるとまもなく、風と共に列車の轟音がトンネル内部にこだまして、けたたましい音と光の帯が駆け抜けていく…。列車の通過がとても怖くて嫌な作業であった。
この日の作業が終わって、アルバイト仲間に例によってナンパに誘われたので、今回は経験とばかりにでかけてみる事にした。最初は、駅の近くのコンビニエンスストアで、T氏が田村正和のモノマネで女子高生をナンパする。ところが、なかなか思うようにはいかない。それでも、1人ばかりひっかかったようだ。(これが、思わぬところで話題となる)
さて、私は、駅で色白の落ち着いた雰囲気の女性にナンパを試みようとしたが、ヘッドフォンをつけて音楽を聴いていた為、どのようにアプローチをしたら良いのかわからない。そんな様子を見かねて、T氏が口説き落とし、ひとまず名前と会社の電話番号を聞き出した。さすがだ。
これをきっかけに、仕事の後はコンビニエンスストアか駅でナンパするのが日課(?)となった。後に現場監督まで加わってナンパにいそしんだのだが、ほとんどは失敗に終わった。だが、現場監督はナンパした娘にえらく気に入られて、しつこくつきまとわれたり、アルバイト仲間の一人は旅館近くの宿泊施設で二人で一晩を明かす等、成功例も見受けられた。
そんなある日に、アルバイト仲間のT氏が社員と一緒にスナックに飲みに行った所、スナックのママが、駅前のコンビニエンスストアで田村正和のものまねでナンパしているT氏の顔を知っていたそうだ。
まあ、作業着姿をした男が、田村正和のモノマネで何週間もナンパしていれば、誰かに顔を覚えられるものだが、まさか、スナックのママが知っているとは思いもよらなかったそうだ。そのような訳で、彼がボトルキープをした際に、ボトルには「田村正和」様と書かれたそうだ。
警報装置の架台と本体の取付が完了してケーブルの敷設がほとんど完了したある日に、朝食・夕食と豪華な魚料理を出していた旅館が、豪華な肉料理を出して下さった。3週間もの間、朝と晩に魚料理を食し、昼には丼物かカレーかうどん類を食して、失礼ながらいささか食傷気味だった矢先の事である。とてもおいしいと感じると同時に、もうすぐここでの作業が終了する一抹の寂しさを感じた。
3月第1週の後半に、信号会社から応援が駆けつけ、信号機と制御装置との結線が行なわれ、いよいよ、作業の終了が目前に迫った。翌週の金曜日までに作業が全て終了して、土曜日には、列車接近警報装置の動作試験が行なわれた。
列車が通過する時刻が迫ってきた。固唾を飲んで作動する瞬間を待った。とても、長い時間であるように感じた。
そして…列車接近警報装置が、列車接近を告げる点滅を始めた。いつも駅の外れで見慣れていたはずだが、自分達が苦労を重ねながら手塩にかけて設置した装置が、きちんと作動する姿を見て、とても感動した。列車が何事も無く通過してしばらくすると、点滅していた警報装置は、通常の点灯状態に戻った。
列車接近警報装置の動作試験は成功した。その瞬間、この1か月間もの作業の日々が、走馬灯のようによぎった。これで、全てが終わった…。
後日、アルバイトの給料を受け取るべく会社の事務所に向かう前に、ある鉄道路線の工事図面を用意した。社長はいつだったか、会社を起こす前には国鉄で設計をしていて、東北新幹線の工事では、設計から施工まですべてやったと聞いていたので、社長だったら図面の読み方がわかるだろうと目論んでの事であった。
事務所に到着すると、アルバイト仲間のT氏がそこにいてくつろいでいた。久しぶりの再会を喜びながら社長から給料を受け取ると、さっそく、用意した図面を取り出し、図面の読み方を尋ねた。社長は、鉄道工事の図面に長らく接していなかったようで、しばらく考えていたが、やがて、図面の読み方を教えて下さった。
社長から給料を受けとって図面の読み方を教わり、用事がなくなった私は、お礼を述べて事務所を立ち去る事にした。この社長には、図面の読み方を始めとして廃線跡調査に役に立つ事を教わっただけでなく、私に土木に対する興味を与えて下さった。今でも、非常に感謝しております。
あれから13年経った平成9年の初夏、手塩にかけて設置した装置を見に来て、器具箱が錆付き、常時点灯しているはずの装置が消灯して列車が接近しても点滅しなかった事にがっかりしたものだったが、まさか、常磐線が長期に亘って不通になるとは想像すらできなかった。
今はただ、一日も早く復興する事を願っております。
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