「レッドクリフ」を観たところで、以前より気になっていたCGやら関連の新しい技法について考えてみました。
「レッドクリフ Part I」の中でも書いたんですが、CGが「グラディエーター」では実写の補足的な使い方だったのに対し、あからさまにCGと分かる表現をしているのは如何なモノなんでしょうか? 確か、「タイタニック」でも背景や大型客船の沈没シーンなどにCGを使ったシーンがあって、あれについては私は否定的ではありません。要するに、実写の補足的なCG処理は気にならないんですが、中国・香港系の作品(実は邦画の中にもあるようですが)などで、明らかにCGとわかる画面処理やら、ワイヤー・アクション等を絡めて、漫画のような動きを作っているものには抵抗があります。一体、あれって映画の表現技法になっているんでしょうかね。
かつて、サム・ペキンパーが「ワイルド・バンチ」等で使ったスローモーションには暴力の残酷性が表現されていたように思うのですが、今時のCG絡みのアクション・シーンは迫力とか動きの美しさみたいなモノだけを狙っていて、ペキンパーの使い方とは基本的に違うような気がするんですよね。
それと同じで、かつては実写の補足としてリアリティの向上を担っていたCGが、リアリティを通り越して、ファンタジーの表現のみに使われようとしている。いや、ファンタジーは、それはそれでいいんです。「ネバー・エンディング・ストーリー」とか「ハリー・ポッター」とか、最初からファンタジーとして狙っている映画がファンタジーの表現としてCGを使うことにはなんの矛盾もないんです。アニメーションが絵を使うことと同じくらいにですね。しかし、「レッドクリフ」のような実写の映画が、しかもコメディでもスラップスティックでもない作品が、CGでファンタジーのようなショットを作ることには?マークが何個か頭の中に付いてしまいます。通常のドラマ作品にも、例えば登場人物の空想のシーンとかでファンタジーのようなショットが出てくることがありますよね。でも、あれはあくまでもそういう想像のシーンでありまして、比較にはなりません。一体、実写映画の中のああいうシーンで何を表現しようとしているんでしょうか。「マトリックス」も、CGやらワイヤー・アクションが出てきて、アトラクション的な作品でした。ただ、基本的にSFだし、現実の世界とバーチャルとを行ったり来たりという設定が斬新で、ありえない動きも内容に合っていたように思います。
激しい戦いのシーンで、ワイヤーを使ったアクションをスローモーション撮影した部分もありました。あれって、何? カッコイイでしょうって事ですか?
チャン・イーモウが「初恋のきた道」で使ったスローモーションでは、チャン・ツィーの可愛らしい表情を追ったショットが幾つか出てきましたが、あれは彼女を見つめる彼氏の『可愛いなぁ』とかいう感情を表したり、彼女自身の恋する気持ちが表情に出ているのを表したシーンだったはずで、ただ単に作者の美的感覚を押しつけたショットではなかったはずです。
映画のショットは、そのショットだけで成り立つ表現は少なく、前後のショットとの関連で大きな意味を持ってくる。“カッコイイでしょう”ショットは表現では無いと思うのですがね~。
「レッドクリフ Part I」の中でも書いたんですが、CGが「グラディエーター」では実写の補足的な使い方だったのに対し、あからさまにCGと分かる表現をしているのは如何なモノなんでしょうか? 確か、「タイタニック」でも背景や大型客船の沈没シーンなどにCGを使ったシーンがあって、あれについては私は否定的ではありません。要するに、実写の補足的なCG処理は気にならないんですが、中国・香港系の作品(実は邦画の中にもあるようですが)などで、明らかにCGとわかる画面処理やら、ワイヤー・アクション等を絡めて、漫画のような動きを作っているものには抵抗があります。一体、あれって映画の表現技法になっているんでしょうかね。
かつて、サム・ペキンパーが「ワイルド・バンチ」等で使ったスローモーションには暴力の残酷性が表現されていたように思うのですが、今時のCG絡みのアクション・シーンは迫力とか動きの美しさみたいなモノだけを狙っていて、ペキンパーの使い方とは基本的に違うような気がするんですよね。
それと同じで、かつては実写の補足としてリアリティの向上を担っていたCGが、リアリティを通り越して、ファンタジーの表現のみに使われようとしている。いや、ファンタジーは、それはそれでいいんです。「ネバー・エンディング・ストーリー」とか「ハリー・ポッター」とか、最初からファンタジーとして狙っている映画がファンタジーの表現としてCGを使うことにはなんの矛盾もないんです。アニメーションが絵を使うことと同じくらいにですね。しかし、「レッドクリフ」のような実写の映画が、しかもコメディでもスラップスティックでもない作品が、CGでファンタジーのようなショットを作ることには?マークが何個か頭の中に付いてしまいます。通常のドラマ作品にも、例えば登場人物の空想のシーンとかでファンタジーのようなショットが出てくることがありますよね。でも、あれはあくまでもそういう想像のシーンでありまして、比較にはなりません。一体、実写映画の中のああいうシーンで何を表現しようとしているんでしょうか。「マトリックス」も、CGやらワイヤー・アクションが出てきて、アトラクション的な作品でした。ただ、基本的にSFだし、現実の世界とバーチャルとを行ったり来たりという設定が斬新で、ありえない動きも内容に合っていたように思います。
激しい戦いのシーンで、ワイヤーを使ったアクションをスローモーション撮影した部分もありました。あれって、何? カッコイイでしょうって事ですか?
チャン・イーモウが「初恋のきた道」で使ったスローモーションでは、チャン・ツィーの可愛らしい表情を追ったショットが幾つか出てきましたが、あれは彼女を見つめる彼氏の『可愛いなぁ』とかいう感情を表したり、彼女自身の恋する気持ちが表情に出ているのを表したシーンだったはずで、ただ単に作者の美的感覚を押しつけたショットではなかったはずです。
映画のショットは、そのショットだけで成り立つ表現は少なく、前後のショットとの関連で大きな意味を持ってくる。“カッコイイでしょう”ショットは表現では無いと思うのですがね~。
(自然破壊なシーンはどんどんCGでやってほしいけれど)
でも、そのせいで見る目がなくなってちゃ駄目ですね。十瑠さんの記事を読んでちょっと反省しました。
ワイヤーアクションについては、本で張飛の化け物じみた暴れぶりを読んでいたので、全然気になりませんでした。
彼が人を投げ飛ばすと頭が割れて中身が飛び出したりしてたんで・・・。
ずいぶん人間らしくなったなぁ、と感心してました(笑)
吉川英治の本も有名ですよね。昔から書店でも横目に見ながら素通りしてました。^^
中国の話は、お国柄か、元々無茶苦茶な表現が多くて、吉川さんも倣った部分があるのですかね。
ですが、映画は本をなぞるモノではないし、(観客が)読んでない事を前提に作るべきだと思います。張飛が化け物じみた怪力の持ち主なら、事前にそのような紹介をするシーンが必要でしょうし、或いは、化け物じみたシーンで、周りの登場人物の化け物を見るような視点の描写があってしかるべきだと思います。
「ジョーズ」でロバート・ショウが初めて観るジョーズの強大さにびびるシーンのようなものですね。
すいません。ちょっとアルコールが入っているので、堅い表現になりました。ご容赦を
そうですよね。
私も原作を知らずに観ることの方が多いので、たまに不親切すぎてわからない~!と思う事があります。
今回はたまたま原作にどっぷり浸かってる最中だったので、映画を観てるあいだも、映画と本と妄想(美化)が入り混じってしまいました。
私は集中力が足りないのか、気を抜くとすぐに妄想が入って”観てるようで観ていない”状況になってしまうんですよね。なので、十瑠さんの記事を読んで気付かされることがよくあります。
これからも、言いたい事をずばずば言ってしまうレビューを期待してます!
これでも、慎重に書いているつもりなんですが・・^^
B型ですから自分が思っている以上にあっけらかんとしているのかも知れませんね。
今後とも宜しくお願いします。
ワイヤーアクションやスローモーションが多用されるようになったのって、「マトリックス」が大ヒットしてからかな~と思っています。もちろん、私はあの作品は大好きです。あれはSFアクション映画ですから。でも、ここまでワイヤーアクション全盛の時代になってしまうと、もともとジャッキー・チェンの身体を張ったアクションが好きな私としては大いに不満なのです。アクション好きとしては、スローモーションを観るより、目にも止まらぬ速さでやりあってくれた方が面白いんですけどね。
あと、香港・中国映画のCG処理ですが、十瑠さんの仰るとおり、明らかにわかってしまうものがありますね。今回の「レッドクリフ」の行き交う矢がまさにそれで、興ざめしました・・・。
ハリウッドに出だしてからは、あまり観てないですが、確かに香港時代のカンフーには可笑しさと驚きがありましたよね。
>目にも止まらぬ速さでやりあってくれた方が面白いんですけどね。
激しく同意(←古い!)
図形はグラフィックな事実ではなくグラフィックな出来事でしかないと、聞いたことがあります。
つまり、CGでも、CGな事実などなく、そこには0と1の連続のデジタルがあるだけと思うわけです。
また、CG映像が別にリアルな映像になる必要は全くなく、逆にCG映像としてのスタイルを確立することが望ましいと思うわけです。
ですから、わたしはジュールさんのおっしゃっている
>最初からファンタジーとして狙っている映画がファンタジーの表現としてCGを使うことにはなんの矛盾もない・・・実写の映画が、しかもコメディでもスラップスティックでもない作品が、CGでファンタジーのようなショットを作ることには?マークが何個か頭の中に付いてしまいます。
とのご意見と全く同意見なわけです。
映像というものは、基本的にフィクショナルなストーリーのあるものであったとしても、そこに写し出されているものは写実だったわけです。つまり、リアルな写実から、逆に観る側は想像力を広げていくものだと思っています。
そういった意味では、CG映像には想像の余地が全く無くなってしまうんです、わたしには・・。
ロッセリーニの映像も、ゴダールの映像も、ディズニーやジブリの確立したスタイルからも、観る側が、広げていける想像は果てしないように思います。このような目的を持ってCG映像のスタイルを実現してほしい。
極論でしょうかね?
では、また。
>わたしはジュールさんのおっしゃっている・・・とのご意見と全く同意見なわけです。
そうでしょう。これが真っ当な意見ですよね。
でも、リアル表現の補足としての必要性も立派にあると思います。全く狙いは違いますが。
>映像というものは、基本的にフィクショナルなストーリーのあるものであったとしても、そこに写し出されているものは写実だったわけです。つまり、リアルな写実から、逆に観る側は想像力を広げていくものだと思っています。
映画は現実の模写から始まったと聞いています。
ただ、絵画もそうですが、写実から発達していったスタイルが、マチスやセザンヌ、ピカソ等を生んでいる。そこには、表面上は写実ではないものの、現実の中のある真実を内包している。
映画もそうで、そもそもモンタージュ自体が完全なる現実の模写になるはずもなく、リアルな仮想現実を構築しているだけ。その構築構造がどれだけ仮想現実を作り上げているか。そこには観る側の想像力への期待が不可欠になるんですね。
観る側の想像力を低く設定している映画は、概ね★一つのお薦めしない映画になってしまいます。