最近、他者からの信頼を大いに失っていると実感している。
何故私は同じ失敗ばかりを繰り返すのか。
直すのに具体的に何をすればいいのかも、直ってきているのかもわからない。どこまでやれば頑張ったになるのか。
また、失敗をしてしまった。
そればかりで、私はどどうやって建て直すのか、それがもうわからない。いつの間に乗り越えてきたこともあるのかもしれないが、どれがどれなのか判別もつかない。
友人たちにどんどん置いてかれている。
私ばかりが当たり前のことも理解できない。
最近更に社会の不適合者になっている。
ヒシヒシとそれを人肌に触れるとき感じられる。人肌に飢えているはずなのに、人肌に触れることが怖くなった。
けっこう生きてくの不気味なのかな
失敗…何故そうなったのかな
自分の場合、信念を貫くあまり
回りが見えなくなってる時に失敗する
人の意見を聞く
その中から正しいものを選ぶ力を身につける
それは経験しかない
人と比べない
君にしかないものは他人がよく知ってる
まだ君には見えないかも
歪な人間がごめんね
ゆっくり 回りにあわせなくてもいい
自分らしく
雑音があるのは きついかも知れないけど
集中できたらいいね
よく視えてるからこそ
敢えて自ら動かなくても
良いのでは
流れに身をまかせなくても
自然と流れは来るものだと
軸足は
しっかり固めておきたいもの
ですね
失敗はせいこうの元ε-(´∀`; )
気にしない気にしない。
天然ちゃんでいいんじゃなーぃU+1F1FAU+1F1F8
しかし彼は、電球を発明するまでに1000回失敗をしたがそれを、
「1000回失敗したのではない、1000のステップを経て完成したのだ。」とも言っています。
だからこそ、失敗は成功の母 という名言が生まれました。
私の友人をここからはBと置き換えましょう。
Bは四年制の看護学生で本日まで二週間の実習でした。彼女は患者とのコミュニケーションに「全然力を注いでいない。傾聴ができていない。」と看護教官から何度も叱られたそうです。しかし、Bの言い分を聴いていると……なんだか看護教官の嫌がらせのような臭いもしたのですね。他の生徒とは叱られ方も違うし、Bだけが叱られているわけではないにしろ、全体カンファレンスで後から名指しで叱られるのは可笑しいでしょう。Bだけが劣っているならわかりますが、同じように授業を二年半受けた生徒にそこまで差が出ますか?そもそも、「ケアをする」という内容だった。そんなもの、志があれば出来るもので、患者の気持ちを思えば確かに成立する。他人がどうこう指導するような内容では無いと私は、考えます。あくまで、私の意見ですがね。
Bからはその日の実習が終わる際と昼休憩のときたまに相談を受けました。私がそのとき彼女に言ったのは……
「失敗しまくれ!そんなこと教官に言われたところで、実際に接している患者に伝わればなんの問題もないんだから。患者にはその誠意と懸命さが伝わる。それは教官であろうと踏みにじって良いものではない。確かに他の生徒と比べてお前のがコミュニケーションの取り方がヘタかもしれない。でもそこで叱られたことを引き摺って教官の顔を伺いながらやったって意味無い。今回の実習だけ、は失敗しまくれ。」
Bは次の日も全体カンファレンスで名指しで叱られましたが、試行錯誤をした結果なのです。
私は良い母の姿と思いました。いつの日か成功という名の子どもを授かると信じています。
成長するか挫折するか、あまりにも違いすぎますよね。