Aにゃん@flowerbuda(Twitter)の書斎

「アナタのキモチ、言葉にします。」

イノサン(無垢)とは何か。

2015-12-21 08:52:36 | 日記

 神はその無限の無慈悲でもって我々の肩を背負う十字架に合わせ給うた

神の下し給う不幸には慣れることができない程苦しいものはなく……たとえ海の水を飲み干す事が不可能であり得ない様に思われたとしても習慣によって現実となるのである

 

初代シャルル・サンソン

 

んー、「イノサン(無垢)」って漫画を昨夜妹に借りた。「絵が綺麗で、だから買った」とだけ言われた。表紙だけを見て率直に言えば……何が綺麗か、という点に疑問があった。まぁ、確かに綺麗であったが、漫画にしては珍しい絵柄であり、惹かれた、魅せられた?のが正しい表現ではないかと思われる。しかしながら、期待通りというか?あの子のインスピレーションには恐れ入るものがあり、やはり私と共通した感性をお持ちのようである。あの子は西洋人形画も嗜むから。読めばわかる。読めば、「綺麗」とは果たしてどういうことなのかは明らかになった。「アリ」冊子を閉じて初めて発した言葉は、その二文字だけだった。とにかく、手に取らないと言葉の裏はとれないということだ。面白い。

そういえば、あの長すぎる一本の映画は、何故「クラウド・アトラス」というタイトルだったのであろうか。


幼児の役割獲得~「お姉ちゃん」になる方法。

2015-12-18 09:25:55 | 日記

 先日「臨床心理のカウンセリング研究と理論」の講義で扱った内容が、

随分と前の、未だ幼少の頃のエピソートとリンクしたので、ここに文にして残しておこうと思う。

 その回の、ケース研究の題材となったカウンセリング実例は、

まとめてしまえば「幼児期の子どもの自我の芽生えと、

家庭での役割思考の確立」といえば、わかり易いかもしれない。

 はじめに、簡単にどのような条件下か説明しておく。

 

『父 母 長女 長男 の、四人がクライアントの家族構成。

クライアントはこの内の長女であり、5歳。

幼稚園に通っている。

長男は出産されて一年に満たない。

カウンセリング目的、解決目標(主訴)は、クライアントの問題行動をやめさせること。

来歴は、幼稚園の先生からの勧め。』

 

 以上の条件下で、面接をするか、否か

判断する面接(インテーク面接)から、

実際の面接の変遷を辿る。

 

 長女の、幼稚園での問題行動は、「TPOを考えない排泄行為、他の園児への暴力」等であった。

 ここからは大まかに説明する。

母親は生まれたばかりの長男に、つきっきりで、長女に目をくれる余裕が全く無い状況にあった。

そして、それは長女の問題行動に密接に関わっていた。

自分に興味を示さない(上の空)母親に寂しさを感じての行動。

見て欲しいという欲求からくるものであることが、

何十回に及ぶ面接の中でわかってくる。

 

 しかし、ここで一番大切なことを言わせてもらう。

これは、心理学の応用、カウンセリング理論の授業を取り上げているのであり、

「病んでいる人がクライアント」という先入観を持ってあなた方は読み始めたかもしれない。

否、その通だろう。


 しかしそうではない。

これは、幼児が「お姉ちゃん」になるために、形は違えど、誰でも通るありふれた通過儀礼(イニシエーション)のひとつに過ぎないということ。

実際に読み進めていくと「あれ?」となってくる内容になっている。

まぁ、ここでは私が簡易に答えを始めに言ってしまっているのと

面接の録音を文におこしたものを引用して載せていないため、

分かりにくくなってしまったが。そこは、申し訳ない。

何分量がばかにならないので……(^-^)

 

 さて、ここから何が言いたいかというと……やっと本題に入る。

 ここからは、私の昔の話をしよう。時期は……クライアントとほぼ同じ時期の私の記憶まで遡る。

 私はやはり、変わった子?だったらしく、少し不思議な?

「お姉ちゃん」だった。

クライアントの駄々のこね方は、言い過ぎではあるが「異例」とされる。

そういった意味で取り上げられたと推測する。

しかしながら、私もそんなこと言えるような立場ではなかった。


「お母さんに見て欲しい駄々子」から「お母さんに誉めて貰いたいからこそのお姉ちゃん」への転身も、一般的に言えば「当たり前」である。

 私の場合は、保育園でも一人称を「お姉ちゃん」にするという……荒業(粗わさ?笑)に出ていた。


でもまあ、この講義を通して理解した……


というよりか納得したのが正しいけれど、そういうことだと今は思う。

私の「お姉ちゃん」の確立は、そうした行動の中で起こったといえる。

背景には、その二年後に離婚する父母という問題が、潜んでいるのも否めないが。

クライアントのように、駄々をこねてい余裕など、無かったのが実状だ。

それはそれで、問題だったのかもしれない。

 

 皆さんは幼少の頃、どんな役割確立(獲得)を果たしましたか?

一度振り返ってみると、それもまた一興かもしれません。

まぁ、覚えている人の方が、少ないかもしれませんが……


いい記憶も、悪い記憶も、振り返られるのは、覚えている人の特権です♪


歌詞提供。

2015-12-17 00:09:34 | 日記

歌詞ネタ

 

1A

迷子の前髪を切った

出る杭は打たれるって

話には聞いてたけど

そんな世界くそくらえって

言ってたあたしが

肯定してしまうなんて

思わなかったんだ

 

1B

あれもこれも上下が必要

あんたの声を聞かせてよ

上司にだって誇りが欲しいの

大義も名分も両方貰って安心するの

 

サビ

(空白)

2A

神経症と闘う時代で

看せた傷は全部病気だって

先生は言ってたけど

そんな冗談信じないって

言ってたあたしが

精神科に入るなんて

思わなかったんだ

2B

あれもこれも名前が必要

あたしの居場所をちょうだいよ

病気にだって名前が欲しいの

あたしも病気も名前を貰って安心するの

 

サビ

(空白)

までは思い付いたのに……なかなかサビが決まらない。この度、友人に作詞作曲はするからYouのバンドで弾いてくれと言って歌詞提供と、ある程度のフレーズ提供をすることとなりました。来春には音付けをするため、忙しくならない内に、今まで書き溜めた歌詞や、降ってきた歌詞を連ねてるなうです。サビだけが降ってきて、音録りしたままになっているものも多いのが現状で、早くひとつにしてあげたいです。なかなか、叶いませんが。なんせ、発想ですから。


「原案ありきの映像化作品」評価理論。

2015-12-14 18:29:16 | 日記

 よく耳にする「映像化しないで欲しかった」等の意見は、一体なぜ生まれるのか。先日、友人とそれについて話す機会があった。この際、文におこしてみようとおもう。また、これはあくまで、一見解であり、原作を知った上で、映像化作品に触れる場合を対象とした論である。

 私たちの想像力は、自分が認識している以上に複雑であり、動物としては恵まれた能力の一つである。何故このような話をするのかというと、私たちが日頃、文の羅列を追うとき、この創造力が、映像化作品に対して評価する際、重要な指標となるからである。

 たとえば、想像力が大変豊かな人間が本を読んだとしよう。その人間は、言うまでもなく常人に比べて、より深く本の世界観を理解するだろうし、作者が意図しない範囲に及んでまで、想像の羽根を広げるであろう。つまり、映像化作品を批判する者の多くは自身の想像の内容や、演出を越える作品に出合わない限り「面白い」とは決して言えないのである。

 しかし、ここに例外もあげておく。もしもその映像化作品が自分の想像と似通ったものであったのなら、話は別である。おそらくそれこそが、好評映像化作品におけるレビューの、ステレオタイプだと言える。見方がある程度固定化されるような映画ほど、売れてしまうのかもしれない。だからこそ、監督や演出家は厳しい道といわれるのだと、笑われてしまうかもしれないが、今更ながら実感する。