てつがくカフェ@いわて

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てつがくカフェ@いわて-etcetra avec DAN- Bien fait!⑦

2013-12-07 10:24:51 | イベント

DANさんの奥さんはおっしゃいました。

「DANは去年なんかはこの歌を歌うのが怖くて怖くてしかたなかったんです。自分が他の被災者の思いを歌っていいのか?まだ先の見えない、こんな状況の中、この歌を歌っていいのか?」といつも苦しんで、泣いてしまって最後まで歌えなかったくらいです」。

でも同じ被災者やその他の人々に「歌ってください」と頼まれる。

『命の花』のワンフレーズ。

「必ず生きてると、必ず会えると どこにいるの?どこにいるの?届けたいこの思い」。これは大事な「彼女」に宛てたあの時の<私>の思いです。

他のワンフレーズ。「会いたい ととえどんな姿だったとしても」。これは失いたくない彼に宛てたあの時の<私>の思いです。

「当事者だからこの『命の花』を歌える」。奥さまはそうおっしゃいました。

仙台のてつがくカフェで問われていた問い。

『被災者とは誰か?』、『当事者とは誰か?』・・・

確かに。

もし自分が内陸部にいたら・・?内陸だから問えた問い?いや同じ沿岸部でも被災状況が軽かったらこう問うてた?問うてる自分がいた?

とてもラディカルで危険な問いだと思いました。これ以上最悪のことはないことを経験し、すべてを捨て、何もない中命からがら必死で沿岸部から逃げてきた私にはこの問いはキツ過ぎました。

このように問うている人たちがいることがショックでした。たぶんこの時の強烈な衝撃が私のてつがくカフェをやり続けてきた理由でしょう。震災後、現行の法律で苦しめられたので、法律を勉強するために仙台に来たのですが、また哲学に引き戻されました。

問いはすべてに開かれてます。問う事自体に罪はない。この<問い>が2年前私を捉え、そして今回のDANさんの奥さまの言葉、「当事者だから歌える」。この言葉が再び私をこの<問い>へ引き戻しました。

問いの形式や構造自体には、すでに答えの形式や構造があらかじめ含まれている事が多い(形而上学的な問い、例えば「無とは何か?」etc..は答えを前提としていないので、無限との関わりではあると思いますが)。つまり、問いを立てることを可能にしているところに既に存する「前提」があり、それが予めそれに対応する答えの形式を要請し、規定し限定づける。それを「問う」ことにある無意識下の欲望といってもいいでしょう。その詭弁や循環論法に陥るのを避けるため、この問いを「違う」文法で考えることはできるのだろうか?しかしこの問いはその種の問いなのだろうか?

この問いに予め「東北地方の住民、いや日本全国民みんな被災者だ」と思いたい欲望が入っていないだろうか?etc・・・・・・・・・

 

拝啓  フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ニーチェさま

あなたが以下のようにおっしゃられるためにどんなにそのお心が苦悩したか、いつか知りたいものでございます。

「他人の不幸は、われわれの感情を害する。われわれがそれを助けようとしないなら、それはわれわれの無力を、ことによるとわれわれの怯懦を確認させるであろう。言い換えると、他人の不幸はそれ自体で既に、他人に対するわれわれの名誉の、もしくはわれわれ自身に対するわれわれの名誉の減退を必然的に伴う。また別のいい方をすれば、他人の不幸と苦しみのなかには、われわれに対する危険の指示が含まれている。そして人間的な危うさと脆さ一般の印というだけでも、それらはわれわれに苦痛を感じさせる。われわれはこの種の苦痛と侮辱を拒絶して、憐れむという行為によって、それらに報復する。この行為のなかには、巧妙な正当防衛や、あるいは復讐すら込められている」。(『朝焼けの輝き』第133節

またまた続く・・・・・・(加賀谷)