おしばらくです。最近いろいろありまして、必要事から『現代思想 googleの思想』という雑誌を読んでいて、この思想で成り立っている世界から早く撤退しないと(笑)、と考えております加賀谷です。
さてさて、然しながらこのてつがくカフェの報告だけはしないと。
前回の続きですが、「災害」を表現することについてでした。今回は人の命を花に喩えることについて・・・。
前回の報告でアドルノの詞を引用した男性曰く。
「昔から現実が悲惨なことを写し取る、真似するという芸術的行為はあった。今回の震災でもコンサートが中止になったりと文化活動が「不謹慎」という圧力があった。そこに表現されているのは「事実」ではないこと、何か「正確」ではないから、この種の居心地の悪さがあるのではないか?」
この正確ではないという、この「なさ感」、ズレとは何なのでしょうか?逆に不調和や違和を感じさせる音楽なら齟齬はないのでしょうか?
「現実は過酷。過去も過酷」。DANさんの『命の音』という曲の歌詞にもありました。
もしかしたら、この「なさ感」や「ズレ」を感じさせるものが、芸術という「物語化」なのかもしれません。
そこで脱サラして農業を始めた男性の想いを込めた発言がなされました。
「私は脱サラして農業をやっているけれども、1年単位で毎年毎年、大地や作物とつきあってるわけです。食用作物とは違って、花というものを考えると大地の中の種が芽をだし、枝や葉を伸ばして成長し花をつけ、そして枯れていく。その命の営みを人間の命に喩えるのは別に悪いことではないと思う。私は震災後、歌は作っていないけど、農業というものを通して何かを「表現」しているんだ、と思うようになった」。
なんて地に足のついた説得力のあるご意見!人の命を花に例えること。昔から人は人を何故か花に喩える。冠婚葬祭、イベント事には必ず花。花言葉。花とイメージと言葉を結びつける。今更ながら花のパワーに驚かされます。人間の比喩の力にも。
この男性の花に対する態度は、大地や自然や人間を「愛でる」といった日本語がぴったり寄り添っているような気がします。
先ほどの男性がそれを受けてまた発言されます。
「DANさんがイメージしているのはこれから生まれてくる種。でも種というのは撒かれても過酷な自然の中で芽を出せないものもある。その視点はどう思いますか?」
DANさん。
「そうですね。私のイメージしているのは仏教です。人の命を種に例えて大きな自然の枠組みの中で人の命を捉えています。そう考えるとそれはとても過酷できついことを言っているのかもしれません。釜石に医者で住職もしている方がいるのですが、その先生にこう言われたことがあります。「私は絶望した患者の前で事実しか言えない。それはその人にとっては過酷なことだろう。人の命を花というものに喩えることができる。それは君がミュージシャンだからできるんだ」と」。
ことに、事実や情報知としてしか伝えることが許されない職業に置かれている人は、「DANさんの歌を聞いて救われた」、と言う人が多いそうです。
続けて私の隣に座っていた男性が発言されました。
「これは震災という経験からDANさんが素直に表現したことで、そこに良いか悪いかということはないと思う。表現することに善悪、真偽をもってくることはおかしいのではないか?」
この発言には納得させられた方は多いと思います。価値観の相対化でありまさに表現の自由で民主主義を代表するようなご意見です。
その後色々な意見(主に震災時に自分が何をしたか、これからどう向き合っていくかなど)も出ましたが、この論点がクライマックスだったように思います。そして会場から『命の花』を映像なしで聞いてみたい、フルートが聞きたいと熱いリクエストがあり、てつがくカフェはライヴ第二幕に入るのです(加賀谷)。