聖書と共に

祈りと聖書解釈

今日は、「祈祷の生涯」(佐藤雅文著)から抜粋
し、ご紹介します。
「正しい聖書解釈をしよう。」
極めて小さな疑義が祈祷の生涯の運転を止める
場合がある。

マタイ6章31節に「何を食べるか、何を着るか
、と言って思い煩うな。これらのものは皆、
異邦人が切に求めている。あなた方の天の父は
これらが、ことごとく、必要であると知ってお
られる。まず、神の国と義とを求めなさい。
そうすれば、これらのものは、全て添えて与え
られる」 

との聖句をとって、祈祷における幹だけを残し
枝葉のない(故に果実も無い)祈祷の生涯を送り
つつある者がいる。
この聖句の目的は、思い煩わない事。まず、
求めるべきものが何かを示されたものである。

祈祷が狭義の「神の国とその義を求める」だけ
で良いという訳ではない。その理由として
マタイ7章7節「求めよ、さらば与えられん」、
ピリピ4章6節「事ごとに、感謝をもって祈りと
願いを捧げ、あなた方の求める所を申しあげる
」べきである。

祈祷とは、パンを求める幼子の姿勢であり、
これを与えようとする父なる神の行動である。
愛される神の子は、心おきなく、折にかなう
助けを得るために神に近づき得る特権を持って
いる。

マタイ6章7節の
「祈る場合、異邦人の様に、くどくどと祈るな
あなた方の父なる神は、求めない先から、
あなた方に必要なものはご存じである」
の聖句をもって、祈祷の最も要点とする、気落
ちしないで求める熱心を奪い去られる人を見る

これは、信仰を度外視した機械的な、繰返しの
祈祷への警告であって、得るまで熱心にたたく
祈祷を拒んだ句ではない。例えば「しきりに
願うので」(ルカ11章8節)。
「絶えずやって来て、私を悩ますので」の悪し
裁判官のたとえ (ルカ18章)

聖書の句の疑義は、また、聖書をもって勝つべ
きである。






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