あげちうのブロマガ

神の信徒と言う胡散臭さ

ユダヤ教的な感覚ではある。

割とどうにもならない。

旧約聖書の逸話の殆どは、破綻例に対する理解でしかなく。神様とは、結果で示すだけで、信者以外を、”声の届かない人々”を特に救ったりはしないのであり。その中で生き残るには、”神”の意向には逆らわない、例え如何に民主主義に否定されようと、そう言うのが理解であって。それが、結論で彼らの神の姿ではあり、利益は或いは”そこ”にこそあり。

その時、それは良くも悪くも今の大きな犠牲を出している豪雨、それにも通じはする。

お金は幾らも貸してくれる。ただ?返済できません、となったら?身ぐるみ剥いで或いは命さえ対価に回収していく、結果はそう言う絵、ではある。その前に、違う対価を要求されたか否かは別の話だ、当人らにしか解らないし、当人らは、”それ”を拒絶して今の結果が有る。心当たりは有る筈だが、それは、道理と共にある、「因果の結果」でしかない。

個人的には、世間はここ何年も、”神の要求を無視し続けている”訳だが。

しかし、”それ”を無視しているのは「民主主義」ではあり。
それは誰か一人の責任には、最終的にはしない。「みんなで決めました」前に立つ人は、人々の総意としてそこに居る。結果、それを支持する地域全体が神の罰を、被害?を受ける、そう言う構図には陥る。


この感覚では、「民主主義」も、最終的には神の決定とは成り得ないのだが。それは反論を内包した上での帰結には成らないから、だ。少数派を切り捨てる時、そこには不足が発生する。不足が有る時、それは「大衆」その総意とは言い難い。その結果は大衆、神にしろ、期待しないそれだ。自身の中に発生した、不随意の?好ましくない部分、それを「捨てる」選択でさえ有る。外科手術の必要性は言うまでもなく、漢方だけで治る病の方が或いは少なく。その際には痛みもコストも発生する、それは、もちろん望まないが、最終的にはやむを得ない。

今の把握では、この結果はほぼ、如何なる主義にも発生、期待される「大衆」の決定を創れない現実が有って。その結果で、世界は今も、大いなる厄災を払拭できずにはいる。「これ以上太ると体に悪いです」ダイエットを、と言う、その空虚さの様な話。衝動を我慢出来る程、民主主義は理性的な思想では無い。

…とは言え、自称「神には逆らうな」を実行してる筈の存在が今の状況では、あまり説得力も無い、と言うのが現実ではある。この辺もまだ、神様次第、という事態は続いているし、疑問も多少か有る状況。発案するモノ、それは対価の様なモノ、だろうかと言う認識は、果たして賢者のそれかは謎ではある。


打開を!と言う時、思い付く返答もまた、ちょっと問題には成る。

「神の期待する通りにするべきです」

”それ”を反論してはいけません。

結果、ゲームセンターに再び火が付く様な事態に成ろうと、それは神の意思ではある?

その手にはのらない。


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