些細だが、重大な変化、ではある。
「ゼビウスは売れなかった」んです。
それは今、”作者”自身が告白しているのだ。
そんな、変化。
数多の責任問題は発生した。「宗教家」その介入の結果、多くの損害が発生している。過失しかない状況と、事態の帰結、か。「新聞記者」と同じく、「それは私では無い」時、追及のルートは途切れるが…逆に責任、或いは権利、それも消失する、そう言う。
「作者の権利」は或いは今、”ここ”に有るのだ。
「宗教家」それは、ゼビウスとは、何の関係も無い存在である。
その上で、「何故?」それは、”ここ”に集中し得る。
ゼビウスを土台にしてた人々の価値観か感覚、”それ”は補正し得る訳だが。
”それ”が、現状を打開するか?は、まだ不透明な部分はある。
ともかく剣呑さの原理は一つ、潰した事には成るかもしれない。
「売れるモノ」を持つ存在への敵意、うっかりしたら世界を覆っていた、そんな何か。
これは、何の為に必要な事か?
ともかく「ゼビウス」は本来、旧日本軍の特殊潜水空母「伊400」等による、アメリカ本土強襲作戦、それを”描こうとした”作品ではある。ただ、当時の企画には力不足が有ったか、”それ”をまず、理解もしないし再現も出来なかった。そして、ゲームへの理解も無く、コピペと直筆の区別、それさえ無い様な状態で企画書は上がり…現場は、それを作る事には成った。
不足だらけの企画の出来は、どれだけ埋めても不足のままで。
発表しても、評価?は上がらず。
責任を問われたが、当時の企画には何らかの権力があり…それは、”自腹買いで”埋めてしまえた。ただ、「売れなかった」物を、強引に「売れた」事にした結果、歪んだ意識はやがて、カルトを形成して行き、そしてまた、「売れるモノ」への敵意を形成して行き、今の事態には至る。
ゼビウスの、何が問題だったと言うのか。
ここまで書くと今、「不足しかない」それは、解る部分は、ある。それは後の作品群が埋めていくが、結局は「なんて駄作だ!作者は無能か?!」で、それを覆い尽くす様な感じにしか成らなかった…それは、ある。企画原案は、考えるに悪く無い。しかし、出来た”それ”はあまりにも。経緯も苛立つ何かだ。現場は憤慨に覆われ、何かの対立の起点に成った。
ただ、その果てに、平成の騒乱と喪失、それはある。
そしてまた、「新聞記者」その、許し難い加害の起点にさえ成った。
断定して良い状況、だろうか。
「宗教家」も、「漫画家」も、「新聞記者」も。ともかく居なかった、のだ。
今、”そこ”に居るのは似て非なる、異なる罪を背負う”何か”でしかない。
熊本豪雨の被害は、目を覆う有様ではある。
いつもの様に、自分がされた様に、それはでも、「糾弾の結果」だ。
王の権威の意向を否定する時、それは今、応報となって現れる。
因果は、有ったかもしれない。