「戦争さえ起これば!」
実際には、「紛争解決機構」で戦争は起こり、結果が出て、多分”それ”を考えてた人々は負けた、訳だが。
「そうじゃない」
戦争と言うのは、国が異なる国に対して、軍事力を行使する事であって。
多分だ、「なのに、結果としては同じ事に成ってる」のが、どうにも、違和感が抜けない。
「戦争は行われた」のだ、期待通りに。代理戦争的に、国家?が「紛争解決機構」により隣の国家へ挑み、或いは負けて、企画は通らず責任者は解任になった、的な事態。
意味論での問題と、感情論での境目は、果たして何処かで合致はするのだろうか。
「テレビゲームが戦争の代わりになる」それは、荒唐無稽っぽく見えても意外にも”未来形”だ。ドローン、”この”発達が、兵士を戦場へ送り込む必要性を無くしつつある。しかし?「それは敵も同じ」なのだ、兵器メーカーとしては。結果、双方で「戦闘型ドローン」を大量に投入する様になり、或いは進化する先では歩兵型も登場し。パイロットは何処か遠くのコントローラーで、”それ”を操縦しているだけになる、ゲームセンターのフライトシミュレータを遊んでいるが如く。画面に映るあらゆる全てはまるでゲームの様だ、「これゲーム画面なんですか?リアルですねぇ」そう言う感想を聞きつつ、”それ”で現地の歩兵などを殺戮してても、数多の人々は「これはゲームだ」騙せるのではあるまいか。
…勿論、この「騙せる」時は違う絵もある。「これはドローンによる実際の戦闘画面です」そう言いつつテレビゲームの映像を見せても、実際は騙せる状況には近く。
要するにもう、「じゃあ全部、テレビゲームで良くね?」そう言う状況は、見えている訳だ。
概念だけなら、古くは「TANK:ZONE」と言うゲームが有り、”これ”が或いはそんな理想?の起点になった、だろうか。ワイヤーフレームの3Dで表示される立体映像によるタンク戦は、意外なほどにリアルで、戦車戦それは十二分に再現していた、感じは有る。必要なのは”それ”を多人数対戦にする為の通信環境とハードパワーである、が。その辺はもう実在する。後必要なのは、「戦争はここでやろう」その方が被害が出なくて良い、”それ”に対しての国家レベルでの同意ではある、が。
「バカバカしい」
分厚く無視できない多数決の多数派は、今も”ここ”には有るのだが。
理屈として、1対70億だろうと、勝つのは正義の側ではある、正しい方。物理的に、だ。同意があろうがなかろうが、「その方が良い」ならそっちが選ばれる。戦争は良くない、不文律だ。しかし二分の一の確率は決着が付かない、それは何かの「競技」による「決着」によるしかないが、”それ”は結論で誰の思い通りにも成らない、自分の意向が通らない部分は必ず出る。そこは我慢する必要がある、のだが。
シニア世代かは、”これ”を超えて、自分らの思い通りに世界を支配し得る可能性を目指した訳だ。秦の始皇帝が正に一時、そんな絶対性を見せたが…、長生きはしなかった。それでも東京タワーはまるで、願いによって天を貫かんが如く、だ。もちろん、東日本大震災で、東京スカイツリーは無事だったが、東京タワーの頂点アンテナは折れてしまったが、彼らには、何かの見果てぬ願望の様なモノはあって、その時、そこに「紛争解決機構」その存在は、無い。
…それでも、北朝鮮のミサイル乱射は非難されるべき対応だ。「戦争さえ起きれば!」それは、国際社会で無くても通る話では無く、そして正義には程遠い。その時、そこに「紛争解決機構」があればそこで決着を!しかし今は、彼らは”そこ”で負けた訳だが。
「なんかおかしい」
正しくない、この感情論は、何処かで帰結し得るのだろうか。ジャンケンで負けたら、家を明け渡す約束では?それはおかしい。ジャンケンをしちゃった後での、何と言うか奇妙。相手に損害が発生する、その上での約束を守らせる時の力とは、何処に。
”それ”はちゃんと、期待し得る物として…動いているのだろうか。