この物語はフィクションである。
とは言え想定と言うより、比喩的な絵だ。
そして、事実と感情論が衝突していて、答えを出せない。
ゲームがある。売れなかった物、だ。
携わった人は、そこに何かのブレイクスルーを夢見たが、それは認められなかった。
時が経ち、やがてレトロゲームを懐かしむ風潮が起きてくると、”それ”もまた、じわじわと話題に上がっていく事に成る。
ただ、実際に目にした人々の多くはやっぱり、「うん、面白くない」そう言う結果に成った…再評価には成らなかった。
今でも、それに対して作者は「悪くなかった」そう、考えていて。
誰かがそれに対して言った。
「そんな売れなかったゲームどうでもいいじゃねーか、邪魔だよ」
”それ”に対して、憤慨やるせない。
売れなかった理由は、今の基準で考えると割とハッキリはしてる。
それは作者の作家性、”独裁性”が強く、そして反ミーハー的な意識で出来ていて、人と違う視点にちょっと拘り過ぎて、プレイヤーとの感覚の乖離を産んでいた。
簡単に言えば、「昭和天皇を倒せ!」それを、密かなテーマにしていた。”それ”は主観変換され、魔王を倒す英雄、と言う絵でしか無かったが…「なんかキモイ」そう、当時も評されていて。
当時にしろ、プレイヤーの不満に対して、屁理屈的ではあっても屈した事は無かった。
故に作者は今も、「自分が間違っていた」とは思っていない。しかしするとそのゲームの絵は、単純に「天皇暗殺を目論むテロリストの物語」でしかない訳で。作者の理解としては天皇制こそ諸悪の根源だ、アメリカの様な大統領制にするべき!と言うのが主張であり、それは今も変わっていない。日本はアメリカに負けた国だ、その国が大国の様な顔をしているそれは理不尽だ、身の程を知らねばならない、そんな極論に支配されていて。
彼はその後も、同じような作品を創り続ける。何でかと言うか、色々と支援か何かは有って、”それ”が可能な状況は続いても、「ヒットした」と言う事は無いまま、そのゲームが置かれていて…今も、やっぱり客は付かない。まるで同期する様に、ゲーム文化は衰退していった。
平成も過ぎて、令和が始まる時、”それ”は今も何かの、「私は正しい」そう言う壁としてそこに有る。
売れる作品を創ろうとする時に、それはほぼ”必ず”忍び寄ってくる影だ。その陰惨なオーラと或いは剣呑な言動と共に、それは触れる作品を悉く壊して?いく。失敗の度に膨らんでいく意識は、或いは信念の様な理由にも成っていく。日本は発展するべきでは無い、アメリカの属国なのだ、身の程を知らねばならない、ヒット作を出そうなどと、許されない、私は、正しい事をしている。
それは老いた今で有っても、「邪魔だ」それで片付く話では、なさそうな気がする。
これは想定でしかないが、考えるとやっぱりと言うか、深い奈落がここに有る、気はする。「正義は勝つ」時、それは重い疑念を向けてくる。「では、何故私は勝てないのか?」私は正しい、私は正義だ。正義が勝たないとしたら、それは現実がおかしい。
「大賀さん」それを前にし、既に敗北してもそれは、”負け”を認めない。動かない何かと、或いは重い同意、支持を背に有り続け、何かは衝突して今も、そこで妙な軋みを上げている。
”それ”は物理的な戦争を起こす事に、何らためらいを持たないのだ。
もちろん、核兵器の使用さえも、だ。
売れたかった訳じゃない。
「自分は正しい」と証明したかったそれを前に。
小さな島国の正義は、どうなるのだろう?
何だか、不意にまた。
需要が有る、と言う事は良い事だろうか。
ともかく気が向いたらまた。