「不満偏向砲」そう、呼んでいる技?が、ある。
前出の”不満”を、ゲームデザインにすると。或いはキャラクターを創る時に「勝てないキャラ」それがある。そのキャラを選んだら、空かない扉は絶対に開かない。要するにそのキャラだけは、そのステージをクリア出来ない訳だ…、そのキャラを引いちゃった奴が悪い。
「なんで?」
ここで発生する不満は、もちろん作者へ向かう、が。作者は”これ”を、前出の、或いは”自分が憤慨している事態へと”「向ける」訳だ。結果で、その「ゲームデザイン」の再現度が「標的」と合致している程、その構造に対して、ストレスを与える事が出来る。要するにその時「そのクソゲーは"わざと”そうデザインされ、創られてる」訳だ。ついでに動員とかで妙に「凄い面白いねー!」とか煽られていたら、その「なんで?どこが?」その不満は更に高まる。人間の創る物に完璧は無い、から。”これ”は結構恐ろしい。意識に夢魔の様なプレッシャーが押し寄せ、酷いと病の様な状態が始まり、そのうち、本当の病気になる事もあり。
…そして或いは、そのまま死ぬ事もあるのだ。
結果論?かで、「PUBG」それは、現行の市場経済、”それ”へのアンチテーゼと言うか、「一種の不満偏向砲」では、ある。「大貧民」ああいうゲームも、ぶっちゃけると真意は”そう”だろう。「これで勝てる訳ねーだろ?!」勝負はほぼ、最初に配られた手札の時点で決まっているのだ。現実がこうであってはいけない!不満は現実へ向かう。ある程度の正論性により、この辺は市民権を得ては居ても。
「面白い?」
神経衰弱程には、面白くないのではあるまいか。勝つ時のカタルシスと、負ける時の理不尽さが、だんだん嫌悪感を強くしていく訳だが。
一応、前出の「100%じゃないと開かない扉」それは、ゲームデザイン的には神経衰弱に近いだろう、プレイヤーに等価な状況を提供し、その中で優劣を競う。運も必要だが記憶力も大事。「殆どの人に否定感を与えない」ゲームデザインは、幅広い支持と運用性を持つ訳だが。しかし、嫌いな人は嫌いだ。
社会構造とかも、結局は何かの、「ゲームシステム」ではあり。システムを理解し、適応した方が利益がある…それは大事な話だが。「それを守ると全体の利益が減っていく」何故なら不平等が著しく”不満”を産むからだ、と言う時?それは、”好ましくないシステム”として、改良するべきではある、が。しかし、その「100%で開く扉」それは、或いは全体の利益を増やすシステムだったとしても。
99.99%で扉を開けられなかったA氏は、その時唯一か、そこから富を得られない訳だ。
「全体に富を齎すシステム」で有る時、”それ”は、経済を活性化しうる。だから、ここでは「善である」そう、定義はし得る、人々の為に有益。「大貧民」も、社会への理不尽に物申す!と言う視点で、相応、有益。なら、「正義」としては、このシステムを守る方が、「正義は勝つ」時、勝利に近い訳だが。その時不満を持つ人々、99.99%で開けられず腐ったA氏等は、「邪悪である」だから、それは当然である、そう言う事になるが。
”それ”を神に逆らう愚か者の末路として相応しい、そう言い切って良い物か。
特に、「九尾の狐」化した女性はこの時、理屈では説明できない信念を持つ。「自分の中には自身が正義である100%の同意がある」のだ、何故なら影響を受けた男性がそうだからだ(暴力的な男性に意外と女性が付くのも、ある意味で”これ”ではある。強制的に相手の女性を威圧し洗脳?してしまう)。その男の主観でしかないモノを絶対視する結果、女性は男性の限度を超えて100%の同意を信念に持てる(逆説的に、0%なのだが)。この時しかし、逆に女性が男性をも逆に支配していく訳で。その女性がシステムを批判し、或いは「不満偏向砲」を駆使して破壊を試み、その後に罰せられ、或いは暴力的な不幸に陥り、もしくは死刑になった時。
それは、「邪悪は滅んだ」それで、結論で良いのだろうか。
流石に「中華思想の皇帝」には、”それ”を適用したい位の何かは有るのだけど。