自分が感じる感覚は、正しいだろうか。
「世界を平和に!」
と言う時、中東その他を無視して良いんでしょうか。
男性と女性で「同じ」価値観を共有しようとする時の、その大いなる問題の一つだが、女性は極論化し易いと言うか、”それ”が見えてしまう場合が多々、ある。「経済的な苦境を打開しなければ!」その時、貧困層を無視しては”それ”は正義では無い。”そこ”までは及ばないと言ったら、女性はそれを切り捨てと判断する。これと似た感覚で、「古き良き昭和の再現を!」と、言われた時のその先。
映画もアニメもフィルムで撮影していたのだ。
”だから”それも、残さねばならないのだ。
この場合の「古き良き昭和の!」それは、しかし「ビデオ撮影とその機材が始まった時代」を指しているのだ。だから、フィルムの面倒さ、そこまでは実際には、考慮が無い。そして、感覚の奇妙さ?かもしれない、「アニメのセル画は考慮の対象に成ってない」のだが。”それ”は自分以外の誰かが描く事であって、そして編集も”そう”だ。その出力が思い通りじゃないだから、”それ”を自分の手で出来ればもっと!みたいな感覚でしかない、訳だが。
”その”主張は、極論化し、そして逆に、「何かの壁に成ってしまった」感じ。
※aviutlで製作
Aviutlは、「動画を創るつもりに成らなければ」実用性の高い機能が満載、ではある。
”この”奇妙さを超えられないと、その前の壁で、何も出来ずに止まってしまう訳で。
イメージはつまり、「フィルムを撮影/編集する道具」ではある、それとしての現場的なフルスペック、そんな再現。
土台はまあ、「映画」ではあろうか。ビデオ編集が標準化する前の時代、でも、或いはその頃でも、映画産業としては標準だったのかも。そもそも昭和後期、当時だって、アニメにしろ「まずはフィルムに撮影していた」のだ。現場として「使えれば良い」その感覚で構築された、慣れてないと何も出来ない様なハードで、だ。MMDが、「昭和のアニメや特撮、その再現を」と言うコンセプトを出した、それをかなり極論化して「バックアップしようとした」的な、そんな、理解の中では有り触れた衝突だった、かも。
MMD?は、「そこまでは言ってない」のだ。
でも、”そこ”を無視したら、単なるミーハーでしかない、のだ。
かのチャップリンも、一本の映画を創らんとしたら、何十本もの巨大な撮影フィルムを暖炉にくべた、と言う話。「その果てに出来た物」こそが、昭和の映像作品ではあって。
良くも悪くも、「投資」ではある。博打に近い。そうしてそこに出来た作品の中の、一部の奇跡的に上手く行った作品は今見れば、「何だかチープ」そうとさえ、見える。それらの失敗の蓄積あってこそ、その先の傑作?は有る訳だが。”それ”を土台にして、そして否定された人々や作品を後押しに、苦労が、認められる時代へと。
そこまでは言ってない。
その辺の、切ない断絶は、何かの帰結を見ているのか。
今も何だか、Aviutlは奇妙な挙動を見せたりは、する。
状況は変わって、不足有る技術?は残って、それによる出力に切なさは感じつつ。
”敵”に支配された世界で、その倫理観の中で、この先は有るのか否か。