あげちうのブロマガ

昭和が消えていく中で

民主主義は、否定出来ない。

多数決を無視すると、最終的には0に、「何も無い状態」こそを最善とする事に成るから、だ。何も無ければ問題も起きないのだ、有るからこそ、全ての問題は発生する。

その状態を、相対性を維持する片側、”0”は好まない。相手が消えてしまえば自分も消えてしまう。それは避けたい、だから、あくまでも求めるのは「不足有る±0」であって、自身と同じ”0”では無い。最善とは(0±0)であって、(0)じゃないのだ。

民尊主義的に言う「完璧」とはつまり、「±0」の事で、”0じゃない”訳だが。

民主主義的に言うと、この±0と、0の違いが判らない。

感情論的な反応では、「男は良いけど女はダメだと言いたいのか?」そこに陥る。


この辺で非常に重い混沌を背負っているのが、瀬戸内寂聴氏の創作だ、とは思う。
前に「そのトレース」を目指して、一つの読み上げ動画?を創った事が有る、「猫が寝ている」

一応、この「猫が寝ている」では、ユーザーのツッコミ待ちではある。
「意味わかんない」そして”それ”に対して満足げな顔をする、と言う状態。

テーマが、正に”その返答待ちだから”、だ。創作とは無意味で有ってはならない、訳が解らないのは不用だ、「と言うテーマ」で、この作品は出来てる。形式的にはこういうのを「文学」と評している、らしいが。今はこの辺、かなり崩れてはしまった。

で、じゃあ瀬戸内寂聴氏の作品もそうなのか?と言うと、「知らない」相手は”そこ”に返答を、実は置いてない、と思う。しかし、多分だ。朝日新聞社の元社主、今は故人である「村山美知子」氏が、彼女の作品を高く評価してしまった、経緯がある、”気が”する。

それは何かの、彼女に対して犯してしまった、罪滅ぼしの一環として、だ。だから別に、瀬戸内寂聴氏の作品を良いと思って「認めた」訳じゃない、その位しか出来る事が無いから。そう言う経緯で、瀬戸内寂聴氏は妙なブランドを得る事になった…訳だが、それが平成の混沌、或いはその原理でさえある。

加害者が、被害者に逆らえない様な絵でしかない。

そこに、歪んだ独裁性、”それ”が発生してる。

この辺の混沌は、現在の創作にも重く現れては居る。テーマが有る方と無い方、どっち?と言う時、今の民主主義は後者を選んでしまい、利益に繋がらない、場合がどうも多い。単なる主観、「意味は?」知らん、と言う方をアートだ、とか評してしまい、結果、それが重い損害を発生させても、それを「間違えた」とは思えない。

0とは、最終的には唯一無二だ、”それ”に成る事は出来ない。
この時、つまり「コピーは悪い」そう言う意味には成る、訳だが。
コピーして不足を埋めた方が、オリジナルよりも”高い”か?そこにも積年の混沌はある。

結果でしか解らない。
ともかく、”それ”は重い損失を出した。

それは、良くない。

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