不意に、立場を幻想はする。
それは、何故か陥ると言うべきか。
ゲーム大会、或いは「スーパーマリオブラザーズ35」それでの、ハイレベルな連中のバトルを眺めつつ、コメンテーターとして呼ばれたゲームデザイナーが、優勝した存在を前に言う。
「スーパーマリオって、自分の中ではサラリーマンの苦悩なんですよね、それがこんな熾烈で良いのか?って言うか」
否定的とも取れる、その発言を前に、上位の人々は何を考えるだろう?
何故か、自分が考えてる「ゲーム」と言うのは、かなり大雑把なイメージではある。あまり追及する意味がない、と言うか、出来ない事は無いけど推奨はされてない、そう言う。今ではようやく忘れられつつある「チー牛食ってそう」その感覚とも、実際には合致してしまいかねない?のが、少し悩ましさもある。客と、その異常とも言える追及を前に、「何の意味が有るんだ」否定的に言う、ゲーム屋の姿勢。
…とは言え、実際にはかなり、面倒な話をそれは、抱えていくのだけど。
その全てが、或いは「ユダヤ教の王」その意向を重視する結果だ、というなら切なさと共に納得も有る、が。少なからず同意が有るからこそ、「そう言うゲームは有る」訳で。向上心の発露、というべきか否か。追及されるそれは、一体何を背に、そこまでの視点では徒労に注力するのだろう?そこに面倒は無いのか。
或いは、丑の刻参りの如く、何かを呪い殺さん、そんな。
”土台”が、それに壁として晒される時、少し不安と言うか否定感と言うか、それは重くある。幸い、と言うべきか、その土台は?そんな思惑も汲みつつ、かなり安定して、そこに重い壁は作っている、想定外は有りつつ。今まで出来なかった事が、ようやく出来そうな気もしつつ、悪夢も同時にそこには有る。それでも過去に比べて、時代は少しは改良を重ねつつ進んでいる、と言うべきか。とは言え、それは常に想定外と共に有るのだ。
「親を殺す」それは、目的にして良い物か否か。
もちろん、子供を売る様な親も、居るのだ。
そんな人々と、それを助けるモノ、それは不要な事か?
旧いゲームセンターとは、そう言う場所だったのだが。