価値観の問題だろうか。
ともかくそれは、許し難い行為、ではあるまいか。
「萌えキャラ」でも、それは明確に問題には成る。初期の頃と言うか、それは単刀直入に「誰?」がどうしても問われる。”誰か”を描いているのに、それが本人の意に沿わない事を演じていたり?されていたり、していたりする、訳だ。称賛、好意が集中するのも問題だが、批判が集中するのも問題で、その時それは、その絵を通じて何故か、本人へと届く。
「萌えキャラ」”ここ”なら「嬬魔」と呼ぶが、今なら区別がされていて、そこで一応のフィルタはされるのだが、結論で言うと別に、「人物で無くても良い」のだ、そして、それを「デザイン」と言い張る事も出来る。大河原邦男氏を戦闘機として描きました、宮崎駿氏を戦車として描きました?
もちろん大概は、本人に承諾など、無い。
この辺を、かなり上手く回避するのが基本的にはメカデザイナー、だが。「何処が違うの?」それは、ある程度の実績を背負う立場の感覚か、その経験則でしかなく、普通にはその差は微妙に解らない。実在性と言う観点で、特定の人物を示す方が実は楽だ。ともかくこの辺を回避する人のデザインなら売れるが、回避しない人のデザインは、マニアック、というフラグで、優先度は低くなる。
正直、現状のPS5そのデザインは、その「マニアック」な、そこに有る、だろう。
平成初期の、その「アサルト」の問題の如く、だ。全く或いは一緒かもしれない。デザイナーとしてはタブーだ、一発アウト、位。「貴方はもうデザイナーの資格は有りません」人命に関わる話、倫理観としては道理には成る。補正し切れない感じはある、アサルトがダメだったみたいに、「問題は起きない」にしろ、「面白くない」その評価は、覆せないのではあるまいか。
出荷を渋ったり、あまり好ましい動きが無いのは、”だから”だろうか。
とは言え、それが通る時、”同じような人々”には皆、「あなた方にはその仕事をする資格が有りません」お帰り下さい、それを言う事に成るのだ。
「ゼビウス」から始まったそれも、実際は、その結果だったのではあるまいか。
些細な失念?が、致命的な過失に至り、その結果、資格を失う事に成って、それをリカバー出来ない。
発生した損失を埋めようとすればするほど、それは歪んで狂って行って、結果。
アメリカ大統領選は、果たして。