あげちうのブロマガ

ゲーム機として描かれたその人

度々疑問になる話。

そんな権利あったのだろうか。

「クラウンズ」任天堂の場合か、そのコンシューマゲームでの出荷、製造には”許可”が必要になる。じゃないとソフトを製造して貰えなかった。「コンシューマゲーム」とは、その”クオリティコントロール”を受け入れて始めて「認められた」ゲームとなる、そこに市場の許容が有り、それが定型化していく。内容のクオリティ”だけ”では、それは商品として認められないのだ。

ファミコンだけか?

と言うと、勿論コンシューマを名乗る限りはある、筈で、色々考えると「アーケードゲーム」それにも、それは有った感じ。今回、問題?を起こしたのは、その「アーケードゲームの」クラウンズたる部分、ではあり、それを持っていた人、だ。

「PS5」のデザインは、実際は好ましい物では無かった、自身での責任を他者にすり替えて成果を得ようとした…そこは看過し得ない。”盾にされた側には”十分な壁としての能力がある、にせよ、危険で違法性のある行為である事は間違いなく。しかし或いはSONYその物は、デザイナーが不正を行ってる”それ”を知らなかった、自身らの上位から”ねじ込まれただけ”だ。ねじ込んだ側も、そのままでは「アーケードゲーム」の査定、その権利を持つ人は、「成果」を前に数多の疑問を背負う事になった、何とか成果を出して貰い、その権利に正当性を持たせたかった。

結果としての、何かの心理的な大惨事、ではある。ねじ込んだ「ユダヤ教の王」は、そのまま居なくなり、後には過失だけが残った。原因は、そのデザイナー?に、「アーケードゲーム」の査定、その権利が有った事、だ。

「クラウンズ」は今、色々あって”ここ”に有るのだ。
だから、その権利が”ここ”に移動すれば、もっと統制は出来る。
SONYを介さず、事態を打開したい、なら?その権利は意味は、値打ちは持つ。
「クラウンズ」が、そのアーケードゲームの”それ”も持てばいい訳だ。

結果オーライ、ではある。
今の、その人物にはいらない物、だ(多分)。
事も、これ以上大事には成らない。
PS5のデザインは、ここのアイコンを土台にしている。
そして土台にされた側は「権利」と言う、適当な対価を得た訳だ。

ただまあ、つまり「世間の良き玩具」として、”これ”は有る訳だ。

良い様な、悪い様な。

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