自然と立場は変わってしまう。
今はもう、自分は「現場に居ない」のだ。
昔は真剣にやれたゲームが今は出来ない、その多くの理由が、その立場や環境の変化、ではあって。現場としては、与えられた仕事、それを問題なくこなす、どんな内容で有ろうと!それは大事な話、結果的に、「ゲームの内容は問わない」出来るか出来ないか?だ、と言う事には成る、が。
「それを要求する側」が、それで良いのか?と言うのは…深刻な問題には成る。
昔は、「自分に出来ない事を現場に要求するな」と言うのは結構、正論として抱えていた気はする、が。現状は、「自分は出来るからって現場に要求するな」”それ”は深刻な制約には成りつつある。
「私は王の権威だった」と言うなら尚更、だ。
それは本人にしか出来ないのだ、そう言う事はある、現場はそれを求められても困る。
「中学生でもこの位は作れるのにお前ら」それは、言ってはいけない言葉だった訳で。もちろん自分も、当時は、そう言う感覚だったのだけど。普通は、そこまで行く?のにも、かなりのコストが掛かるのだ、それを最初から持っていた?と言うのはもう、例外でしかない。
流石に能力的に、「普通」に成ってきた現状ではある、或いは「並み以下」だ。
とは言えこの状況なら”現場”に無理は要求し得ない…そう言うのも、ある。
「現場に出来る事を要求しろ」
と言うのが、最近だろうか?その感覚には成りつつはあり。
「ゾンビU」このゲームの切なさは、そのまま「有ってはならない上司と状況」その絵ではあり、”それ”を肯定する様なその内容は、どうにも受け付けなかった、と言うのは有る。一人死んだら死んだまま、である。今の感覚でゲームに要求するのは「成功例の蓄積」だが、その成功例として有るのが「数十人を犠牲にしましたが何とか達成しました」そんな結果?と言うのは流石に今はもう、看過し得ない。しかし。
”現場”が見えてない、感覚はあるまま、実は、現場以下の状況ではある。
当時、自分が選ぶ立場だったら、奇妙に「ブルーガンダム」それに対して高い評価をしてしまう、それはある。構造の単純さ、結果の構築度と安定感。可変機としては剛性と可変速度、その両立を満たしていると言うめったにない特殊さが重い。「多分これが一番速いと思います」が、そのまま置かれている様な、見た目の華の無さと、その評価には重い理不尽さはある。疑問と現状は果たして、改善へ通じる道か否か、そこはまだ不透明だ。
ともかく当時、”これ”に対して否定的だった空気、それは間違いでも無い。
「勝てれば良い」時、これで勝てただろうか。
それは重い疑問としてはある。