あげちうのブロマガ

とある絵の中に居る人

最終的には、大賀さんの決定が最上位で有る時、問題は無い、のだが。

つまり、過去にも今の自分がそうだったように、「皇帝とかのパワーに否定された」存在が結構居た、訳だ。

”それ”の、悲痛に消えていくそれは殆ど、良くも悪くも「皇帝側」では有る訳で。
その蓄積がテレビの土台になってある、様な。


どんな形で有れ、「独裁者を認める」時、その終端には否定される領域、がそこに有って。
その最大が「王の権威」と「中華思想の皇帝」その対立、と言う形では現れる訳だが。
ともかく、独裁を認めるなら、それに伴う否定も容認せねばならない、その時。

「と言う訳で、この中でいらない奴が居る」

言い出しっぺの法則、そう言うのはこの時、機能的ではある。

”この”構図その物が無くならないと、その不具合、問題、それも結論では消えない、訳だ。
フィンセント・ファン・ゴッホが、生前は認められなかったのも、或いはそんな事例の一つかもしれない。
「王の権威」であったなら、もっと違う状況は有ったのではあるまいか、換金性はともかく、「売れない」と言う事は無いから、だ。
ただ「中華思想の皇帝」それには、その「売れない」必要とされない、その事例は起こりうる。



https://pixabay.com/ja/images/search/ゴッホ 水彩画/

なんで?

結論でたった一人しか、「この宇宙の物理に最もシンクロし得る”個性”」にしか価値へのキーが生成出来ない…と言う実は物理的な問題、或いは全ての格差、その始まりでさえ有る”それ”がある限りは、この事例は最終的な発展、それを妨げてしまう訳だ。

特に、死んでいった存在の懸念は、「今後、そう言う事は無いのか?」と言う話、かもしれない。
次もまた同じような事が起こるのなら、輪廻それは意味が無い。
にも拘らず、「作品は残っている」のだ。記録は”そこ”に残り続けていて、その不幸に陥る主人公、それは自分だ。

”それ”は或いは、魂だけが現世に留まってしまった、そう言う事態、だろうか。


テレビは、或いはそんな事態へ、一応の打開を見せた、訳だが。

「なんでゴッホの作品を生前、買ってやらなかったのか?」

だから、テレビは独裁性、”それ”を否定出来ない、拘る、買う、しかし。

ゴッホの作品には、或いは些細な不足があった、と言う事ではある。
独裁性、「末端は苦しんでいるのだ」それの元凶、それを否定してなかった。
逆説的にはだから、最後に自身を殺してしまったのかもしれないのだが。

とは言え?彼の作品は生前に売れた訳じゃない、或いは「中華思想の皇帝」だったとしても、それが誰かを排斥し害した、と言う訳じゃないのだ。逆に尚更タチの悪さが出る、罪なき存在を拒絶する、それは「王の権威」の上位である物理が、基本的には許さない。

今の「価値を形成する」と言う方向性で、ゴッホの絵、その価値その物が否定される、と言う事は無い、だろう。強力な独裁者の存在は、末端を疲弊させる、それは事実だ。自身の結末まで含んで、その容認は不幸を創る、それは良くない。

一応現状の、”雅”市場、ストリードの連携、大賀さん、それらは、その事態を創らない、気はするが。

判断するのは、特に、「自分では無い」訳で。

テレビは、「働く」売れる、それを許容するか。

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