ヒット、それはめでたい話だが。
しかし、それは結局、ストレスの始まりではある。
ともかく現状はまだ、「独裁創作」それへの傾倒が強い。
それを指向しないと、まず認められる、そこに成らない。
認められないと?作品は前に出せない。
ともかく上の存在に認められるモノを創る時、今は、「売れる」それは無理だ。
そしてテレビは今も、”それ”を形成する壁に対して、戦いを挑んでいる。
推察では、テレビがそもそも”それ”を目指した構造だから、ではあるまいか。かつて映画産業が潰れた時、そのスタッフの多くはテレビへと流れた。”そこ”はスポンサーの胸先三寸とは言え、給料を支払ってくれた。「独裁創作がお金に成った」訳だ、一見。それ以後、暫くテレビは”それ”で、創作者にとっての何かの安住の地と化した訳だが。
「認められれば売れる」そんな幻想が、テレビを中心に育ってしまって。
次第に、問題に成ってくる。「こういうのを描いてほしい」「私には描きたいモノが有るのです」その、実際には映画産業が滅んだ、その悪魔の台頭だ。地位と立場を確立したテレビは、或いは昭和天皇の崩御と共に、やがて利益性を失い始める。明確で有能な「支配者」の消失は、テレビから急激に利益性を奪い、結果で今の時代になった。テレビはスポンサーを繋ぎとめる事に腐心する様になり、或いは”その為に”番組を創る様に成って、紆余曲折の末に、「中華思想」その台頭を招いた。
ともかく中華系だろう、「奴隷が30人焼死した程度、大した問題じゃないだろ」そう言う意識を前にして、”相手”の言う事に反発するのは、かなり事だ。野心もある、どっちにしろ利益が出なければ終わりなら、多少の不正なんか問題じゃない。
と言う訳で、新海監督は”彼ら”に認められて前に居る訳だが。
「被せ」た相手に見つかりにくい、そんな方向性の提示と変換が出来た訳だが。
とは言え、流石に今回はちょっと、問題が出たのだろう。
そして、京都アニメーションの事件後、やむを得ずか、何かの「契約」がされて。
…作品としては問題が無くなった、”ここ”で言うストリードの連携、それと似た形式に成った…そんな感じかもしれない。
そう考えると、今後の懸念もある。
「認められた」その能力は、結局は不足があった、訳だ。独裁創作じゃ、無かった。
となると?認めていた人々としては、彼を今後も認め続ける事には、メリットが無くなる。
すると?
ともかく自分としては、「大衆」その神は、自分を今のままにし、京都アニメーションの悲劇を止めず、「天気の子」はヒットしたままにしてる訳で…その真意を測りかねてる、そう言う状況ではある。
「売れたい」人々の、その妄執に近い物は、それでもその「認められる」道を見ていて。勿論環境がそもそも「それしか道が無い」訳だが、その結果、”そこ”には集中していく物があって。
ヒットした、として、果たして。