それは必要なのか?と言う命題はある。
「クラウンズ」と命名した、コンシューマゲーム業界に有る「認証機関」その存在だ。
必要性は、クオリティコントロールの必要性としてある。
それが無いと、ユーザーは結論では安くない金額でガチャを引く事には成る訳だ。
理解としてその結果か、アタリショック、と言うのが発生した、その反省から。
ハズレくじ無し、と言うのを具現化しないと、客は戻ってこないだろう。
その実装、そしてそれにより任天堂は発展、今のコンシューマ業界が出来た。
その再生が求められている?と言うのもある。
創作者?としての実体験的にも「これは良いモノだ!」を理解してもらうまでには、遠大な時間が掛かる。
そこへ接触する如何なる疑問にも返答を用意しつつ、目的まで、”それ”を拡大せねばならない。
その上で最後に有るのはイデオロギーの対立、だ。それは結論で、戦争の狼煙でさえ有る。良いか悪いか?は、最後の王、その主観に過ぎない、それは一つの現実として。
…良くも悪くも、概念上は今、その「最後の王」そこに居るのだ。
自身が言った制約と共に、それはその命題を前に置く。
理想が有る。
”それ”はそれに対して必要か?が測られる。
というより、それは”勝者”だ。
今の所、”これ”を越えるモノが無い、だけだ。
それにしては、それは、奇妙な程、愛らしくもある。
不満?或いは、それが有る場合、「大賀さん」紛争解決機構、それによる戦いが起こる。
今の所、かなり安泰ではある。唯一の問題は、この20年は前に構築した理想、それは今後の物として良いのか?ではあり。
如何なる困難だろうが、一人であろうと成せば成る。
動賀正昇、ではある。
その上での勝者であり続ける限り、それは義務として、その座と役目?はある。
”ここ”に認められて、初めてそれは存在を許される。
「作ってから認証を求める」か、「その前に許諾を得る」か?は自由とは言える。
前者がパソコンゲーム、後者がコンシューマゲーム、ではあり。
正論としては、「創る前に許諾を求める」方が正当である、前者は騒乱の元ではあり。
とは言え、前者が間違ってる訳でも無いのだ、勝ってしまえば、それは正義に成る。
この秩序?は、”これ”がいつか負けるまで続くのだ。