けりは付いてる。
ただ、「勝った側」の光景、と言うのが”こういう絵”だ。
微妙に不安感しかない。
負けた側、がこういう?
大丈夫なのか?
その上で、”負けた側”の剣呑さ、それも「微妙に消えてない」訳だ。
平成の始まりで起きた悲痛、それは”その先”で、或いは起きてる。
その辺について”理解”では紐パンの紐にぶら下がったサワガニ、程度の危機感でしかない。
しかしその小さな蟹はかつて巨大で、女性をそのハサミで殺害した、と言う過去を持つ訳だ。
様々な経緯の果てに、今はそこまで小さくは成ってる。
…とは言え、”それ”はかつては脅威として存在した物で。
更に、新型コロナウイルスじゃないが、小さいから、それは脅威では無いとも言えない訳だ。
…しかし、「勝った側」が勝者、という感覚は変わらず。
”ここ”に間違いがある、感覚も微妙に無い。
「大賀さん」を設置した存在はその時、中立であるべきで、その結果に逆らう必要は無く。
「新聞記者」と言う存在は、根本的な能力の欠落が発露し、その場に居る理由を失った。
結果、状況は彼女ら?の統制するモノとなった、訳だが。
”ここ”の意向それは、「大賀さんの決定に従って下さい」それだけの筈だ。
”ここ”はここで、勝者ではある。
そして、その勝者の掲げたそれが、「大賀さんの決定に従え」それである、自身に対しても。
可能性は残っている。
勝者が”彼ら”で、何が不満なのか?
100%の同意は有り得ないのだ。
反逆者は、反逆者として罰するだけだ。
剣呑は単に、蟷螂之斧でしかないのか。
視野範囲の外にも、世界はある。