感情論として、止まらない物はある。
売春婦を強姦致死した奴を、そのまま放置するのか?
オチも見えない状況はある。物理演算側には「王の権威」それは居ない、物理模倣演算側には居る。結果、前者は最後に”物理では無いモノ”を指針として不快と理不尽を創るが、後者は創らない。もちろん、利益性を考えたら後者になるが、何かの理想としては前者にこそ夢はある。
そこなら如何なる失態も、残機を一機失った程度の事でしかない。
後者なら致命傷だ、二度と復活は出来ないのだ。
見えている倫理観の異常、それは「スペースインベーダー」から、ではある。「硫黄島の決戦」に、しかし”作者”は「頑張ればどうにかなる」そんなテーマを載せてしまった。欧米で言えば「アラモの戦い」だろうか、”それ”に対してそんなテーマを語られたら、激昂する人さえ出てもおかしくない。ともかく「硫黄島の決戦」その再現と言うニュアンスが強いウチは良いが、上手く成ってくると、本来の「頑張れば何とかなる」それが”王の権威”と衝突、反発を始めてしまう。
ゲームセンターはやがて、”不良”の溜まり場に成っていった。
理不尽は蓄積されたまま、「ゼビウス」に繋がり、同じような過失を残したまま、対立は鮮明に成っていって。
その果てに、激昂する何かは売春婦を強姦して殺す、と言う過失を起こし、「頑張れば何とかなる」そのテーマは”その”罪の隠蔽と打開を肯定?した。
平成が始まる、昭和天皇が居なくなる、その狭間で起きた混沌ではある、が。
「誰の責任か?」それを今も、明確には問えずに居る。
物理演算か、物理模倣演算か、だ。
その、些細なニュアンスの問題で、平成は「利益的には壊滅した」時代に成った。
その時、物理演算を「物理模倣演算」的な表現で呼んでいたら、少しは変わっただろうか。
ともかく売春婦を強姦して殺した、と言う過失は消えず、それに対して物理演算は「残機はまだ有る」そんな言い方をする。
後者の方は、過失を問われれば、少しは引き下がる感覚もある、が。
前者に発生する反発、それは今も、何かの強度を持ちはする。
複雑怪奇に、標的に対して如何なる加害も出来ない、加害者に成るのは理不尽だ。
”それ”が存在する事で発生する損失、”それ”をただ、残酷に問う事くらいしか出来ない。
道理と、感情論が、何かの衝突を続けている。