前に出た数学的考察から、髪だと切ないので、胡瓜にして見る。
4×( 3)=12
日に4本収穫できる胡瓜は三日後に12本収穫できる。
-4×( 3)=-12
日に4本盗まれる胡瓜は3日後には12本盗まれる。
4×(-3)=-12
日に4本収穫できる胡瓜を三日取らないで居ると12本損する。
-4×(-3)=-12
日に4本盗まれる胡瓜を三日間放置すると12本消える。
…主観だなぁ。
思うに、数学は「定義してからじゃないと、数値も変数も意味がない」訳で。
とある事業計画。aを人数、bを処理数、その上で、5000人を処理するには?
5000=a×b。aを10とすると、bは500。10人では一人500人をカバーする必要が。
しかし、bの上限を100としたら、aは最低でも50人は必要、スタッフが足りない。
…という計算は大事な話、”だが”。定義が無かったら。
5000=a×b。これは何を意味しているのか?
知らんがな。
その人の主観は、その”定義”を勝手に出来るのだが、それが第三者にも等しく共有し得る物か?は解らない、訳だ。その前に”定義”しないと、その計算式は意味を持たない。ともかくその「定義」をしない状態での正論、「定理」とはそう言う物ではあるから、一つでも反論があったらその定理は成り立たない、そう言っても良いのではあるまいか。
その上で、「次元軸の一つでもマイナスが掛かったらそれはマイナスになる」方がこの場合、定理としては適当である、とは思う。
この結論?は、「数学が何故忌避されるか?」の道理にもつながる。「定理が間違ってる」訳だ、だから。間違ってる事を学んでも、意味がない訳で。人々はそれを”実感”する時、「自分には関係ない」そう、結論を出すとしたら現実の事象にも合致は有る。
…とは言え、ue(アンノウンエネルギー)を定理化して良いのか?は。
何かの0以外の数値にueを掛けると0になるが、0に掛けると1になる、そんな何か。
道理は、ある。計算式の何処かにueが介入したら、計算は成り立たなくなる訳だ。計算で全ては決まらない、その道理はそこにある。だが、結果から分析する事は出来る。
Aに対してb、c、d、e、fがそれぞれ100ずつ加算すれば、Aは500の筈だが。
実際には300しか入ってなかった。何処かでueがbcdefのどれか二つに介入したら?そうなる。
「何故?」
…そこは、神のみぞ知る、だ。
「宇宙には何故、何も無い所から物質が発生したのだろう?」
ueの気まぐれである。一応は、そう言う話にすると「数学的な接続は出来る」訳だが。細かい事情は物理か天文学の出番だ、数学としては”そこは領域の外”である。ともかくueによる盛ったり削ったりする果てに、今の宇宙は有る訳だ。その果てに、自分らも、ある。
一応、簡単には自分が消えない理由として、ueは何らかの人間の意思に繋がりが有る、そう言うのは有り得る。現実に対して人間はue並みの介入が可能な面が有るが、そこにはその辺に道理がある訳だ。神を意識するのは人間だけかもしれない、人間とは。
その辺は、神学論の領域ではある。
-4×(-3)=12
日に4本盗まれる胡瓜は、三日前には12本あったのです。
いやそれはおかしい。