経緯の問題もある。
「一夫一婦が至高」正しい、「かむろぎ」はそれから単純な否定を向けられやすい。
世間一般では「妻は一人、そして愛人、妻以外とは浮気であり、好ましくない」という理解が常識だが、かむろぎでは、「妻が複数居る」それは許容している、”妻の同意”がそこに有る限り?一夫多妻は問題視、されないのだった。
経緯の様なモノとしては、”この”ネタが割と親和性が高い、訳だが…当り前にある「どっちを切る?」をしないまま、この環境は大きくなった?のであり。経済の回復、創作の理想、そう言うモノとしては「犠牲を出さない」その選択は正しく、それ故に、表側のメディアに否定されていても、「かむろぎ」は膨らみ続けた、という経緯はある筈。逆に、それを否定し、恐喝的な態度をしていた?表のメディアが衰退していった、それはこちらにとっては道理、ではある。
…しかし、世間一般の同意?が直接的には得られないのも、それはそれで深刻な現実ではあって。
理想、「目指すべき未来」それとして、「商店街が総じて流行ってる光景」それは、相変わらず至上命題ではある。”そこ”に居る限り平等かつ公平な権利を有し、その上で切り捨てを創らない環境だ。故に?一応、「かむろぎ」では「売春」それに相当する産業?には…否定がある、いらない。理解として売春とは「強奪連鎖による切り捨て」の結果でしかない、という把握が有り、故に大きな違いとして「アダルトビデオは女性だけで撮影する」のが正義、ではある。どんな形であれ、男性がその環境に居る”それ”は売春扱いに成るのでダメだ。その結果、風俗産業は総じて、罪人的に好ましくない、扱いにはなる。
この、「既存メディアの否定」と、「風俗産業の否定」は、やっぱり懸念としてはある訳だ。結局?”ここ”での創作は、既存メディアには受け入れ難い物には成ってしまい、逆に”そこ”での方向性はかむろぎ側には多く「いらない」そう言う物に成りやすい。更に重い思想がある。
大衆は神である。
その意向を捻じ曲げる行為は犯罪である。
この結果、「カウンタ制御はしない」のが、一応の不文律として有る。盲点かもしれない、「+方向のそれは否定してない」利益を得ようとすれば、”それ”は費用対効果が悪く自滅するし?例え数値が低いからと言っても、一番で無ければ成らない訳では無い、生活し得る分だけポイントを獲得し得ればそれで問題ない、と言う把握だったが。それでも”それ”が無い訳ではないのだった。アメリカ大統領選は”その”応酬だった感じもあり、この辺にも、混沌と疑念は残っている、のかも。
利益性を盾に、”これ”を既存の社会に持ち込む、それは出来るのだろうか?だ。
とは言え、「かむろぎ側には新型コロナウイルスの被害は発生していない」と、言って良いか悪いか解らない結果も、(多分)ある。何故か?と言うと新型コロナウイルスは、「強奪連鎖の結果として発生するから」だ、と言う解釈ではある、かむろぎはそう言う事は起きてない、訳だ(多分)。既存の方法論による市場経済のストレスが、特に売春婦を産む行為、意向、それが、”それ”を活性化させる、そう言うのを、かむろぎは否定する。しかし?それは結果的には、カラオケでの暴走的熱唱、そう言うのにダメ出しをしたりはする訳だ。
視点では、かなり窮屈な環境、かもしれない。
昭和の頃の様な、ああいう熱狂はもう、今は許容されない。商店街の中に突如巨大なデパートが出現し、周囲の客を全て吸い上げる!と言う、それは良くないし、経済的発展をむしろ阻害する。しかし、その理解はつまり、既存の経済、それに対して重くダメ出し、「あなた方のしてた事は犯罪です」そうまで言う訳だ、昭和の継続?それはもう、古くて汚くて使えない。
その時、氷河期世代それは、更なる苦境に陥るのかも。
正義は何処に有る物か、それは今も、混沌とはしている。