何だか、イライラはする。
「店の店員が、店で売ってる商品をDisる様な真似をするんじゃない」
”被せ”の問題とは、つまり「そう言う事」ではある。
一応の正論ではあったろうか。
「被せ」の権利、「先生」その資格、みたいなのが「ここ」に来る時、しかし、つまり様々な例と不満?が集まってくる、感じはある。
そしてだから、大概の問題は、「なんでそんな余計な事を言うの?」そこに有る。
どうしても、主観で、土台に対する自分の感想?否定的意見、「買わない方が良いですよ」とかそう言う、”余計”を乗せてしまう。
そこで最も酷いのが「皇帝創作」主に庵野秀明氏の手法だが、「これよりも私の方がずっと上手いでしょう?」土台にしつつ土台を踏み潰してその場を自分のモノだ、とまで主張する様な、そこまで至る訳だが。
色々あって、”この”手法での、「倫理観」それが”ここ”準拠に成る時、「それは悪い」それは、言える状況には有る、のかもしれない。
「余計な事を言うな」
それは、或いは世間に有るストレス、その殆どだったりするのだろうか。
人の行動に逐一ケチを付けてくる、そう言う問題行動?の、その起点と言うか。
何をするにしても他者の否定的な声がそこに有る時、その人は外に出れなくさえなる。
平成は、”それ”を先生役にしてしまった、そんな時代でさえ有った訳だが。
「被せ」に求められるのは、「これ良いですよ」これはこういう商品で、こういう所が良い、”そこまで”だ。それを描いた人の主観は、いらない、単純な、カメラの様なA級描写、正確な把握こそが価値。その先へ踏み込むような内容に「それはダメだ」と言う権利が”ここ”にあるなら、少しは気分も軽くなる、かもしれないのだけど。
創作が好きな人が、数多の創作を見つつ、「あ、面白い」とか思い、”それ”を自分の持ってるスキルで”表現”する…それがまあ、「被せ」の原始ではあるのだろうけど。
自覚しながら創作を創ってた人は自分も含め、果たして、どれだけ居た物か。
正論と、見えない現状と。
余計な事を言うな。
何処まで?