変化と言うべきか。
「スーパーマリオブラザーズのマップって、横画面なのはなんで」
パタメットの大群は、何で黙ってマリオに踏まれてんの?
何故か、問われてる様な感覚は有る。
状況に実際は深刻さが出始めている、と言うべきか。
今まで”そこ”を支えていたモノが、支えきれなくなりつつある、「結果が伴わないから」だ。その発生する損失を埋め続ける事に、かなり深刻な懸念が出てきた。その発生した損失?の責任を問われる時、そこに欠落が発生し、そしてそこに、”適当”が居ない。
想像以上に、「増尾昭一」氏と言う存在の欠落が、状況に面倒を創っている。
気がする。
勿論”それ”は、「黄昏の狩人」を土台にし、それでいて作者の「王の権威」を否定する、と言う矛盾の結果ではある、のだが。自分が自分の身を守らんとする時、”そこ”に依存していた全てが、何らかの深刻な崩落を始めている、感じはある。
とは言え、”そこ”にある感情論の憤りには、返答は出来る。過去に残酷に殺された「売春婦」は、二度と自分を殺した「新聞記者」と出会いたくないのだが、”同じ領域”に居る限りは、その可能性がどうしても発生する。だから、殺された直後は逆に、それが死ぬのを否定した、”同じ冥府に来るから”だ。今は或いは少し、状況は変化した…が、それは無理難題を問う事にはなる、絶対に会わない様に出来ないか。
一応、一つの解法?はある、「新聞記者」は、「大賀さん」的には極刑、「死刑」を宣告されている、が。ただ、それは命令であるが、強制?では、無い。逆に、”相手”はそれを否定する時、「反逆者」に成る訳だ。それは「大賀さん」と言うか、それを前にすると「近寄らない方が良い罪人」のフラグが立つ訳で。「売春婦」的なそれは、そのフラグに近寄らない様にすれば?それと接触する可能性は、ほぼ0には成る。相手が自殺したら?それはむしろ喜ばしい事だ。ともかく「反逆者」のフラグが立っている限りは、相手に成功それは、無い。
”今まで”の、スーパーマリオブラザーズを創る際にあったモノでは、この返答は出来ない。この時、しかし、それは今までとは、随分違うイメージに成ってしまう、訳だが。それで良いのか否か、そこに有る疑問への返答が変わっている時、絵としても変わっていないか…そこは神判を待ちたい所ではある。
ともかく「fall guy」このゲームが、割と任天堂的な雰囲気を持つ、と言うのは。それでも「これで良い」その意味に成るのだろうか?
「お米と言うのは88の苦労の末に出来るのです」その選抜を乗り越えたモノこそが皆様の食卓に上っている。
とか言うのを理由にするべきか否か。
と言うか、これが理由に成ってしまう、そんな状況だろうか。