あげちうのブロマガ

世界の半分を超えられない壁

不意に、自覚する感覚ではある。

自分は仏教徒だ。

キリスト教それは、何かの脅威である。


ちょっと、オーダーの気配?から、少し連載小説を書き始めた。結論で言うと”目的”はちょっと個人的な物で、何処まで出来るか?は、まだ解らない。

「しょーこの証拠」

新任の、若く美しいと言って良い女性教員による、赴任先での奮闘を描くゆるふわ系…である(多分)。


その影響、だろうか。

宗教対立、と言うモノの深刻さは、現状のリアリティではある。宗教的な物理として、「教義として唯一無二はない」のだ、自分の信仰する他に、違う信仰があり、それは何かの異相として有る。自分にとって右に行きたい時、”それ”は左を選択する。その思想は思う、それを放置するなら、世の中の「道理」は大きくゆがんでしまう、それは世の中を薄暗くする。

そして怖い何かとしてこの時、勝利を!目指す先に、「大賀さん」その決定を無視する感覚がふと、そこにあったりもするのだ。


改めて、「脚本家」と言うのが実は組織力と言うか、使役するパワー、そう言うモノが必要?と言う理解に少し、思い至る。プロット、キャラクター、背景設定、細部の現実、それらは基本的には物理的な事実を土台にしてそれを評価の基準にはする。「嘘は評価を下げる」訳だが、それを一人で支えるのが結構、困難だ。通常のアニメ等はまだ良いのかもしれない、何処まで言っても見て解る異世界だ。通常の舞台、ドラマ、その現実を舞台にする時、そこに対抗として有るのは「事実」ではある。

それを物差しに物語を創る、と言う事に、不意に重さを感じる訳だが。そして”これ”を突破する一番のパワー、それは人脈とか支配とか、そう言うモノでもある?それを少し自覚はする。

その先に、その他の支配力との対立…それが、無視出来ない衝動として有る。

極論?すれば、仏教徒が「面白い」と思う物は、キリスト教徒には理解し得ないのだ、逆も真なり。古い感覚だ、と言うのは有ると思うが、テレビにしろ、映画にしろ、実際には”それ”で戦争までやった世代の「古さ」をこそ土台にしているのだ。その世界を支配するのは今もまだ「大賀さん」では無い、相手を倒し、全てを我が手に!その強烈な衝動だ。「テレビ」と言うステージに、不意に壁を感じた一瞬ではある。


そう言う意味では或いは、今回は最後まで、オーダーの期待にそえるモノには成らない、かもしれない。昭和の頃か、テレビの常識か、そこで感じていた「当り前」のヒット作品、それは今は、何かの凶悪な魔物として、或いは新型コロナウイルスを活性化させかねない。

半数の肯定と、半数の不満、その狭間に今、不意に居る。


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