諦めないのが崩落の原因か。
それとも、単なる愚者の限界か。
PS5草案、その問題と言うか、否定された理由ではある。
最大の問題は、「デッド・バイ・デイライトは面白くない」その”ここ”の感覚の問題だ。
世間で「評価」されてる方向性は、むしろ”ここ”である、ここに合致する物でないと、評価対象に成らない。これが実際にはどれだけ利益になってなくても、だ。
ただこの時、PS5草案、それは「面白くない」或いは好ましくない、評価に成る訳で。
色々考えて、”ここ”に有るのは相対性理論、その壁だ。
物質は、光速を超える事は出来ないのだ。
異世界、それは存在しない。
しかしその結果、その理解では「消費」する事しか出来ない、そんな現実がある。
増えない。増やす構造が、物理的に?存在しない。今あるお金が終ったら、お終い。
”それ”までの時間を、如何に引き延ばすか?
価値観は、最終的には”そこ”である。
その時、”ここ”には、世間と少し違う理解がある。
SF映画で良くある「ワープ」それは、条件を満たせば可能である。
この時、というか、その前に「価値は創造出来る」「お金は幾らも増やせる」その主張もあって。
この理解は、その帰結の一つ、として有る。
「面白ければそれは正しいと言う事だ」
気づいてないのかもしれないが、それはあくまでも”ここ”にとって、だ。
”ここ”が面白い、と思う事こそが正義なのだ、つまり、ワープは存在する。じゃないとSF映画がつまらなくなるだろう、それは駄目だ。
ちょっと待てや。
一応、この「ワープは可能である」理論は、一応ブログにもまとめて?はある、異世界、鏡面世界同士が同期する時、そこには「不可能が可能になる瞬間がある」訳だ。AとBの世界でのプラスとマイナスは逆である。AにとってのプラスはBにはマイナス、逆も真なり。つまり、Aの「不用」はBには「有用」この両者が、この両者の不用同士を交換できれば、両者の不用は両者の有用に変わる訳だ。減る筈だった、消える筈だったモノ、それはそのまま、価値として再生し得る。
異世界と言う存在は無い。
この理解?は或いは、アインシュタインにとっての境遇に影響が有ったかもしれない。普通と言うか、そこには男性と女性、異なる異世界は隣接して有る。その両者が。
アインシュタインは、最初の妻とは別れているのだ。
物理学者に過剰な期待をした事が原因か、物理学者が思い上がったそれが理由か。ともかくこの時、彼らは両者の同期が取れなかった。
現在の”ここ”の理解の中には、「個が女性、多が男性」と言う把握も有り、一夫一婦は極論すれば一夫多妻と同期するポイントが有る。妻が複数いる時、妻の集団(・・・)を「多」と見れば男性、一人の夫が「個」つまり女性、という視点は出来る訳だ。一夫多妻も、一夫一婦と同じ視点を持てたりはするので。そこを超えられれば、その先はある。
と言う説明を既に別れた物理学者の前でする事に、何の意味が有るか?ではある。
「正義は勝つ」と言う、それは真理かもしれないが、その時、それはどっちか?だ。
ともかく今の、相対性理論を絶対とする表の理解で、PS5草案を運用する事は出来ない。
炒飯も難しい火力で我慢するか、鉄板さえも溶かす高温も可能なコンロで調理するか。
キャンプも、楽しいモノかもしれず。