あげちうのブロマガ

AとEの狭間で

結局、”雅”市場、ストリードの連携であっても、「好き勝手やってもいいけど、スコアは付けないよ?」そう言う話になる訳で。

現状のカウンタ制御?それは、”そう言う過去”昭和の?それに対する、対抗の様な物ではあるのだが。

作者的には単に、「リアリティが足らない、自分のリアルだったら!」それが、”雅”市場的な価値観では「先人の成功例にケチを付けるのは良くない」それは王の権威が認めた価値の起点でさえある、それに対して意を唱えるのは不敬である。結果、壊滅的な評価に成ってしまう、訳で。具体例と言って良いか悪いか。
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「シン・ゴジラ」これは、結局は「初代ゴジラ」それへの”被せ”であり、しかしもっと悪い「皇帝創作」土台にしつつ実は否定してる、そう言う作品に成ってしまっていて。着ぐるみなんか古臭い、会議シーン無駄に長い、戦闘シーン無さすぎ、展開がイミフで理不尽、解決策が訳わかめ、初代の何処がおもしれ―の?その辺”一切”補完する事無く、ただ否定を載せているという、およそ”雅”市場としては有り得ない駄作、がしかし。庵野監督の処女作である「帰ってきたウルトラマン(ダイコンフィルム)」から、これが実は彼の基本的創作傾向ではあり…実際には「エヴァンゲリオン」も、”何か”の「被せ」だった?その後にヒット作が無い所を見るに、そう考える方が正しい気はする。エヴァンゲリオン”だけ”は、その姿勢が何故か一部だけ肯定された訳だが…ともかく。
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「シン・ゴジラ」は、外国では壊滅的な評価になった、らしい。それは、何となく「さもありなん」しかし。”雅”市場だろうと、作る事自体は禁止してない、単に評価が壊滅的に悪いだけだ、しかしつまり、結局投入したコストの全ては無駄になってしまった訳だ。”それ”に対しても”雅”市場、王の権威側は「それは授業料みたいな物だ」そう、言う。そこで深まる溝の、根本は次第に語られる事が無くなる、視野範囲外に消えてしまい、単なる「お前は敵だ!」その衝突だけが残り、戦争へと発展していく訳だが。

現状のインターネット、そのカウンタ数値は、総じてコントロールされている。”雅”市場なら「金額的数値として付ける数値」を、運営側は「自分らにとって都合の良い数値に変えてる」訳だ。要するに、インターネットの運営側は、「皇帝」側に有る。実際には金額的には全然上がらないネタに高い数値を付け、それを何かの総動員にて、強引にブームにしてしまう。その時、市場的不愉快に対して壁になるのが「皇帝」の存在、「王の権威」に立ち向かう存在、だ。作品への批判は、皇帝への批判になるが、”それ”はそのまま「王の権威」への否定として偏向される。結果、「王の権威」それは”何か”見えない敵との戦いを余儀なくされる、訳だが。

「王の権威」であろうと、「独裁者である事に変わりは無い」訳で。皇帝との違いを大衆に説明出来ない、単に「皇帝は儲からない」が、「王の権威なら儲かる」だけで。今のカウンタ制御に対して思うそれは、皇帝の「王の権威に対する不満」その代弁でさえある、意味が解らない。大衆は神である、民意的多数決の多数派にこそ神の意向がある。それに逆らっては世界は維持出来ない。価値ある物とはつまり。要するに、お前の創作はゴミだ。

「皇帝」それは、王の権威からそう言って、全否定される存在だ。ただ上の理由を説明する所に、否定感は当然発生する。”雅”市場的に言う「E級」個人的主観でしか是非を判断しない創作?そう言うのを全面禁止にするべきか否か。単に要求されたモノをその通りに描く「A級」現場は”それ”で良いのか?

「エヴァンゲリオン」あのヒットの裏には、果たして何が有ったのだろう?

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