小4女児虐待事件、心愛ちゃんが、死にそうな時。
何故「神様」は、栗原容疑者を止めようとしなかったのか?
要するに、「神様」にしたら、漫画を視てる様な物でしかないから、だ。
神は全てを視てるにせよ、それは基本的には”無関係”だ。否定する、それは容易い、読まなければ、買わなければ良い。そして?読者にはその是非は解らない、のだ。設定は幾らでも創れるし、それをあえて公示する必要もない。或いは邪な悪魔が正義の味方に倒され、それが何とか転生した先が”そこ”だった、「そう、言う」事も可能だ。それは、その理屈で言う道理、因果の一つではあって。作者的には溜飲が下がる、ある意味の快楽。
つまらん。
売れないだろう、面白くない、不愉快だ。それでも、「表現の自由」それは、そう言う意味ではある。独裁性、その先に有る悪夢の一つだ。栗原容疑者は或いは今も、自分がとんでもない狂人だった事を認めてないかもしれない。彼らは何かの正義に則って、何かの衝動と共に、その自身の正義、何かが押すそれを、行使したに過ぎない訳だが。
古き良き商店が犇めく街を、「無秩序で美しくない」そう言う事は出来る。
美形でグラマラスな女性に対して、慎みが足りない、そう評する事は出来る。
余計なお世話だ。
ともかくそこに、そう言う責任を問おうにも、そこにはお金が?無い。
独裁性に拘りすぎたから、だ。それは利益を発生させない、”消費だけ”だ。
或いは、何かの操り人形でしかない、そう言う自分を忘れていた、そんな。
その結果としての破綻、それは一つの「正義」としては、ある。
…ただ、結果として現実に死んでしまった心愛ちゃんは、もう帰ってこない。
「どうすりゃいいの?」
主に、去年までの、テレビの衝動で動いてた創作者の多くは、或いは今、そんな状況には有る。
理解の帰結として、一人の少女を、数十人でリンチし殺した…、そんな事態だ。
尚の事、”それ”は自身にとっても、後悔の様な物としてはある。
数年前に、「皇帝創作」評価作を土台にしつつDisり、自身の優位を主張するそれは、5歳の少年を公衆の面前で焼き殺す、と言う悲劇を起こしていて。
それは危険だ!解っていて、その上でその、心愛ちゃんの悲劇は有ったが。
当時にしろ、明確に「だからダメだ」それは、言い切れた、とは言えない。
帰結の一つはある。
「全員死んだ」のだ、心愛ちゃんの様に。
発言権が無くなった、或いは、閻魔大王に舌を抜かれ喋れなくなった、そう言う。
「責任を取れ」その時の、一つの取りようではある。あなた方の創作者としての主張はもはや、”一切”考慮されない。
とは言え毎度毎度、誰かが死なないと、この辺改善?に成らない、そんな現状はある。
「売れなかった」それは、幸か不幸か。
少なくとも、テレビ側で売れた時、少なからず、この責任は発生するのだ。
自分はまあ、まだ、何かの安全圏には居る。