職業病、と言うべきか。
エロ漫画家にとって、他人の痴話ケンカは、ネタの源泉でさえある。
迂闊に不仲説でも浮上したら?何処までネタが広がるか解らない。
この時、ネタ元が否定すればするほど泥沼に陥る…と言う現実は有って。
結論的に言うと、こういう果てに、あの「瀬戸内寂聴」氏の、それが有ったりする。
尼僧と言う現状で言うこの人の存在意義とは、多分単刀直入に「反面教師」である。
女としての幸せを目指すなら、その時、自分の様な選択は決してするべきでは無い。
何処まで社会的な「幸せ」「幸運」を得ても、”それ”は決して埋まらないから。
”それ”を体感と実感として抱えている時、他者にとっては”これ”を拒絶する、大きな理由には成る訳だ。彼女を信仰する、そこに意味はある。
…とは言うが、この結果が正直言うと、昭和の闇そのモノでもあって。
有名人の色恋沙汰は何処まで掘り下げても文句を言われない、風潮が当時で無くてもあり、その辺でネタに飢えた人々が喰い付く結果、”それ”は大概は破綻に追い込まれる訳だ。破綻した際の、責任の追及は理不尽なレベルでしかし、或いは的確に「元凶」へ上がって行って、多分、村山美知子氏は、その経緯の果てに、瀬戸内寂聴氏を妙に「認める」方向へ入った、気はする。
創作の内容その物は素人でも、だ。
この辺が歪みの基点、かもしれない。
現在でも、この辺への懸念はまだ、重くある。最終的には”雅”市場、今はこれが”利益性に関しては”全体統制を行ってる感じもする、が。まだ「アインシュタインは人類最高の頭脳の持ち主」的なフラグから、「でもこの先は袋小路です、隣に抜け道がある」と言う事実にぶつかるまで”雅”市場の理想とは逆走する傾向はあり、つまり”雅”市場のルールに有る、「他者のプライバシーは犯罪の告発でない限りは、調べても報道してもいけない」と言うそれは軽んじられてしまう。
事実を土台にした方が、やっぱりエロ漫画と言えど、パワーはあるのだ。
その時、スキルと言うパワーは逆に”現場”の、ネタ元の破綻を加速させてしまう。
趣味や実感の問題もある。自分が破綻した時、やっぱり他者にも、同じような結末をどうしても望む傾向はある。創作として利益を得ねばならない、結果、センセーショナルなネタをどうしても求めるし、「ってなったら怖いよね」は、意外と面倒だ。自分が陥った無能さを、他人が前にする時、わざわざ救いに行くか?「なんで?」むしろ後ろから押しに行ってしまう訳で。”これ”が現在のルール上「利益に成りません」としても、逆に言えば”それだけ”だ。
場合によっては結論で、”それ”で人は自殺や破綻を選択する訳で。
自爆テロであっても、”雅”市場は、この辺を完璧に抑止しているのか?と言うと疑問は有る。相手には、場合によってはもう、雀の集団にしか見えないのだ。”それ”が切ない思いをしていても、憐憫する程度で終わってしまうし、場合によっては網を持ってくるかもしれない。自分の利益の為に他者を生贄にする、と言う選択には現在、新型コロナウイルスが忍び寄る可能性があるにしろ、捕食その物は出来る?感じもある。
危機感は今もまだ、去っていない。