昭和・平成・令和・さわやかに老いる日々

朝元気に目覚め、食べたいものを食べ、行きたいところに行き、会いたい人に会えることに感謝です。

子供だった終戦当時の体験 

2023-06-06 11:00:13 | 日記

 

       

今、日本は平和です、わたしは日常の様々な事に幸せを感じ、有難いと思って過ごして居りますが、84歳のこの歳まで大変な時期がなかったわけでは在りません。満州(今の中国)で生まれ戦争が起きてから日本に帰国するまでの怖かった経験を今も忘れる事はありません。

父の事業の関係で、私は満州で生まれ6歳半まで過ごしておりました。そこに太平洋戦争が勃発しました。住み慣れた家を離れる少し前、警報のサイレンが鳴り、母方の従兄弟が「おばさんおじさんがすぐ防空壕に非難するように言ってるから急いで」と言いに来てくれ、家の近くの防空壕に入ると同時に、近くに爆弾が投下され、数分前に知らせに来てくれた従兄弟に其の爆弾が直接体に中り亡くなりました。従兄弟は即死でした。その無残な姿を今でも戦争の話になると思いだします。

父はこの場に居ると危険だからと、母と私と妹に安全な所に直ぐ逃げるように言い、最終的にはナホトカから船に乗るように母に指示してました。私達3人は街が、飛行機から爆弾を何か所も投下され家々が燃え盛る中、会社に残った父に見送られその場から逃げました。父はその後すぐにソ連兵に捕まり、捕虜として3年半過ごすことに成りました。

私達3人は、満州の奥地から毎日数十キロ歩いて歩いて歩いて逃げ延び、途中何度も危険な目に遭いましたが、何とかソ連のナホトカ港に辿り着きました。日本の舞鶴港に着くまで、7歳の子供が文句も言わずよく我慢できたと時折思い出す事が在ります。

終戦後日本に帰国出来てから、父のいない我が家は貧乏のどん底でした。母の実家は田舎で、これといって働く所も在りませんでした。海辺でしたので漁師が朝早く漁に出て、漁を終えた船が港に着くと、船から港に漁をした魚を下ろすとき、魚が網から海に落ちてこぼれるのです、その網から落ちた魚を海に潜って拾ってた母の姿が今でも目に焼き付いて居ります。その母の姿を見た時、貧乏で辛いと不平は不満はとても言えませんでした。

母の実家で父が帰国するまでの間、身を寄せ、大きな2階建ての家で、離れには曾祖母が住んで居り、同居してた祖母、叔父叔母、従姉妹達には大変お世話になりました。祖父はすでに他界してましたので、叔父叔母や年老いた祖母に迷惑を掛けまいと、鍬を持つ事も無かった母が農家の畑仕事を手伝ったり、繕い物などの内職をしたり、どんな仕事も頼まれると引き受けてました。

時に自分の大切な着物を売ったり、着物をほどいて、私たち姉妹の服を手縫いで作ってくれ、当時消息も定かでなかった父でしたが、母は食事をする時よくお父さんが日本に帰ってきたら白いご飯が食べられるからと、言ってたことを今でも覚えてます。

終戦後私が小学校1年生の時、遠足で持って行ったお弁当はサツマイモとタクワンでした。中には巻きずしや白いご飯の子供も居ましたが、私は羨ましいとか恥ずかしいとも思いませんでした。満州の奥地から逃げ帰る途中、ず~とコーリャンという野草の実と塩湯の中に一切れのカボチャが浮いてるような食事でしたが、母は食べられるだけで有難いといよく言ってました。日本に帰国してからも父がソ連の捕虜から解放されて日本に帰国するまで、白いご飯は、お正月とお祭りの時だけで、後は殆ど真っ黒な麦飯か、相変わらずコーリャン飯でした。

一方父は、捕虜になった時、同部屋のMさんと親しくなりましたが、その時Mさんは結核を患ってたそうです。捕虜は食べ物を充分に与えられてなかった様で、他の方々は何時もお腹を空かしてたそうですが、何故か父はソ連兵に食事当番に抜擢され、食べ物には困らなかった様です。父は栄養を必要としてるMさんにそっと食事を運んで陰ながらお助けしてたそうです。それでもMさんの病気がだんだん重くなり、Mさんは捕虜から解放され父より早く帰国されました。

その時Mさんは、日本に帰国したら連絡する様にと父にそっとメモを渡してくれたそうです。父は帰国できたことをMさんに報告すると、会社まで来るように言われ、Mさんは大手企業の役員をされて居られ、会って直ぐMさんの子会社に就職することが出来たのです。終戦後の就職難の時、父はMさんにどれ程感謝した事でしょう。帰宅した父が家族でお祝いをしたことを覚えて居ります。その後父は長年勤めお世話になった会社を辞して独立し事業を起こしましたが、Mさんとのお付き合いは他界されるまで続いて居りました。父はお世話になったMさんの恩を生涯忘れる事はありませんでした。

Mさんがお亡くなりになられた後も、奥様に盆暮のお届け物はもちろん、故郷の産物などを時々送ることを欠かすことは在りませんでしたし、何時もMさんとのご縁を大切にし、Mさんのお子さんの結婚式やご家族のお祝い事の時等もお招きいただいて、いろいろ昔話に花が咲いたと、帰宅すると嬉しそうに私達に話してくれてました。

戦後数年間貧乏をして苦労しその後大病を患った母でしたが、81歳で他界するまでの晩年は好きなところに行き、好きなものを食べ、経済的に困る事も無く過ごせたことを何時も有難いと、私達にお父さんのお陰と言って感謝してました。

戦後70数年経ち、終戦当時の事を忘れてる時も在りますが、ささやかな今の幸せを毎朝お仏壇に手を合わせ、亡き両親に感謝して過ごして居ります。

今日も一日笑顔で感謝して過ごせますように!!

 

 

 


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