夫が亡くなって以降、私は何となく自分が少数派に所属させられている気持ちになっていた。
"夫を早くに亡くした可哀想な妻"だったり、
"シングルになって大変そうなお母さん"だったり、
"お父さんがボケちゃって家がひっちゃかめっちゃかになった娘さん"だったり。
自分でも世の中でいう『普通』が何を指しているかも分からないのに、「どうして私は"普通"に"幸せ"になれないのだろう??」と考えていた。
今年の6月。30年振りに寝食を共にした友人ら15名と会えた。18歳で初めて上京した時、都会のど真ん中で一緒に暮らした子達。このために日本全国から集まれたのはSNS発展のお陰だ。
レンタルルームでの2次会、他人の目も気にしなくて良くなったところで、近況報告会になった。自分の中ではどこまで話せば良いかな?と考えたりしながら友人らの近況を聞いていたのだが…。
ある友人は、長らく不妊治療した末に子供は出来ず親の介護が始まったが相変わらず市民楽団でビオラを弾いていると話し、ある友人は子供が2人とも不登校だが下の子と推し活を楽しんでいると話していた。ある友人は大学卒業後就職に失敗し、その後東京を離れ地元に戻り今は母親と2人で暮らしながらやりたかった図書館司書の仕事を始められたと話し、ある友人は引きこもって働くことが出来ない子供のことを話しながら今度フラダンスの発表会があると話していた。別の友人は結婚したが離婚、今は外資系の会社で忙しく働いていると話し、また別の友人は遅めの結婚で授かった子供が2人とも障害を持っている。でも今日ここでみんなと会える時間を作れるくらいには手が離れた、と話していた。
そこにいた全員がそれぞれ深いエピソードを持っていたせいか、私もありのままの自分を話せた。夫の死も両親の介護についても。
取り立て不幸自慢をする感じでもなく、マウントを取るような話し振りでもなく、誰1人感情が昂る様子もなく、みんなが淡々と各々の30年を語るという不思議な時間を共有した。
終わった時には誰もが良い時間だったね、また会おうねと言い合って別れた。私も本当に素敵な時間だったと思う。
あれから私はまだ"普通の幸せ"ってどういうことだろう?と考え続けている。
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