救われるから祈るのではなく祈るから救われるのです、か。
おおよそ全ての祈りは欺瞞だ思っている。
祈りのための祈りを除いて。
しかし、それ自体を目的とした祈りに、若干でも救いの期待をかけないというのは至難の業だ。つまり、動機づけるものが何もないという・・
そもそも、誰に、何に、祈るのか。
もし、故人のことを祈るというのならば、それは自分の中にある表象を含めた故人の有象無象の欠片に祈るということだ。
でも、その時に誰のために祈るのか。
それはもはや自分のためにでしかなくなってしまう。
では、自罰的な祈りはどうだろうか。
それはただのサディズムだ。罰することで何かを得ている。
誰のためにも何のためにもならず、もはや対象すら明確なものを持たない祈りはかくも難しい。
おおよそ全ての祈りは欺瞞だ思っている。
祈りのための祈りを除いて。
しかし、それ自体を目的とした祈りに、若干でも救いの期待をかけないというのは至難の業だ。つまり、動機づけるものが何もないという・・
そもそも、誰に、何に、祈るのか。
もし、故人のことを祈るというのならば、それは自分の中にある表象を含めた故人の有象無象の欠片に祈るということだ。
でも、その時に誰のために祈るのか。
それはもはや自分のためにでしかなくなってしまう。
では、自罰的な祈りはどうだろうか。
それはただのサディズムだ。罰することで何かを得ている。
誰のためにも何のためにもならず、もはや対象すら明確なものを持たない祈りはかくも難しい。