弛まぬ空

酷く個人的かつ内面的な日記

科学たらんとする心理学ー改めて芽生えたもの

2017-11-08 11:49:12 | 思考
前回の記事は、今まで学んだことの他に、

心理学をまじめに考える方法

という本を読んで、改めて心理学を志すことを決意したものである。
自身が自殺念慮という不条理に陥って視野狭窄になっている時でも、認識を拡げなければいけない。

今まで、基本的に公務員(行政、心理)、臨床心理士を目指したのは日本社会という狭い枠内でしか考えていなかった。そして、社会経済的な事情と病状も考えて30まで公務員にウェイトを置いてきた。
甘かった。

甘くて浅い考えでも公務員になるのはごまんといるが、個人的な信念として甘かった。

そもそも、二浪してしかも理転したのは、サイハテの責任に携わりたいという想いだったはずだ。
おそらく、それを変えてしまったのは、大学の生ぬるい環境。
高収入世帯出身の地方の均一な環境で育ち、当たり前のように高学歴を身につけた人達。
そこには根気強さはあっても、内部に苛烈なものを抱えているものはほとんどない。
(例外はいる。特に、部活動の指揮者。)

まあ、変わった末にまた戻ってきたのはいいが、今回学んだことは改めての連帯の重要さ。
一人で研究に没頭するのではなく、科学者たらんとする心理学者がお互いの研究の末に一つの知見にたどり着くこと。
それには独我論は別にすると、ニヒリズムは薄まる。
何故なら、科学者集団が人類の生命の最終責任を取るということが重要で、そのあとに何にも残らなくても、示さなくてはいけない。諸々の悲劇の結末を。
過去に死んでいって、もはや存在も認識も出来ない全てに対して。

心理学は人文科学であるべきではない。
(人間科学という名称もどうかと思うが。)
解釈の多様性を排除しなくてはならない。

この時期にこの本に出会えてよかった。
でも、今まで感銘を受けた本はほとんど海外の翻訳本なのは酷く残念だ。
(哲学は例外だが、彼らの根本的な思考は海外の哲学者の思考が基礎となっている)

文化差を超えて、日本はやはり文系学問で遅れていると言わざるを得ない。
それはもう、臨床心理学を代表してきた人がユング派なのにも示される。
(海外でも精神分析を信奉している人は多いが、この本では精神分析学会に所属する分筆者が精神分析を否定している。)

本当に本気で心理学者たらんとするならば留学だが、金銭病状の問題がつきまとう。

実験⇒⇄臨床(生態)という二項対立ではないこともこの本で分かった。
さて、それを踏まえて、どの心理学を志すか・・

to live

2017-11-08 00:13:38 | 思考
ACIDMANの歌に表題の曲がある。
非常に尖った曲で、人類自体を、生存競争自体を呪った曲で秀逸だ。

ところで、生物が進化していく過程で、人類が進歩する過程で考えられないほどの悲劇がもたらされてきた。
奴隷、虐殺、魔女狩り、強制収容、原爆・・・
いずれ、人類そのものが絶滅するというのに。

(終末論的な考えだが、妥当だと思う。環境問題、太陽の膨張による地球の消滅、もしかしたら宇宙自体の存続が危うい。)

途方もない苦痛の先にあるのは、消滅。

それでも。
生物の、人類の、行き着く先が何であっても。
その過程で生じた知能という概念の最先端が科学という営みがあるのなら私はこの悲劇の歯車になろう。

悲劇の中にいながら悲劇の緩衝装置として。
それが心理学を志す理由。

独裁者には、いや、政治家にすらなれないのだから。

と、考えている時間に、人類にために何匹のノックアウトマウスが死んでいるのだろう。実験用のハエが何匹生まれ死んでいるのだろう。 何匹の犬猫が殺処分されているのだろう。


狂っている・・始原ー生命の誕生から全てが狂っているのなら、サイハテではその責任を取らなくてはいけない。
欺瞞と傲慢の末にここまで到達したという結果を以て。

それならば、何であっても、科学者というものに準拠集団を置いて生きていかなければならない。

14年目の命日ー不条理は不条理しか生まない

2017-11-03 12:10:07 | 思考
14年前の今日、父が亡くなった。
突然ではあるが、長生きは出来ないことは分かっていた。
C型肝炎だったのだ。

地方の田舎のガリ勉・秀才で一橋大学、大手生命保険会社。
昭和のよくある成功パターン。

・・なはずだった。
後にC型肝炎を患っていると発覚するまで。(注射針の使い回しによるが原因とされている)
そしてバブル崩壊による多額の借金を背負うまで

バブル崩壊は当時の異様なムードに気づけなかったのも悪いのかもしれない。投資なふぉすべきでなかった。
だが、病自体は不条理そのものだ。
当時はインターフェロンと生体肝移植しかなかったが、インターフェロンは上手くいかず、父と私は血液型が違い、父の弟からは断られた。
(その時に断固反対したのが、父の弟の妻。名古屋出身で典型的な我の強いタイプ。以来、名古屋が嫌いだ。名古屋の全ての人がそうでないと知りながらも。


今では、別の治療方法もあると聞く。

結局、時代と社会の犠牲者だ。

そして、経済系に堪能で実務で有能な父からこんな激弱な個体が生まれてしまったという悲劇。
とはいっても、父の亡くなり方の経緯や時期が違えば、私が発症して悪化させていた可能性向上低い。

病人の親を持つ子どもがかえってたくましく育つなんて美談も時にある。
私より幼く親を亡くす子どもが立身出世したとかいう話もある。

だが、それらの事例でも病は必要なかったはずだ。

意図的に発症した、予見出来たものでない病は不条理そのもので不条理しか生まない。
いや、その時に周囲がたくましければ、団結連帯すれば、抵抗という強い精神が生まれるのかもしれない。
私にはそれがなかった。

秋口に自殺念慮に毎年襲われるほど悪化するのは、父が亡くなったこの時期特有のムードがあるからかもしれない。
もはや、呪いでしかない。

fateー原点としての作品ー作品に何を求めるか

2017-11-01 00:07:24 | 思考
今更、アニメの映画に誘う友人もいないので、うつ状態を押して一人で映画館まで行ってきた。
関連作品が昨今跋扈しているが、はっきりいってきのこ本人がどれだけ関わっているか謎だし、気にくわないので、やっていない。(zeroのアニメと正当ファンディスクのhollow ataraxiaはやった)

さて、fateとといえば、それまで全くノベルゲーに興味がなかった大学生の自分に高校の友人が無理やり貸し付けてきてしょうがなくやったものだった。
結果、大はまりして、まだしもノベルゲームをやるせな時があるのだ。
元から二次元の18禁シーンには全く興味がなく、多分シナリオ重視と呼べるものを非18禁含めて150本くらいやった。
これは勿論、小説や映画より多い。
(文字数だけで言えば、学術書・参考書の方が多いだろう)

シナリオ重視ということでメッセージ性も求めていた。
何か人生を方向づけるもの、対人、恋愛、色々なものについて考えさせるものを求めていた。
実際に影響を受けたものもある。
(初代fateの3章のなかで今回の映画は一番記憶に残っていなかったが、玄人は三つのうちでこれが一番好きらしい。)

元が18禁ならば恋愛要素は必ずある。

だが、恋愛のみならず人生やその他諸々についてもう影響を受けることはないのだと悟ってしまった。多分、これはノベルゲームだけじゃなく(芸術)作品全て。
今年の9月に心が折れ、内部はこり固まるってしまった。

fateを貸してくれた友人が言っていたように、

死ぬまでの暇つぶしの一環。

それだけ。
濃密な人間描写、緻密なシナリオ構成、どんでん返し、・・全て一つ一つの要素に過ぎない。
皿言うと、もう恋愛ものは二次元三次元問わず、苦痛が紛れ込むだろう。

もう恋愛することは叶わないのだろうから。

それと、暇つぶしならば、メッセージもなにも求めないなら、誰かと感想を言い合えた方が上等な暇つぶしだ。

(ネタバレは控えました)