毎年のことながら、
今年もセンバツ高校野球の出場校が決定しました。
今年は96回大会。
100回の記念大会までも、
あと4年と迫ってきました。
今年は例年通り32校の代表で大会が行われますが、
地区ごとの出場校が若干変更になりました。
出場校が増えたのは東北地区と東海地区で、
それぞれ従来の2校から3校へ。
逆に減ったのは中国・四国地区が5校から4校へ、
そして21世紀枠が3校から2校へ減らされました。
中・四国地区は、
従来は2校ずつ選んだ後、最後の5校目をどちらからか出すという形で選んでいましたがそれがなくなり、
両地区ともに2校ずつ選考されてそれで終わりとなりました。
地区のレベルや学校数を加味した変更という事ですが、
まあ、昨今地区レベルの急激なアップの東北地区は、
当然だと思いますね。
個人的な見解としては、
東海が1増よりは、
東海・北信越で5校ってした方がいいように感じますがね。
さて、2015年から、
選抜出場校に対するワタシの思い出をつらつらと書き綴っていますが、
今年もお付き合いください。
10年経つと、
何回も出場している学校については、
正直書くネタも尽きたという感じで、
前回までに書き綴った記事をそのまま引用しています。
しかし久々の学校となると、
まだまだ「書きた~い」があふれてきて、
ついつい書いてしまいますねえ。。。。
昔のことを思い出して書くのって、
楽しいので。。。。
果たして今年のセンバツはどんな大会になるんでしょうか。
≪選抜出場校 思い出編 1≫
北海道代表 北海 14回目(3年ぶり) 準優勝1回
夏40回出場 準優勝1回 甲子園通算 35勝53敗
昨年夏に出場した北海は、2試合連続のサヨナラ勝ちを決めて、珍しく「2枚腰の野球」を見せてくれました。その前の21年春夏連続出場の時は、左腕の好投手・木村を擁して期待されたものの、春夏連続で神戸国際大付と対戦しいずれも大接戦での1点差負け。その前の17年の夏も神戸国際大附に1点差の惜敗と、何だか3度も同じチームと初戦を戦うなんて、なんだかものすごい確率じゃあ・・・・・と思ってしまいます。いずれの試合も「勝っていてもおかしくない」大接戦で、チーム力が確実に上がってきていることは確かですね。00年代以降北海は春夏9度甲子園に登場していますが、ほぼすべての試合が接戦の試合で、甲子園では力を見せているものの「一歩その壁が敗れない」状況が長く続いていました。「健闘すれども敗れる」チームでしたが、16年決勝に進出したチームや昨年のチームなどは、接戦に強い粘り強いチームとして、上位進出を成し遂げています。北海道では並ぶもののない名門チーム。投打の力強さに粘りが加わってきた近年のチームには、上位進出の期待が高まっています。
前回の記事 ⇒
北海道随一の名門校である北海。春12回、夏はなんと38回もの出場を誇る”超名門校”です。戦前から70年代初めのころまで、それこそ年中行事のように甲子園出場を果たしていた北海ですが、71年の選手権を最後に、82年の選抜出場まで10年余りの「空白期間」がありました。それはワタシがまさに高校野球を見始めた時期とかぶっており、「北海」という名前がワタシの中に刻まれるのは、もうかなり北海道のたくさんの学校がインプットされた後です。しかしながら、その後の活躍、そして北海道の高校野球史を歴史を紐解くたびに登場する「北海」という名前、そしてあの純白に黒のアンダーシャツというまさに「トラディショナルスタイル」ともいうべき伝統のユニフォームを見るたび、心躍るチームとなりました。
さて、北海というと強烈に思い出すのは、やはり記憶にも新しい2016年の夏、大西投手を擁しての決勝進出ですね。松山聖稜戦ではサヨナラ勝ちしたものの非常にまずい試合運びで、上位進出は難しいなあという感想を持ったものでした。しかしこの試合で見せた「接戦をものにする精神力の高さ」はここから存分に発揮されて、日南学園を終盤突き放して勝つと、聖光学院戦では3点のビハインドをものともせずに逆転勝ち。さらに準決勝ではあの鍛治舎監督率いる秀岳館を1点差で振り切って決勝へ。本当に勝負強く、大西投手はピンチでも常に冷静に自分のピッチングをしていましたね。決勝では敗れましたが、この年の一つの華のチームでした。常に好投手と対戦したにもかかわらず、決勝までずっと二けた安打を続けた打線は、北国のどっしりとした安定感を感じさせてくれました。近年はずっと、甲子園に出てくると強豪とすぐに当たってしまう・・・・というイメージがありますが、常に接戦に持ち込んで勝負する姿に、北海道のリーダーたる矜持を感じています。95年の岡崎投手、11年の玉熊投手など、制球力と強気の内角攻めで8強まで勝ち上がった投手達も思い出しますし、また日ハムに進んだ鍵谷投手がエースだったチームで、その鍵谷が前半から滅多打ちされたのに、ひるまず大反撃に出て二けた得点を挙げた(10-15)試合などにも強烈な印象があります。「やっぱり北海が出ないとなあ・・・・」という北海道のオールドファンのつぶやきが聞こえてきそうな、道産子にとっては今も昔も変わらぬ「オレ達のチーム」ですね。
21世紀枠 別海 初出場
夏 出場なし
21世紀枠で出場を決めた別海。過去20年ぐらいの戦績を見ても、公式戦でほぼ3連勝をしたことがないぐらいの普通のチームです。その別海が昨秋は地区大会、全道大会で5連勝、見事4強まで進出して「すごいなあ」と話題になっていたと思ったら、なんと21世紀枠をつかんで甲子園に登場してきます。さあ、どんなチームなんでしょうか。敗れた北海戦でも8回までは接戦を展開し、粘り強さを持っているチームだと思います。北海道はもちろん、全国と同じように私学の強豪チームが甲子園出場の中心ではありますが、時折公立のいいチームが甲子園に出場してくることがありますね。今年の別海もそうですが、かつてでいうと遠軽、女満別、旭川南、鵡川、苫小牧東、知内、滝川西らが甲子園の土を踏んでいます。なんだかワタシ、北海道からくる公立校の試合、妙に頭の中にインプットされていて、よく覚えています。なんでだかわかりませんけど。どのチームも上位まで勝ち上がっていくことはありませんが、それなりにいい戦いを見せてくれたなあ・・・・という感想を持っています。まさに無欲で戦ってくれるところが、いいのかもしれません。今年の別海にも、なんだかそこはかとなく期待、持っちゃっています。
東北代表 青森山田(青森) 3回目(8年ぶり)
夏11度出場 甲子園通算 12勝13敗
さあ、青森山田が17年夏以来の甲子園登場です。00年代までは青森の雄として、八戸学院光星と「青森2強」時代を築きましたが、それ以降は大きく水をあけられて、10年代に入ってからは甲子園出場はわずか2度、勝利もわずか1勝に終わっています。現在栄華を極めるサッカー部が今年の正月を含めて、高校野球界でいう大阪桐蔭のような『絶対王者』に君臨しているのと比較すると、非常に寂しい成績になっています。しかしこの秋は八戸学院光星を県大会と東北大会の決勝で2度連続で破り、東北No1に輝いての甲子園帰還となりました。青森山田といえば強打の光星に対して堅守の山田というイメージがあります。活躍する年は必ず好投手がマウンドを死守し、堅く守りを固めて主導権を握っていく野球です。思えばサッカーもそうですね。堅固な守りで相手に得点を与えないことをベースとしたサッカーです。あのサッカーのように、野球も聖地・甲子園で輝きを放てるのか?注目度は高いですね。個人的には、サッカーの決勝を戦った近江と、野球でも甲子園で、激突してほしいところではあります。
前回の記事 ⇒
青森山田というと、かつて昭和40年代、あの三沢高校以降ずっと≪野球弱小県≫と言われた青森の野球界に大革命を起こして全国レベルに引き上げた大功労高という印象です。センバツはなんと2度目。初出場の時は、プロ注目の柳田投手を擁して期待されたものの、初戦で沖縄尚学に完全に攻略されての完敗。意外ですが、その時しか出場がありませんので、完全に『夏型』のチーム作りを進めている高校ということですね。初めての甲子園登場は93年夏のこと。この時は青森山田と聞いても全くピンと来ず、また当たった相手が優勝候補の近大付(大阪)。案の定大敗して苦い”初体験”となるのですが、その時覚えているのが、若い監督に率いられユニークな練習をする高校ということ。ニュースで見た映像の中では、選手たちはグラウンド練習の時、事あるごとにグラウンドの土を顔に塗りつけていたということ。確か『グラウンドと一体になり、普段の力を出すため』の練習だったかと。。。。。『ユニークだなあ』と思ったのをよく覚えています。しかしこの青森山田、90年代後半から00年代にかけて黄金時代を築きます。95年に兵庫代表に競り勝って初勝利を挙げたのにも驚きましたが、99年には好投手を擁した粘りの戦いで8強に進出。翌年ライバルの光星学院が4強に進出し、翌々年も8強に進出して、すっかり青森代表は『強豪』という認識になる契機となった大会でした。1,2,3回戦はもとより、敗れた準々決勝に至るまでの4試合、すべて九州の強豪に当たり、そして次々と撃破していったその戦いぶりは見事なものでした。04年からは6年連続の甲子園出場。強豪の名をほしいままにして、『全国制覇』の夢に一歩近づいたと思われましたが、その後は強烈な巻き返しを図った光星学院に押されて、今大会までは6年間まるまる『甲子園欠席』という厳しい期間を体験しました。その苦しい時期を乗り越えての今回の久々の甲子園帰還だけに、関係者の喜びはひとしおでしょうし、やったるでの気持ちも強いのではないでしょうか。期待できますね。
東北代表 八戸学院光星 (青森) 11回目(5年ぶり) 準優勝1回
夏12度出場 準優勝1回 甲子園通算34勝22敗
言い古されてはいますが、八戸学院光星は最初に大旗を東北の地に持ち帰る学校だろうと期待の高かった学校です。2010年、11年の3季連続甲子園決勝進出は、全国のどの学校もが成し得なかった輝く金字塔です。しかし10年代に入って一時、少し力を落としたのかな?と思われた時期もありました。その時期にグイグイと力を伸ばしたのが仙台育英であり、花巻東、聖光学院でした。そして2022年に仙台育英が初めて大旗を東北の地に持ち帰りました。口には出さずとも、八戸学院光星にとっては、悔しい想いを抱く出来事だったに違いありません。しかしここ数年、また八戸学院光星が力を伸ばし始めている実感があります。特に自慢の強打は現在も全国屈指の威力を持っていて、相手チームを震撼させています。これに好投手が絡めば必ず全国の頂点まで駆け上がれる、と投手陣の整備に余念がありませんが、今年のチームは「大エース」の雰囲気を漂わす洗平投手が君臨、期待も高まっています。思えば洗平投手の父の洗平投手は、光星学院(旧校名)が初めて甲子園に出場するためもがき苦しんでいた時の、学校が初めて生んだキラキラと輝きを放つ全国レベルの”大エース”でした。そのDNAを受け継ぐ「生粋の光星っ子」洗平投手は、何かをやってくれる雰囲気をぷんぷん漂わせています。今年の光星からは、目が離せないですよ。
前回の記事 ⇒
八戸学院光星といえば、「東北に初めての大優勝旗を持ち帰る学校の最有力候補」と言われて久しく、彼らが光輝いた2011年、2012年の2年間には、なんと3季連続甲子園で決勝に進出するという離れ業をやってのけました。しかしその3度とも決勝で一敗地にまみれ、宿願の「大旗」までは到達していません。今や東北のみならず全国の舞台でも相手を震え上がらせる威力を持つ『光星』ブランド。選抜は3年ぶりとはいえ、前回の選抜から今回までの間に、夏は2度甲子園に出場。そして特筆すべきなのは、”あの”2011年のチーム以来、甲子園に登場すること10度で、そのすべてで初戦突破を果たしていることです。「簡単には負けないチーム」として、完全に甲子園ファンに定着したそのチーム力は、今年も他校の脅威になることでしょう。今年こそ快進撃。。。。。東北の高校野球ファンは、そう願っているはずです。
前回出場時の記事 ⇒
八戸学院光星というより、光星学院と言った方がまだ、通りはいいですね。現在の仲井監督はとてもいい監督だと思いますが、やはりこの学校の躍進には、”中興の祖”とでもいうべき金沢監督の印象が強いですね。大阪・桜ノ宮―東北福祉大という道を経て当時の”野球弱小県”であった青森で全国制覇を狙うという大きな望みを持ったこの指揮官に率いられて、チームはどんどん強さをまとっていき、『東北初』の全国制覇まで、3季連続で迫ったという全国でも類を見ない成果を上げたことは特筆に値しますね。3季連続で決勝に進出したチームには、エース秋田、主砲川上(ヤクルト)、エース金沢、主砲田村(ロッテ)北條(阪神)らのキラキラ輝く選手が続出。その前にも坂本(巨人)らの好選手を輩出する学校ですが、ワタシがこの学校で特に印象に残っているのは、甲子園初出場を目指していた時のエースである洗平(元中日)ですね。もうすぐそこまで手が届いている甲子園切符を、最後の最後でつかみ損ねている様子に、遠くから声援を送っていたものです。『いつかこの手に甲子園を。かもめと一緒に、あの大舞台に行くんだ』という特集を読んで、『いったいいつになったら、この光星学院に会えるのかなあ』と楽しみにしていたことを思い出します。今まで3度の決勝進出では、日大三、大阪桐蔭という強豪で、しかもピークの年のチームが相手でなかなか自分の力を出すことが出来なかったのですが、四度目の全国制覇挑戦の際には、ぜひ自分の力をすべて出して栄冠を勝ち取ってほしいと思っています。この光星を中心に、今では同県の青森山田をはじめ、仙台育英、聖光学院、花巻東、日大山形など、『全国制覇を狙える東北代表』が毎大会甲子園の大舞台で大暴れしています。『東北初の全国制覇をぜひわが手で』と思っている名指揮官は多く、
いまや『いったい東北初の栄冠は誰の手に』が、甲子園ファンの最大の注目点と言ってもいいかもしれません。さあ、このセンバツでチャンスを得た八戸学院光星。今年のチームも、波に乗れば頂点まで駆け上がる力は十分。いったいどんな戦いを見せてくれるのでしょうか。
東北代表 学法石川 (福島) 4回目(33年ぶり)
夏 9度出場 甲子園通算 4勝12敗
あの学法石川が、ひさしぶりに甲子園に戻ってきました。かつて仙台育英を率いて何度も甲子園の土を踏み、2度の準優勝に輝いた名将・佐々木監督とともに。春の選抜はなんと33年ぶり、夏も99年に甲子園の土を踏んで以来四半世紀も、甲子園からは遠ざかっていました。学法石川を創成期から鍛え上げて甲子園の常連にした東北の名将・柳沢監督は、その学法石川最後の甲子園となった99年、当時総監督だった岡山理大付戦のアルプスで倒れ、帰らぬ人となりました。学法石川といえば柳沢監督、柳沢監督といえば学法石川・・・・・といわれていた時代。毎年夏の大会前から「福島は学法石川で決まり」なんて言われていましたっけ。特に80年代から90年代初頭にかけては、宮城の東北、そして星稜、福井商などと並んで、年中行事のように甲子園に出場してきていました。その学法石川の甲子園初出場は1976年。極上の本格派左腕・鈴木投手を擁してのものでした。まだまだ東北は雪深い「野球不毛の地」というイメージが先行していた時代でしたが、鈴木投手はセンセーショナルなピッチングを見せてくれました。春は鹿児島実に0-2,夏は中京に0-1と敗れはしましたが、投げおろす速球の威力は素晴らしかったですね。ちなみに相手であった中京のエース千賀は、現在のメッツの千賀の叔父にあたります。敗れたとはいえ素晴らしい投手戦を見せた学法石川、非常に印象深いチームで、今後に期待を持たせてくれました。次に出場したのが83年。この時は強打のチームに衣替えをして甲子園初勝利を挙げ、次の試合も勝って2勝。これが現在に至る学法石川の最高成績となっています。その後は毎年甲子園には出るものの「出ると負け」の状態が続きました。要因は明らか、投手陣が整備されていないことでした。「初出場の時は、あの鈴木を擁していたのに」と思っていたワタシを驚かせたのが91年のエース川越投手(元オリックス)。小柄ながら小気味のいい投球で、学法石川を春夏ともに初戦突破に導きました。 しかしその後はまた甲子園で勝てない年が続き、そのうち90年代は日大東北に、そして00年代からは聖光学院に覇権を奪われ、ずっと甲子園には届かないチームとなってしまっていました。柳沢(総)監督が去った後、やはりチームは迷走を続けたんでしょうね。その間聖光学院は「負けない力」を身に着けて、もう20年以上も県内の覇権を独占し続けています。5年前に仙台育英の佐々木監督を招聘し、聖光学院に勝負を挑みますが跳ね返され続け、ようやくこの選抜で聖光学院を超え出場にこぎつけました。最近の学法石川がどんな野球をするのか、皆目わかりませんが、福島では聖光学院1強時代に風穴を開ける名門の再浮上に、期待も大きいと思います。
(つづく)